真実な証し 2011年5月15日(日曜 朝の礼拝)

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真実な証し

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 21章20節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:20 ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。
21:21 ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。
21:24 これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。ヨハネによる福音書 21章20節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 2009年1月11日からヨハネによる福音書の連続講解説教を始めましたけれども、今朝はその最後になります。私たちはおよそ2年5ヶ月にわたってヨハネによる福音書を御一緒に学んできたわけです。

 先週私たちは、イエス様とシモン・ペトロとの対話について学びました。イエス様が「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか」と問い、ペトロが「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることはあなたがたご存じです」と答えたことが、三度記されておりました。そして、イエス様はペトロに神の栄光を現す死、殉教の死を予告されたのであります。イエス様はペトロに殉教の死を予告されて、「わたしに従いなさい」と言われたのです。

 今朝の御言葉はその続きでありまして、ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。今朝の御言葉は、復活されたイエス様が七人の弟子たちに現れてくださり、朝の食事をふるまってくださった後の出来事でありますから、ここにはペトロの他に六人の弟子たちがいたはずでありますが、イエスの愛しておられた弟子だけが言及されております。イエスの愛しておられた弟子は、ゼベダイの息子のヨハネと伝統的には考えられておりますが、この福音書においては、ペトロと並ぶ代表的な弟子として記されています。第20章では、ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子が、空の墓まで一緒に走ったことが記されておりました。ペトロともう一人の弟子ははりあうような関係にあったわけです。ペトロはイエス様から殉教の死を死ぬことになるとの御言葉をいただきましたが、それではこの弟子はどうなるのだろうか。。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いました。するとイエス様はこう言われたのです。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」。ここでの「わたしの来るときまで」とは、「イエス様が裁き主として再びこの地上に来られるときまで」のことであります。イエス様はただ、「あなたに何の関係があるか」と言われたのではなくて、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われました。このことはイエス様への従い方が、ペトロと愛する弟子とでは異なることを教えております。ペトロは殉教の死によってイエス様を証しするのですが、愛する弟子は長生きをしてイエス様を証しするようになるのです。23節の前半に、「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」とありますけれども、そのようなうわさが広まるほどに、愛する弟子は長生きしたわけです。ペトロが紀元64年頃にローマ皇帝ネロの迫害によって、逆さ十字架につけられて神の栄光を現した後も、愛する弟子は生き続けた。この弟子は死なないというわさが広まるほどに長生きした。しかし、この福音書が世に出された頃、紀元90年頃には、どうやら死んでいたようでありますね。それで、23節の後半にはこう記されているわけです。「しかし、イエスは彼は死なないと言われたのではない。ただ、『わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか』と言われたのである」。「わたしが来るときまで、この弟子は生きていることをわたしは望む」とイエス様が言われたといううわさが広まっている中で、この弟子が死んでしまったことは、当時の教会にとって衝撃であったと思います。イエス様は御自分が来るときまで、彼が生きていることを望むと言われたのに、この弟子は死んでしまった。それではイエス様が来るという約束はどうなってしまうのだろうか?そのような混乱が生じたと思われるのです。そのような誤解を取り除くために、ヨハネによる福音書は、「しかし、彼は死なないと言われたのではない」と断言し、イエス様が、「あなたは、わたしに従いなさい」と言われたことを記すのです。

 私たちも、イエス様からそれぞれ「わたしに従いなさい」とのお声をかけていただき、イエス様の弟子として歩み出した者たちでありますけれども、その従い方はそれぞれ違いまして、私たちにはそれぞれにイエス様から定められている歩みがあるわけであります。そして、そこに優劣はないのでありますね。殉教したからペトロの方が、長生き愛する弟子よりも優れているということはないのです。私たちに求められていることは、この人はどうなるのだろうか、あの人はどうなるのだろうかと言って他の人を見ることではなくて、イエス様だけを見つめて、イエス様に従っていくことなのです。あの人はイエス様に従っていないのではないか。あの人はイエス様によく従っているなぁと他の人を評価するのではなく、イエス様から自分に備えられた道を、イエス様だけを見つめて従っていく。そのことが今朝私たちに求められているのであります。そのためには、私たち一人一人が自分はどのような者としてイエス様に従うように求められているのかをもう一度確認する必要があると思います。イエス・キリストを主と信じ洗礼を受け、あるいは信仰告白をして教会の一員となった者たちはいずれも、神と教会の前に六つの誓約をしております。今朝はそれを私たち一人一人が神と教会の御前にした誓約として確認したいと思います。

