イエスのすばらしい御業 2021年2月14日(日曜 朝の礼拝)
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イエスのすばらしい御業
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 7章31節~37節
聖書の言葉
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」マルコによる福音書 7章31節~37節
メッセージ
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序.
前回(先週)、私たちは、イエスさまが、異邦人であるシリア・フェニキアの女の娘から悪霊を追い出されたお話しを学びました。シリア・フェニキアの女は、イエスさまを「主」と呼び、イエスさまの善意に依り頼む信仰によって、小犬ではなく、子供として、イエスさまの救いにあずかったのです。
今朝の御言葉はその続きであります。
1.デカポリス地方の真ん中で
31節に、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあります。これはとても遠回りであります。巻末の聖書地図で確認してみましょう。「6 新約時代のパレスチナ」を御覧ください。フェニキアのティルスから北に行くとシドンがあります。そして、シドンから南東に進んでデカポリス地方に入り、デカポリス地方のガリラヤ湖畔に、イエスさまと弟子たちは来られたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の75ページです。
31節を読みますと、「デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」とあるので、イエスさまが、ユダヤ人の土地に戻って来た印象を受けますが、そうではありません。といいますのも、元の言葉を見ると、「デカポリス地方の中にあるガリラヤの海にやって来た」と記されているからです。イエスさまと弟子たちは、まだ異邦人の土地にいるのです。デカポリス地方に住む異邦人たちも、イエスさまがあらゆる病を癒し、悪霊を追い出すことができることを知っていたのです。第3章7節と8節に、こう記されていました。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」。「ヨルダン川の向こう側」とありますが、ここが、イエスさまが、今おられる所であります。ヨルダン川の向こう側、デカポリス地方に住む人々も、イエスさまのしておられることを伝え聞いていたのです。また、デカポリス地方は、イエスさまが、悪霊に取りつかれたゲラサ人を癒されたところであります。第5章に、イエスさまが、ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方で、大勢の悪霊(レギオン)に取りつかれた男を癒されたことが記されています。この人は、主イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広めました。ですから、デカポリス地方の人々は、この男からも、イエスさまのことを聞いていたのかも知れません。それで、人々は、イエスさまのもとに、耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、手を置いて癒してくださるよう願ったのです。
耳が聞こえず舌の回らない人も、その人をイエスさまのもとに連れて来た人々も、ユダヤ人ではない、異邦人であります。ユダヤ人にとって、異邦人はまことの神さまを知らない汚れた民でありました。前に、「汚れている」とは「聖なる神さまとの交わりから断たれていることだ」と申しました。異邦人は神の掟を知らず、偶像崇拝にふける汚れた民であるのです。その異邦人である人々が、耳が聞こえず舌の回らない異邦人を連れて来て、ユダヤ人であるイエスさまに「手を置いて癒してほしい」と願ったのです。イエスさまは、何と答えられたでしょうか。前回の、シリア・フェニキアの女の時のように、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われたでしょうか。そのようには言われませんでした。イエスさまは、人々の願いを聞き入れてくださり、耳が聞こえず舌の回らない人を群衆の中から連れ出されたのです。このことは、イエスさまのお心が変わって来ていることを示しています。イエスさまがユダヤ人の土地を立ち去って、異邦人の土地であるティルス地方に行かれたとき、イエスさまは、救いを求める女に、ユダヤ人を子供に、異邦人を小犬に譬えて、御自分において到来した救いは、まずユダヤ人にもたされるべきであると言われました。しかし、ティルスからシドンへさらにはデカポリス地方へと、異邦人の土地を巡り歩きながら、イエスさまのお心に変化が生じたようです。このことは、「よいサマリア人のたとえ」をお語りになったイエスさまであれば、当然のことです。障がいや病で苦しんでいる人を見て、この人は、ユダヤ人だろうか、それとも異邦人であろうかと、イエスさまが問われたはずはありません。よいサマリア人が、強盗に襲われて倒れている人を見たときに、深く憐れんだように、イエスさまも深く憐れまれた、腸が千切れる思いに駆られたのです。そのような深い憐れみをもって、イエスさまは、耳が聞こえず舌の回らない人を癒されるのです。
2.開け!
