復活されたイエス 2011年3月27日(日曜 朝の礼拝)
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復活されたイエス
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- 村田寿和 牧師
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ヨハネによる福音書 20章11節~18節
聖書の言葉
20:11 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
20:12 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
20:13 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
20:14 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
20:15 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
20:16 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
20:17 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
20:18 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。ヨハネによる福音書 20章11節~18節
メッセージ
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序.
今朝はヨハネによる福音書第20章11節から18節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。
本論1.なぜ泣いているのか
11節から13節までをお読みします。
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
前回学びました10節に「それから、この弟子たちは家に帰って行った」とありますが、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。シモン・ペトロとイエスが愛しておられたもう一人の弟子は空っぽの墓と残された亜麻布を見て、家に帰ってしまったのでありますが、マグダラのマリアは墓の外に立って泣いていたのです。マグダラのマリア、この人はルカによる福音書第8章の記述によれば、イエス様から七つの悪霊を追い出していただ人であり、自分の持ち物を出し合って、イエス様一行に奉仕していた婦人たちの一人でありました。週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、イエス様の墓に行き、石が取りのけてあったのをペトロともう一人の弟子に伝えたのは、このマグダラのマリアでありました。マリアが墓の外に立って泣き続けていたこと。このことはマリアの悲しみの大きさを表しています。ある書物に「悲しみとは愛するものを失ったことに対する心理的反応である」とありました(斉藤友紀雄著『悲しんでいる人々へのケア』)。その定義に従えばマリアは二重の悲しみを味わっていたことになります。マリアの愛するイエス様は十字架の上で息を引き取られ、さらにはそのお体が墓から取り去れたのです。私たちは墓の外に立って泣いていたマリアの姿から、マリアがどれほどイエス様を愛していたのかが分かるのであります。マリアが泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエス様のお体が置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。「一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」と記されています。天使たちが「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問うとマリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えました。マタイ、マルコ、ルカのいわゆる共観福音書を見ますと、天使によってイエス様の復活が告げられるのですが、ヨハネによる福音書においては「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問うだけであります。天使たちはもちろんイエス様が復活されたことを知っているのですから「婦人よ、なぜ泣く必要があるのか。むしろ喜ぶべきではないか」と言っていると読むことができます。しかし、マリアは自分の悲しみの原因を切々と訴えるわけです。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」。このマリアの言葉は2節のペトロともう一人の弟子に告げた言葉とほぼ同じであります。ただここでは「わたしの主」、「わたしには分かりません」とありますように、マリア個人の悲しみの原因を伝える言葉となっています。マリアは、イエス様のお体が誰かによって取り去られたとしか考えられないわけです。マリアは天使たちを見たのですから驚いてもよさそうですが、普通に言葉を交わしております。愛する者を失った悲しみのゆえに、マリアは天使の出現に驚くことを忘れているのです。