 (   )、あなたは、次の信仰を告白し、誓約をしなければなりません。これによって、あなたは神と教会との厳かな契約に入れられます。

1.あなたは、天地の造り主、唯一の行けるまことの神のみを信じますか。

2.あなたは、自分が神の御前に罪人であり、神の怒りに値し、神の憐れみによらなければ、望みのないことを認めますか。

3.あなたは、主イエス・キリストを、神の御子、また罪人の救い主と信じ、救いのために、福音において提供されているキリストのみを受けいれ、彼にのみより頼みますか。

4.あなたは今、聖霊の恵みに謙虚に信頼し、キリストのしもべとしてふさわしく生きることを、決心し約束しますか。

5.あなたは、最善を尽くして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持することを、約束しますか。

6.あなたは、日本キリスト改革派教会の政治と戒規とに服し、その純潔と平和とのために努めることを約束しますか。

 私たちはこの六つを神と教会の前に慎んで誓約したわけです。それは私たち一人一人に求められているイエス様への従い方であります。私たちはそれぞれにこの誓約を思い起こして、イエス様に従っていきたいと思います。一つだけコメントしますと、第五項に「あなたは最善を尽くして教会の礼拝を守り、その活動に奉仕し、教会を維持することを、約束しますか」とありますけれども、「最善を尽くして」という言葉は、「教会の礼拝を守り」だけではなく、「その活動に奉仕し」と「教会を維持すること」にもかかります。何が最善であるかはその人によって違うわけですから、このことを弁えるだけでも、私たちは他の人と自分を比較することから自由になれるのではないかと思います。

 またイエス様から役員として召された者は、その職務についたときの誓約を思い起こして、牧師は牧師として、長老は長老として、執事は執事としてイエス様に従うことが求められております。牧師、長老、執事がどのような働きを求められているのかを政治規準を通して確認したいと思います。牧師の任務については政治規準の第46条一項に次のように記されています。

 牧師の任務は、次のとおりである。

1.ゆだねられた群れのために、また群れと共に祈ること。

2.御言葉の朗読・解説・説教によって群れを養うこと。

3.礼拝の賛美と祈祷を指導すること。

4.礼典を執行すること。

5.教理を教え、教会員及び求道者を教育すること。

6.伝道者として伝道に励み、伝道活動を指導すること。

7.教会員、特に、貧しい者・病める者・悩める者・臨終の床にある者を訪問すること。

 また長老の任務については政治規準の第55条に次のように記されています。

 治会長老が、長老として個別的に、あるいは小会議員として共同的に行う任務は、次のとおりである。

1.ゆだねられた群れの中に、教理と道徳の腐敗が生じないように見守ること。

2.個人的訓戒によって正し得ない悪事を、小会に知らせること。

3.教会員の家庭を訪問し、病める者を見舞い、悲しむ者を慰め、教会員を教え、契約の子を養い守ること。

4.個々のキリスト信者が愛の律法によって果たすべき一切の義務を、特に治会長老として果たすこと。

5.教会員と共に、また教会員のために祈ること。

6.説教の結ぶ実を、注意深く見守ること。

7.教会員の身体的・霊的問題で、牧会的配慮を要する事柄を、牧師に知らせること。

8.御言葉を教えることに努め、教会員に率先して伝道すること。

 最後に執事の任務については政治規準の第58条に次のように記されています。

 執事の任務は次のとおりである。

1.貧困・病気・孤独・失意の中にある者を、御言葉とふさわしい助けをもって励ますこと。

2.献金の祝福を教会員に勧め、教会活動の維持発展のために及び愛の業のためにささげられたものを管理し、その目的にふさわしく分配すること。

3.教会会計及び教会財産の維持・管理を小会の監督の下に行うこと。ただし、財政上の重要な事項は、会員総会の議を経て行わなければならない。

4.個々のキリスト信者が愛の律法によって果たすべき一切の義務を、特に執事として果たすこと。

5.教会員と共に、また教会員のために祈ること。

6.牧会的配慮を要する事柄を、牧師に知らせること。

7.伝道すること。

8.諸集会のために配慮すること。

9.教会内外の執事的必要を調査し、教会員に訴えること。

 このように牧師、長老、執事の職務にそれぞれ召された者は、それぞれの任務を忠実に果たすことによって、「あなたは、わたしに従いなさい」というイエス様の御言葉にお応えしていくのです。

