バビロン捕囚 2021年2月28日(日曜 朝の礼拝)

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バビロン捕囚

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
列王記下 25章8節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

25:8 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、
25:9 主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。
25:10 また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。
25:11 民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。
25:12 この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。
25:13 カルデア人は主の神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運び去り、
25:14 壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。
25:15 また親衛隊の長は、火皿、鉢など、金製品も銀製品もすべて奪い取った。
25:16 ソロモンが主の神殿のために作らせた二本の柱、一つの「海」、台車についていえば、これらすべてのものの青銅の重量は量りきれなかった。
25:17 一本の柱の高さは十八アンマで、その上に青銅の柱頭があり、その柱頭の高さが三アンマ、柱頭の周りには格子模様の浮き彫りとざくろがあって、このすべてが青銅であった。もう一本の柱も格子模様の浮き彫りまで同様に出来ていた。
25:18 親衛隊の長は、祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤ、入り口を守る者三人を捕らえた。
25:19 また彼は、戦士の監督をする宦官一人、都にいた王の側近五人、国の民の徴兵を担当する将軍の書記官、および都にいた国の民六十人を都から連れ去った。
25:20 親衛隊の長ネブザルアダンは彼らを捕らえて、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行った。
25:21 バビロンの王はハマト地方のリブラで彼らを打ち殺した。こうしてユダは自分の土地を追われて捕囚となった。列王記下 25章8節~21節

原稿のアイコンメッセージ

序.『列王記』について

 前回もお話ししましたが、『列王記』は「上」と「下」に分かれていますが、もともとは一つの書物でありました。『列王記』は、内容としては、ダビデの死、ソロモンの王位継承、神殿の建設、イスラエル王国の分裂、アッシリア帝国による北王国イスラエル滅亡、バビロン帝国による南王国ユダの滅亡を扱っています。年代にしますと、紀元前10世紀から紀元前6世紀までの400年のイスラエルの歴史について記しているのです。今朝の御言葉には、その最後の出来事、バビロン帝国によって、南王国ユダが滅ぼされたことが記されています。前回(先週)は、第24章18節から第25章7節までを学びましたので、今朝は、第25章8節から21節までを御一緒に学びたいと願います。

1.破壊された神殿

 8節から12節までをお読みします。

 第五の月の七日、バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと、バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋をすべて焼き払った。大いなる家屋もすべて、火を放って焼き払った。また親衛隊の長と共に来たカルデア人は、軍をあげてエルサレムの周囲の城壁を取り壊した。民のうち都に残っていたほかの者、バビロンの王に投降した者、その他の民衆は、親衛隊の長ネブザルアダンによって捕囚とされ、連れ去られた。この地の貧しい民の一部は、親衛隊の長によってぶどう畑と耕地にそのまま残された。

 ユダの王ゼデキヤは、両眼をつぶされ、足枷をはめられて、バビロンに連れて行かれましたので、ここでは、「バビロンの王ネブカドネツァルの第十九年のこと」と記されています。おそらく、都の一角が破られ、王たちが捕らえられた年と同じ年であると思います。西暦で言えば、紀元前587年です。バビロンの王の家臣、親衛隊の長ネブサルアダンがエルサレムに来て、主の神殿、王の宮殿、すべての家屋を焼き払いました。『列王記上』の第6章には、「神殿の建築」について記されていました。また、第7章には、「神殿の備品の製作」について記されていました。さらに、第8章には、「契約の箱の安置とソロモンの祈り」が記されていました。そのソロモンの祈りの一部を、読みたいと思います。『列王記上』の第8章27節から29節までをお読みします。旧約の542ページです。

 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになったところです。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。

 このように、神殿は、天に住まわれる神さまが、「わたしの名をとどめる」と言われたところでありました。神殿は神さまが臨在される場であり、南王国ユダの人々にとって祈りの家であったのです。しかし、その主の神殿が異邦人であるバビロンの軍隊によって破壊され、焼き払われたのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。旧約の623ページです。

 主の神殿と王の宮殿とすべて家屋は焼き払われてしまいました。そして、エルサレムを取り囲んでいた城壁も取り壊されてしまいました。都に残っていたおもだった人たちは、捕囚(捕らえられた囚人)として、バビロンへと連れて行かれました。ただ、貧しい人たちだけが、エルサレムに残されたのです。

2.略奪された神殿の祭具

 13節から17節までをお読みします。

 カルデア人は主の神殿の青銅の柱、台車、主の神殿にあった青銅の「海」を砕いて、その青銅をバビロンへ運び去り、壺、十能、芯切り鋏、柄杓など、祭儀用の青銅の器をことごとく奪い取った。また親衛隊の長は、火皿、鉢など、金製品も銀製品もすべて奪い取った。ソロモンが主の神殿のために作らせた二本の柱、一つの「海」、台車についていえば、これらすべてのものの青銅の重量は量りきれなかった。一本の柱の高さは十八アンマで、その上に青銅の柱頭があり、その柱頭の高さが三アンマ、柱頭の周りには格子模様の浮き彫りとざくろがあって、このすべてが青銅であった。もう一本の柱も格子模様の浮き彫りまで同様に出来ていた。