本論2.だれを捜しているのか
14節から16節までをお読みします。
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。
マリアは背後に人の気配を感じたのかも知れません。後ろを振り向くと、イエス様の立っておられるのが見えました。しかし、不思議なことにマリアにはその人がイエス様だとは分かりませんでした。マリアにとってイエス様は過去の人であり、自分の背後に立っているなどと考えることはできなかったのです。イエス様は「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問われました。これは先程の天使たちの言葉と同じであります。ただここでイエス様は天使たちの言葉に加えて「だれを捜しているのか」と言われました。マリアは自分に話しかけてきた男を園丁だと思ってこう言いました。「あなたが、あの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。マリアは復活されたイエス様を前にして、このように言うのですが、このことはマリアにとってイエス様の死が動かし難い事実であったことを教えています。それゆえ、マグダラのマリアは復活のイエス様から「だれを捜しているのか」と問われても気づかずに、イエス様のお体をどこに置いたのか教えてくださいと頼むのです。しかし、そのようなマリアに目の前にいる男が園丁ではなく、イエス様であることに気づくときが来るのです。それはイエス様が彼女の名前を呼ばれたときでありました。新共同訳聖書は「マリア」と訳しておりますが、元の言葉を見ますと「マリアム」と記されています。1節、11節は「マリア」なのですが、16節のイエス様の呼びかけは「マリアム」と記されているのです。当時のユダヤ人たちはヘブライ語の方言とも言えるアラム語で話したと言われていますが、イエス様はいつも呼んでいたように「マリアム」と呼びかけたのです。そして、マリアもいつも呼んでいたようにアラム語で「ラボニ」と答えたのです。ラボニは「『先生』という意味である」とありますが、もう少し正確に言えば「私の先生」という意味であります。マリアはイエス様から名前を呼ばれて、その男がラボニ、自分の先生であることが分かったのです。「婦人よ」と声を掛けられた時は分かりませんでしたけれども、「マリアム」と名前を呼ばれることによって、その男がラボニであるイエス様であることが分かったのです。イエス様は第10章3節で、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われましたけれども、マリアは羊飼いであるイエス様から「マリアム」と名前を呼ばれて、復活されたイエス様にお会いすることができたのです。ここで私たちが教えられますことは、復活されたイエス様に出会うには、イエス様から名前を呼んでいただく必要があるということです。復活されたイエス様に名前を呼んでいただいて初めて、復活されたイエス様に出会うことができるということであります。またそのことから言えることは、復活のイエス様を信じている私たちは復活のイエス様から名前を呼んでいただいた者たちであるということであります。私たちはここに自分の名前を入れ替えて読んでも良いのです。私ならば、復活されたイエス様から「寿和」と呼ばれて、復活されたイエス様にお会いすることができたのであります。そして、復活されたイエス様とお会いできる場こそが、週の初めの日に行われる主の日の礼拝であるのです。
またここで注目したことは、イエス様が「マリアム」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言ったことです。なぜ、「振り向いて」と記されているのでしょうか?14節に「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた」とありますから、マリアはイエス様と向き合っていたはずです。けれども、16節でまた「彼女は振り向いて」と記されているのは一体なぜか?このことを文字通り考えますと、マリアはイエス様に背を向けて「ラボニ」と呼びかけたことになってしまいますが、それは不自然なことであります。ではなぜ、「彼女は振り向いて」と記されているのか?結論から申し上げますと、ヨハネによる福音書が教えたいことは、復活されたイエス様はいつもマリアの背後から声を掛けられるということであります。このことはヘブライ人が過去を目の前にあるものと考え、未来を背後にあるものと考えたことを知るならばよくお分かりいただけると思います。私たちは過去とは自分の背後にあるもの、未来とは目の前にあるものと考えますが、ヘブライ人はそのようには考えませんでした。ヘブライ人は過去とは目の前にあるもの、未来とは背後にあるものと考えたのです。ヘブライ人は目の前に起こった神様の救いの御業を賛美しつつ、神様に導かれてまだ見ぬ未来を歩むのです。それはちょうど後ろ向きで歩いているようなものであります。後ろ向きで歩くなど怖くてしょうがないと思うかも知れませんが、だからこそヘブライ人は主なる神の導きを求めたのです。マリアがイエス様を捜していたのは目の前、過去でありました。死んでしまったイエス様はまさしく過去の人であったわけです。イエス様が生きていると言えば、それは彼女の思い出の中でしかなかった。しかし、イエス様はマリアの背後から、未来から声を掛けられるのです。マリアは過去の中にイエス様を捜すのでありますけれども、イエス様は未来から声を掛けられる。それはイエス様が復活されたからでありますね。過去にイエス様を捜していたマリアは、未来から声を掛けられることによって、向きを変えねばなりませんでした。そして、そのときマリアの悲しみは癒されたのです。イエス様は第16章20節で、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と言われましたけれども、マリアの悲しみは復活されたイエス様と出会うことによって喜びへと変えられたのです。