 宗教改革者のカルヴァンは、キリストには預言者、王、祭司の三つの務めがあると教えました(綱要2:15参照)。このキリストの三職論は後に類比的に教会の職務について言われるようになりました。すなわち、預言者職は教師によって、王職は長老によって、祭司職は執事によって果たされると理解されるようになったのです。教師はキリストの預言者職を教会において担う。長老はキリストの王職を教会において担う。執事はキリストの祭司職を教会において担うのです。それゆえ、教師、長老、執事がそれぞれの任務に忠実に励むとき、私たちの教会はキリストの体としてふさわしく整えられ、活動していくことができるのです。

 私たちがそれぞれに六つの誓約に忠実に歩み、教会役員がそれぞれの任務に忠実に励むとき、そこに今も生きているイエス・キリストを証しする、キリストの体なる教会が形成されていくのです。

 24節に、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と記されています。ここでの「わたしたち」は、この弟子の弟子たち、すなわちヨハネの弟子たちと考えられます。ヨハネによる福音書は使徒ヨハネが死んでから、その弟子たちの手によって書物として公にされたのです。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」。「この弟子」については、20節でこう記されておりました。「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、『主よ、裏切るのはだれですか』と言った人である」。この弟子にまつわるエピソードはいくつもあるのですが、なぜ、このことが言及されているのでしょうか?それはこの記述が、第1章18節の御言葉と並行関係にあるからです。第1章18節にはこう記されておりました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。神のふところにいる独り子だけが神を示されたように、イエス様のふところにいる愛する弟子だけがイエス様を証しすることができるのです。それゆえ、ヨハネの弟子たちは、「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」と記すことができたのです。24節を元の言葉で見ますと、「書いた」は過去分詞で、「証しをし」は現在分詞で記されています。この弟子は福音書を通して、今も証しし続けているのです。イエス様が来る前に、ヨハネは死にましたけれども、彼はその書物を通して証しし続けているのです。それは、偉大な作家の書物が時代を越えて読み継がれているということだけではありません。天に昇られたイエス様が遣わされたパラクレートスである聖霊の導きによってこの福音書が書かれたゆえに、その証しはいつまでも有効であるのです。イエス様は第14章25節、26節でこうおしゃいました。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ヨハネによる福音書は、この聖霊のお働きによって記されたものであります。それゆえ、聖霊はヨハネの証しを用いて、私たちにも、「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」との確信を与えてくださるのです。私たちは二年と五ヶ月に渡って、主の日の礼拝においてヨハネによる福音書を読み、その御言葉の恵みにあずかって参りました。そのようにして、私たちは現代の日本において、ヨハネの証しが真実であること身をもって証ししてきたのです。私たちは彼の証しが真実であることを知っているがゆえに、彼が記した証しの言葉に真摯に耳を傾けてきたのです。

 ペトロは殉教の死を予告されましたけれども、殉教者と訳されるマルトゥスという言葉は元々は証人という意味でありました。自らの命をもってイエス様を証しするゆえに、マルトゥスはいつしか殉教者を意味するようになったのです。愛する弟子であるヨハネは、ペトロのように殉教者にはなりませんでしたけれども、彼は生き長らえて福音書を書くことによってイエス様を証しする者となったのです。先程わたしは、私たちにはそれぞれイエス様に従う道が備えられていると申しましたけれども、しかし、そこで共通して言えることは、私たちはイエス様に従うことによって、イエス様を証しするということであります。それは教会の活動に限られるものではなくて、それぞれの家庭や学校や職場においても言えることであるのです。私たちはそれぞれの家庭や学校や職場においてもイエス様を証しする者、神の栄光を表すものとして召されているのです。

 25節に「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれいないであろう」と記されています。ここでの「わたし」が誰であるのかは分かりませんが、ヨハネの弟子の一人で、最終的な編集の責任を負った者と思われます。この言葉は明らかに誇張でありますが、このように記すことによって、イエス様の偉大さがほめたたえられているわけです。私たちは汲めど尽きないイエス様の恵みの御業の中から、わずかなものを学ばせていただきました。その学びを今朝こうして終えることができますことを心から主に感謝したいと願います。

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