33節と34節には、イエスさまがどのようにして耳が聞こえず舌が回らない人を癒されたかが、詳しく記されています。イエスさまは、耳の穴をほじるように、指をその人の両耳に差し入れました。それから、指に唾をつけて、その人の舌に触れました。当時、唾には治癒力が宿っていると考えられていたそうです。そして、天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われたのです。この「エッファタ」という言葉は、イエスさまが話しておられたアラム語で、「開け」という意味であります。イエスさまは、訳の分からない呪文を唱えられたのではなく、「開け」と言われたのです。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。耳の聞こえない人が聞こえるようになり、口の利けなかった人が話せるようになる。このことは、イエスさまにとっても、難しい奇跡であったのかも知れません。ですから、イエスさまは、言葉だけではなく、指をその人の両耳に差し入れ、手に唾を付けてその人の舌に触れ、天を仰いで、深い息をついて集中されてから、「エッファタ」(開け!)と言われたのです。イエスさまにとって、難しい奇跡があったのかどうかは分かりませんが、ここに記されていることは、世の終わりに期待されていた大きな奇跡(力ある業)でありました。『イザヤ書』の第35章の1節から10節までをお読みします。旧約の1116ページです。
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンは輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み/主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る。
小見出しに「栄光の回復」とありますように、ここには、神さまによって造られた世界の栄光が回復される幻が記されています。荒れ野は一面に花を咲かせる園となり、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌うようになるのです。このような預言を実現する御方として、イエスさまは、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けなかった人を話せるようにされたのです。そのようにして、イエスさまは、御自分が神その方であることを示されたのです。
今朝の御言葉に戻ります。新約の75ページです。
3.イエスのすばらしい御業
イエスさまは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めされました。しかし、イエスさまが口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めました。イエスさまがなされたことは、だれかに伝えずにはおれないほど、すばらしいものであったのです。人々は非常に驚いてこう言いました。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。これは、異邦人たちの言葉でありますが、二つの旧約聖書の御言葉を背景にしていると言われます。一つは、先程お読みした、『イザヤ書』の第35章の御言葉です。イエスさまが耳の聞こえない人を聞こえるようにされ、口の利けない人を話せるようにされた。このことは、『イザヤ書』第35章に預言されていた、栄光の回復の実現であるのです。そして、もう一つは、『創世記』の第1章31節であります。『創世記』の第1章は、神さまが力ある御言葉によって、六つの日に渡り、天地万物を造られたことを記しています。そして、その最後の第1章31節にこう記されているのです。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」。神さまがお造りになった世界は、神さまの目から見ても、極めて良い世界でありました。しかし、その極めて良い世界の管理を委ねられていた、はじめの人アダムが神さまに背くことによって、その極めて良い世界に罪と死が入り込んで来たのです。アダムの罪のゆえに、土は呪われるものとなり、茨とあざみが生じたのです。人は必ず死ぬものとなり、病や障がいに苦しむ者となったのです。もちろん、病や障がいのある人が、他の人よりも罪深いわけではありません(ヨハネ9章参照)。しかし、神さまが造られた良き世界に、なぜ病や障がいがあるのかと問われるならば、それは、はじめの人アダムの罪に遡ることができるのです。ですから、『イザヤ書』第35章に預言されている栄光の回復は、神さまが私たち人間を罪から贖ってくださることによってもたらされるのです。神さまが私たちの罪を贖われることによって、神さまによって造られた世界の栄光が回復され、聞こえない耳が開き、もつれた舌が賛美の歌を歌うようになるのです。耳が聞こえず舌の回らない人が異邦人であったことは、象徴的な意味を持っています。つまり、まことの神を知らない異邦人は、神さまの言葉を聞くことができず、神さまの御名をほめたたえることができない者であったのです。そして、それは、かつての私たちの姿でもあるのです。私たちは、肉体的には、耳が聞こえるし、口が利けるかも知れません。しかし、霊的には、神さまとの関係においては、神さまの言葉を聞くことができず、神さまの御名をほめたたえることができない者であったのです。イエスさまは、そのような私たちの耳を開き、口が利けるようにしてくださったのです。ですから、私たちも、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言うことができるのです。