本論3.わたしは上る
17節と18節をお読みします。
イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
喜びに溢れたマリアは感極まってイエス様にすがりつきました。イエス様をもうどこにも行かせない。イエス様からもう離れはしないという思いからマリアはイエス様にすがりついたのでしょう。けれども、イエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。このイエス様の御言葉は、イエス様とマリアとの関係が変わったことを気づかせようとするものであります。復活されたイエス様はラボニ、わたしの先生と呼べるお方でありますけれども、すなわち十字架に死んだイエス様が復活されたのでありますけれども、しかし、その関係は復活前と復活後では変わっているのです。マリアはイエス様がこれまでと同じように自分たちと一緒に生活してくれると考えたかも知れません。自分の先生であり続けてくださると考えたかも知れません。けれども、そうではないのです。イエス様はそのことを、「まだ父のもとへ上っていないのだから」という言葉で言い表されました。イエス様が十字架の死から復活されたのはなぜか?それは御自分を遣わされた父のもとへ上るためであったのです。十字架に上げられ、復活されたイエス様が天に上げられてこそ、イエス様の救いの御業は完成されるのです。ヨハネによる福音書は十字架の死と復活と昇天を一体的に捉えて「上げられる」という言葉で言い表してきましたけれども、復活はイエス様が「上げられる」、その途上の出来事と言えるわけです。そして、ヨハネによる福音書において弟子たちに伝えるように命じられることは、復活そのものよりも、復活されたイエス様が御父のもとへと上る、昇天であったのです。イエス様はマリアに続けてこう言われます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。ここで弟子たちが「わたしの兄弟たち」と呼ばれております。イエス様の十字架と復活と昇天という出来事は、私たちをイエス様の兄弟としてくださる出来事であるのです。また、イエス様は「わたしの父であり、あなたがたの父である方、またわたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と伝えるように言われました。イエス様の父は、弟子である私たちの父でもあり、イエス様の神は、弟子である私たちの神でもあるのです。ヨハネによる福音書は第1章12節で「言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と記しておりましたが、イエス様は十字架と復活と昇天により、私たちを御自分と同じ神の子としてくださったのです。復活されたイエス様が御父のもとへと上ることにより、私たちは神様を父とし、イエス様を長兄とする神の家族の一員とされたのです。
マグダラのマリアは弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げました。ここでマリアはイエス様を「ラボニ」ではなく「主」と呼んでいます。「主」とは、聖書の神その方を表す言葉であります。ここでマリアはイエス様を神その方であると告白しているのです。マリアは「わたしはイエス様の遺体を発見した」と告げたのではなくて、「わたしは復活した主イエスとお会いした」と告げました。復活されたイエス様と最初に出会い、そのことを告げたのはマグダラのマリアでありました。男の弟子ではなくて、女の弟子がイエス様の復活を最初に告げたのです。前回も申しましたように、当時の社会において女性の証言は信用されませんでした。けれども、復活されたイエス様は最初にマグダラのマリアに出会ってくださったのです。
結.わたしは主を見ました
「わたしは主を見ました」。現代の私たちがマリアと同じ意味でこのように語れるわけではありません。なぜなら、イエス様はすでに天に昇られた時代に私たちは生きているからです。ですから、私たちはだれも肉の目で主イエスを見たことはありません。けれども、私たちは御言葉と聖霊において復活のイエス様とお会いすることができたのです。復活のイエス様から名前を呼んでいただいたゆえに、私たちはイエス様に「わたしの主」とお答えすることができたのです。肉の目においては、「わたしは主を見ました」とは言えませんけれども、信仰の目においては、「わたしは主を見ました」と言うことができるのです。そして、イエス様の父を私たちの父とし、イエス様の神を私たちの神として礼拝している事実によって、復活されたイエス様が天に昇られたことを証しているのです。私たちがイエス様の父を私たちの父と呼び、イエス様の神を私たちの神と親しく呼ぶことができるのは、なぜでしょうか?それは十字架の死から復活されたイエス様が御父のもとへ上られたからであるのです。