わたしを愛しているか 2011年5月08日(日曜 朝の礼拝)

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わたしを愛しているか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 21章15節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。ヨハネによる福音書 21章15節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 先週私たちは、ティベリアス湖畔において復活されたイエス様が七人の弟子に現れてくださったことを学びました。イエス様は朝の食卓を整えて、漁を終えた弟子たちを迎え入れてくださいました。今朝の御言葉には、その食事を終えての、イエス様とシモン・ペトロとの対話が記されています。「シモン・ペトロ」の「ペトロ」とは、イエス様がシモンにつけられたあだ名、ニックネームでありました。イエス様はシモンと最初に出会ったときに、ペトロというあだ名を付けられたのです。第1章40節から42節にこう記されておりました。

 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしはメシア-『油を注がれた者』という意味-に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ-『岩』という意味-と呼ぶことにする」と言われた。

 「ケファ」は当時のユダヤ人が用いていたアラム語でありますが、そのギリシャ語訳が「ペトロ」でありました。このようにシモンはイエス様から「岩」を意味するケファ、ペトロというあだ名をいただいたのであります。しかし、今朝の御言葉において、イエス様は「ペトロ」とは呼ばれず、「ヨハネの子シモン」と呼びかけております。これはペトロに対する最も正式な呼びかけであると言えます。当時のユダヤ人は、名字を持っておりませんでしたから父親の名前を用いて、何々の子誰々と言い表したのです。イエス様はシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われました。「この人たち以上にわたしを愛しているか」。このイエス様の問いは、「この人たちがわたしを愛している以上に、あなたはわたしを愛しているか」という意味であります。ここで、イエス様は愛に優劣をつけているように読むことができます。ペトロに他の弟子たち以上の愛を求められたと読むことができるのです。けれども、イエス様がそのようなことを求められたとはどうも考えにくいのであります。「この人たち以上にわたしを愛しているか」というイエス様の問いは、二度目、三度目には記されておらず、ここだけに記されています。ですから、イエス様はかつてのペトロの高ぶりを戒めるために、このように問われたと理解するのがよいと思います。イエス様が十字架につけられる前夜、いわゆる最後の晩餐において、ペトロはこのように語っておりました。第13章36節から38節をお読みします。

 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 ここでペトロは、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」と語っておりました。「あなたのためならわたしは命を捨てることができる。わたしはそれほどまでにあなたを愛している」とペトロは語ったのです。このペトロの言葉は立派なものでありますが、どうやらそこには他の弟子たちよりも自分はイエス様を愛しているという自負心があったようであります。マルコによる福音書の並行個所を見ますと、イエス様が弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまづく」と言われれると、ペトロは、「たとえ、みんながつまづいても、わたしはつまずきません」と言ったことが記されています。そのようなペトロの心を見抜かれて、イエス様は、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われたのです。しかし、このときペトロは、「はい、主よ、わたしはこの人たち以上にあなたを愛しています」とは答えませんでした。ペトロの答えを見ますと、他の弟子たちとの比較についてまったく触れておりません。ただペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と、自分のイエス様に対する愛について控えめに答えたのでありました。そして、そのようなペトロに、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われたのです。「わたしの小羊」とは、羊飼いであるイエス様の声を聞き分け、ついて行く弟子たちの群れ、教会のことであります。イエス様は第10章14節から16節でこう仰いました。

 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

 羊のために命を捨てられた良い羊飼いであるイエス様は、ヨハネの子シモンに、御自分の羊たちを飼うようにとお命じになるのです。

 そして、二度目にイエス様はペトロにこう言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。イエス様はそれを受けて、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。イエス様は再度ペトロに御自分への愛を問われたわけです。しかしそれだけでは終わらず、イエス様はさらにもう一度ペトロに御自分への愛を問われるのです。三度目にイエス様は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。なぜ、イエス様は三度もペトロに対して、「わたしを愛しているか」と問われたのでしょうか?それはかつてペトロがイエス様との関係を三度否定したからであります。「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とありますけれども、ペトロは、イエス様から「わたしを愛しているか」と三度問われたことによって、かつて自分がイエス様との関係を三度否定したことを思い起こしていたのです。イエス様が捕らえられた夜、ペトロともう一人の弟子はイエス様に従って、大祭司の屋敷の中庭へと入りました。そこで、ペトロはイエス様が予告していたとおり、三度イエス様のことを知らないと言ったのです。第18章17節、18節にこう記されておりました。

 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。僕や下役たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

 飛んで25節から27節にはこう記されています。

 シモン・ペトロは立って火にあたっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と言うと、ペトロは打ち消して、「違う」と言った。大祭司の僕の一人で、ペトロに片方の耳を切り落とされた人の身内の者が言った。「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたのではないか。」ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

