サムエルの告別説教② 2021年2月24日(水曜 聖書と祈りの会)

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サムエルの告別説教②

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
サムエル記上 12章13節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:13 今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。
12:14 だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。
12:15 しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。
12:16 さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。
12:17 今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」
12:18 サムエルが主に呼び求めると、その日、主は雷と雨を下された。民は皆、主とサムエルを非常に恐れた。
12:19 民は皆、サムエルに願った。「僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。」
12:20 サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。
12:21 むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。
12:22 主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。
12:23 わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。
12:24 主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。
12:25 悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」サムエル記上 12章13節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、サムエルの告別説教の途中まで、12節までを学びました。サムエルの告別説教は、イスラエルを率いるのが、老人サムエルから若者サウルへと代わるという世代交代だけではなく、士師から王に代わるという国の在り方が変わることでありました。サムエルは最後の士師でありまして、サウルは最初の王であるのです。そのような意味で、サムエルの告別説教は、時代を画する説教であるのです。そのようなことを念頭において、今朝の御言葉を読み進めて行きたいと思います。

 13節から15節までをお読みします。

 今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。

 主は、イスラエルの民の求めに応じて、王を与えてくださいました。主は、サムエルを用いて、サウルの頭に油を注ぎ、イスラエルの指導者としてくださいました。そして、そのことをくじを引くことによって明らかにされたのです。サウルは、アンモン人の王ナハシュに勝利することによって、王として、イスラエルの民を救ったのでありました。主はサウルに聖霊を注ぎ、イスラエルの民に主への恐れを与えて、御自分の民をアンモン人から救われたのです。サウル自身が言っているように、「今日、主がイスラエルにおいて救いの業を行われた」のです(11:13)。イスラエルの民の求めに応じて、イスラエルに王を与えられたのは、主であられます。それゆえ、サムエルはこう言うのです。「だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならばそれでよい。もし主の御声に聞き従わず、主の命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」。ここで注意したいことは、主が王を立てられたことが、主が王であることを否定しないということです。主は、イスラエルをエジプトから導き出し、シナイ山で契約を結び、掟を与えて、御自分の宝の民とされました。主は、イスラエルの民を約束の地カナンに住まわせ、士師を遣わして敵の手から救ってこられたのです。そして、主は、イスラエルの民の求めに応じて、王を与えられたのであります。ですから、イスラエルのまことの王は、主であるのです。人間の王は、まことの王である神さまの御心に従って、イスラエルの民を治めることが求められるわけです。ですから、サムエルは、「あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい」と言うのです。民の上に君臨する王であっても、神さまの律法の下にあるのです。異邦人の国において、王は法律を自由に定めることができました。しかし、イスラエルではそうではありません。王であっても、まことの王である神さまの律法の支配下に置かれているのです。サムエルは、15節で、「もし主の御声に聞き従わず、主の命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る」と警告しています。この「あなたたち」には、民の上に君臨する王も含まれているのです。新約の教会に当てはめて言えば、牧師や長老も、イエス・キリストの掟の支配下に置かれており、裁きを免れることはできないのです。

 16節から19節までをお読みします。

 さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」

 サムエルが主に呼び求めると、その日、主は雷と雨を下された。民は皆、主とサムエルを非常に恐れた。民は皆、サムエルに願った。「僕たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。」

 ここで、サムエルは、自分が語ったことが本当であることを示すために、主に雷と雨を下すことを求めます。小麦の刈り入れの時期である5月から6月頃は、乾期で、雨は降りませんでした。しかし、サムエルが祈り求めると、主は雷と雨を下されたのです。それは、イスラエルの民が王を求めて主の御前に大きな悪を犯したことを知らせ、悟らせるためであったのです。イスラエルの民は、王を求めることによって、王である主を退けました。その大きな悪を、イスラエルの民は、主が下された雷と雨によって、示されたのです。そして、イスラエルの民は自分たちの重い罪を認め、自分たちが死なないように、サムエルにとりなしの祈りを願うのです。

 20節から25節までをお読みします。

 サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられる。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」

 サムエルは、民が行った悪にではなく、今後の歩みについて語ります。「今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい」。心を尽くして主に仕えるとは、どのようなことでしょうか。それは、むなしいもの、偽りの神々である偶像に仕えないということです。むなしいものを慕っても、救いを得ることはできません。なぜなら、むなしいものは、自分で話すことも、歩くこともできないからです。偶像には何の力もなく、救う力はないのです。また、イスラエルの民には、心を尽くして主に仕える義務があります。なぜなら、主はイスラエルを御自分の民と決めておられ、偉大な御名のゆえに、決しておろそかにされないからです。主は御自分の民をおろそかになさらないゆえに、サムエルを預言者として立てられます。サムエルは、イスラエルの民を率いる政治的指導者としては引退し、その働きを王にゆずります。しかし、イスラエルのために祈り、イスラエルに正しく善い道を教えるという預言者として働き続けるのです。ここで、サムエルは、預言者である自分にとって、「民のために祈ることを止めることは、主に対して罪を犯すことだ」と言っています。このことは、按手を受けて、教会の職務についた教会役員(教師、長老、執事)が特に覚えるべきであると思います。と言いますのも、教師の任務の一つに、「ゆだねられた群れのために、また群れと共に祈ること」とあるからです(『政治規準』第46条)。また、長老と執事の任務の一つに、「教会員と共に、また教会員のために祈ること」とあるからです(『政治規準』第55条、第58条)。牧師である私が、ゆだねられた群れのために祈ることをやめるならば、主に対して罪を犯すことになるのです。

 24節は、サムエルの告別説教の結論であります。「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい」。これは私たちに求められていることでもあります。私たちは、主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えることが求められているのです。そして、そのために、主がいかに偉大なことを私たちにしてくださったかを示され、想い起こす必要があるのです。そして、ここに、私たちが、礼拝に出席して、イエス・キリストの福音を聞き続ける理由があるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活、その主の偉大な御業を想い起こして、心を尽くして、主に仕えていきたいと願います。

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