 ここには、主の神殿の祭具が、バビロンの軍隊によって略奪されたことが記されています。『ダニエル書』の第5章に、バビロンの王ベルシャツァルが、エルサレム神殿から奪って来た金銀の祭具で酒を飲み、金や銀で造った神々をほめたたえたお話しが記されています。エルサレムの神殿の祭具は、バビロンの人々にとって、自分たちの神々の戦利品でもあったのです。古代オリエントの世界において、国と国との戦いは、その国が信じている神と神との戦いでもありました(列王下18:33~35参照)。ですから、エルサレムの人々は、生けるまことの神の民である自分たちが、バビロンの軍隊に負けるとは考えなかったのです。エルサレムの人々は、自分たちには、主の神殿があるのだから、負けるはずはないと考えたのです。そのようなエルサレムの人々に、預言者エレミヤは、こう言ったのです。「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(エレミヤ7:4)。「主の神殿」があるから、主が共にいてくださると考えるならば、それは、神殿をひとつの偶像としているのです。そして、神殿をひとつの偶像とする罪は、イエス・キリストを処刑した最高法院の罪でもありました。ステファノは、そのことを大胆に語ったゆえに、石打の刑に処せられたのです(使徒7章参照)。

3.バビロン捕囚

 18節から21節までをお読みします。

 親衛隊の長は、祭司長セラヤ、次席祭司ツェファンヤ、入り口を守る者三人を捕らえた。また彼は、戦士の監督をする宦官一人、都にいた王の側近五人、国の民の徴兵を担当する将軍の書記官、および都にいた国の民六十人を都から連れ去った。親衛隊の長ネブザルアダンは彼らを捕らえて、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行った。バビロンの王はハマト地方のリブラで彼らを打ち殺した。こうしてユダは自分の土地を追われて捕囚となった。

 ここには、ユダの国の指導者たちが捕らえられ、処刑されたことが記されています。彼らは、バビロンの王に反旗を翻した者たちとして、処刑されたのです。国の指導者たちは処刑され、技術や教養のある有力な者たちは、バビロンへと連れ去られました。こうして、ユダは自分の土地を追われて捕囚となったのです。かつてエジプトの奴隷の家から導き出されてカナンの土地に定住したイスラエルの民は、再び奴隷にされ、バビロンへと連れて行かれるのです。そして、このことは、前回も確認したように、『申命記』第28章に記されている、神の呪いの実現であるのです。『申命記』の第28章36節と37節に、こう記されています。「主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたも先祖も知らない国に行かせられる。あなたはそこで、木や石で造られた他の神々に仕えるようになる。主があなたを追いやられるすべての民の間で、あなたは驚き、物笑いの種、嘲りの的となる」。この主の呪いが、主の御声に聞き従わなかったユダの国の人々のうえに実現したのです。

結.私たちは『申命記』第28章をどう読めばよいのか

 では、『申命記』の第28章に記されている「神の祝福と神の呪い」を、イエス・キリストを信じる私たちは、どのように考えたらよいのでしょうか。このことについては、イエス・キリストの使徒パウロが、『ガラテヤの信徒への手紙』で教えてくれています。『ガラテヤの信徒への手紙』第3章7節から14節までをお読みします。新約の345ページです。

 だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、「あなたはのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるためでした。

 「神の掟を守るならば祝福を受ける。しかし、神の掟に背くならば呪いを受ける」。この『申命記』の原則に変わりはありません。しかし、私たちにとっての福音は、私たちが受けるべき呪いを、イエス・キリストが十字架の上で既に受けてくださったということであるのです。神さまの御心に従うことができず、神の掟に背いて歩んでいる私たちは、本来、呪いを受けて当然の者たちでありました。しかし、その呪いを、イエス・キリストが、木にかけられて死んでくださることにより、受けてくださったのです。ですから、イエス・キリストを信じる私たちにとって、もはや呪いはありません。イエス・キリストを信じる私たちにとって、祝福しかないのです。イエス・キリストを信じるとは、自分が神の祝福に生かされていることを信じることでもあるのです。そして、その祝福の最たるものが、神の霊である聖霊を受けるということであるのです。イエス・キリストを通して聖霊を与えられ、「アッバ、父よ」と親しく神さまに祈ることができる。そのような祝福の中に、私たちは生かされているのです。しかし、もし、私たちがイエス・キリストから離れるならば、私たちは、自分の罪のゆえに、呪いを受けなければなりません。このことを、イエスさまは、よくご存じでありました。ですから、イエスさまは、自分を王として迎え入れようとしないエルサレムのために涙を流して、こう言われたのです。『ルカによる福音書』の第19章41節から44節までをお読みします。新約の148ページです。

 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

 バビロンの軍隊によって滅ぼされた神殿は、バビロン捕囚から解放された人々によって、のちに再建されます(エズラ記参照)。しかし、その神殿が今度はローマの軍隊によって滅ぼされることになるのです(紀元70年)。なぜでしょうか。それは、エルサレムが、神のメシア(王)であるイエス・キリストを受け入れなかったからです。受け入れるどころか、異邦人の手に引き渡し、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、不思議なことに、その彼らの悪によって、神さまの救いは成し遂げられました。それはすべての人が自分の罪を認めて、神さまへと立ち帰り、十字架と復活の主であるイエス・キリストを信じるためであるのです(使徒2章参照)。そのようにして、神さまは、すべての人が神の祝福に生きる道を切り開かれたのです。

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