 このようにペトロは、イエス様との関係を三度否定したのでありました。そのペトロに復活されたイエス様は、「わたしを愛しているか」と三度問われるのです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。この三度目のイエス様の問いに対して、ペトロは悲しみながらこう答えました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。これまでシモンは、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えてきました。シモンは、「はい、主よ」と答えながらも、「そのことをあなたは知っています」と控えめに言い表してきました。シモンはかつてイエス様を三度知らないと言ったことをうしろめたく思っていたがゆえに、このように答えたと思われます。ですからペトロは、「わたしがあなたを愛していることを、わたしは知っている」と言わずに、「わたしがあなたを愛していることは、あなたが知っています」と答えたのです。イエス様に対する愛の確かさを、ペトロは自分ではなくて、イエス様ご自身に置いているのです。三度目のペトロの言葉、「主よ、あなたは何もかもご存じです」の「何もかも」には、かつてペトロが大祭司の屋敷の中庭でイエス様との関係を三度否定したことも含まれています。イエス様は、ぺトロが御自分との関係を三度否定したことを打ち消すかのように、イエス様はペトロに三度御自分への愛を告白する機会を与えられるのです。ペトロは三度目も「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えました。ここでも、ペトロはイエス様に対する愛の確かさを自分にではなく、イエス様に置いております。イエス様はこのようなペトロを受け入れてくださいました。そして、イエス様はペトロに御自分の羊たちの世話をするようにとお命じになるのです。

 最後の晩餐において、ペトロがイエス様に言った言葉、「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」という言葉は、偽りのない本心からのものであったと思います。ペトロは命を捨ててでもイエス様について行こうと覚悟を決めていたわけです。そして、大祭司の屋敷の中庭において、イエスの弟子の一人ではないかと問われて、「わたしはそうではない」と答えたのもいつわりのない本心からのものであったと思います。ペトロはそのような自分をイエス様はご存じであられる。わたしがわたしについて知っているよりも、イエス様はわたしのことを知っておられる。そのイエス様から「わたしを愛しているか」と問われたときに、ペトロは「わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」としか答えることができない。そして、その答えをイエス様は受け入れてくださる。ペトロがイエス様を愛していることを知っているがゆえに、御自分の羊たちを飼うようにとペトロにお命じになるのです。ペトロのイエス様への愛は、具体的にはイエス様の羊を飼うこと、イエス様の羊の世話をすることによって表されるのです。

 「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年を取ると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

 ここでイエス様はペトロがどのような道を歩むことになるかを神の御子の権威をもって語られました。「はっきり言っておく」と訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、アーメン、わたしはあなたに言う」となりまして、これはイエス様が権威を持って語られるときの決まった言い回しであります。ここでイエス様が言われた御言葉は、もともとは当時のことわざではなかったかと言われています。若いときは、体も自由に動きまして、自分で帯を締めて、自由に行きたいところに行くことができる。しかし、年をとると体が自由に動かなくなり、何かにつかまろうとして両手を伸ばすようになる。また誰かに帯を締めてもらい、行きたくないところへ連れて行かれるようになると言うのです。しかし、このイエス様の御言葉はただペトロが年をとったら誰かにお世話してもらうようになることを告げているのではないことは明かであります。と言うのも福音書記者ヨハネは19節でこう記しているからです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」。このヨハネの注釈に従ってイエス様の御言葉を読みますとき、イエス様はペトロに、殉教の死を予告されたことが分かります。それゆえ、「両手を伸ばし」とは、十字架に磔にされる際に両手を伸ばすことであり、「帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる」とは縄で縛られて、処刑場へと連れて行かれることを意味していると読むことができるのです。そして伝説によれば、ペトロは紀元64年頃、ローマ皇帝ネロの迫害によって、逆さ十字架の刑に処せられて殉教の死を遂げたのであります。イエス様はペトロに殉教の死を予告されて、「わたしに従いなさい」と言われました。このようにして、ペトロはようやくイエス様に従うことができるものとされたのです。最後の晩餐の席において、イエス様はペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」と言われましたけれども、ペトロがイエス様について来ることになる時がいま来たのです。ペトロは十字架の死から復活されたイエス様から「わたしに従いなさい」との御言葉をいただいて、死を越えてイエス様に従うことができる者とされたのです。ペトロは、復活されたイエス様から聖霊を受けたことによって、イエス様を愛することができる者とされたのです(20:22参照)。第17章にはイエス様の祈りが記されておりましたけれども、その25節、26節でイエス様はこう祈られました。

 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らのうちにいるようになるためです。

 御父の霊である聖霊は、御子を愛する霊でもあります。その聖霊を受けることにより、ペトロに、また私たちにイエス様を愛する愛が与えられたのです。生まれながらの人はだれもイエス様を愛することはできません。御子を愛する御父の霊を受けて初めて、人はイエス様を愛することができるのです。ですから、ペトロはイエス様に「わたしがあなたを愛していることを、あなたはご存じです」と答えたのです。わたしがイエス様を愛していることを、イエス様が知っておられる。それほど確かなことはないと私たちはイエス様にすべてをおゆだねすることができるのです。そして、ここに私たちのイエス様への愛の確かさがあるのです。たとえ、年老いて自分がイエス様を愛しているかどうかが分からなくなったとしても、主はそのことを知っておられる。殉教の死を遂げることなく、誰かのお世話になって生きようとも、その人はいま神の栄光をあらわしているのです。

 今朝イエス様は私たち一人一人にも、「あなたはわたしを愛しているか」と問われております。私たちに求められていること、それは何より主イエスを愛することであるのです。主イエスを愛する愛から、私たちのすべての奉仕が始まるのです。私たちの最大の奉仕は礼拝でありますけれども、この礼拝も主イエスを愛する愛によって成り立つのです。イエス様への愛から、教師は教師の職務に、長老は長老の職務に、執事は執事の職務に励むのです。イエス様への愛からそれぞれの奉仕に励むのであります。そのようにして私たちも今朝、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたいと願います。

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