血と水 2011年3月06日(日曜 朝の礼拝)

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血と水

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 19章31節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:31 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。
19:32 そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。
19:33 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。
19:34 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。
19:35 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。
19:36 これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。
19:37 また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。ヨハネによる福音書 19章31節~37節

原稿のアイコンメッセージ

序.前回のお話

 前回は十字架に上げられたイエス様の御言葉について御一緒に学びました。ヨハネによる福音書は十字架に上げられたイエス様が三つの言葉を語られたことを伝えています。一つは、十字架のもとにいる母と愛する弟子を見て語られた言葉であります。イエス様は母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われました。それから弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われました。イエス様の十字架のもとに新しい家族、神の家族である教会が生まれたのです。私たちは十字架のもとで神を礼拝することにより、主にある兄弟姉妹を見つめる眼差しをいただくのです。イエス様が十字架の上で語られた二つ目の言葉、それは「渇く」という言葉であります。イエス様は教会の誕生を見届け、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われたのです。このイエス様の御言葉は旧約聖書の詩編第63編2節を背景にして読むことができます。ローマの兵士たちはイエス様が喉の渇きを訴えておられると思い酸いぶどう酒を差し出すのですけれども、イエス様の渇きは何よりも御父を探し求める魂の渇きであったのです。イエス様は、魂の渇きに気づかずに滅びようとしている私たちに代わって、「渇く」と言われたのです。イエス様が十字架の上で語られた三つ目の言葉は、「成し遂げられた」でありました。イエス様は酸いぶどう酒を勝利の杯としてお受けになり、「成し遂げられた」という凱歌の叫びを上がられたのです。イエス様は御父からゆだねられたすべてのことを十字架において成し遂げられたのです。イエス様は私たちへの愛を十字架において全うしてくださったのです(13章1節参照)。

 ここまでが前回お話したことでありますが、今朝の御言葉には十字架につけられたイエス様の体を取り降ろす経緯が記されています。このことはヨハネによる福音書だけに記されていることであります。私たちは今朝このところから御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

本論1.その骨は一つも砕かれない

 31節から33節までをお読みします。

 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。

 イエス様が十字架に上げられた日は、準備の日で、翌日は特別な安息日でありました。準備の日とは安息日の前日のことであります。キリストの復活以前は週の最後の日である土曜日が安息日でありましたから、準備の日は金曜日にあたります。イエス様は金曜日に十字架に上げられたのです。また「その翌日は特別の安息日であった」とありますように、翌日から過越の祭りが始まりました。安息日と過越の祭りの日が重なるゆえに、「特別な安息日」と言われているわけです。ユダヤの暦では日没から一日が始まりますので、特別な安息日が数時間後に始まろうとしていたのであります。その前にユダヤ人たちは十字架につけられた者たちを何とか処理したいと考えたのです。「ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」とありますけれども、これは旧約聖書の律法に基づくことであります。旧約聖書の申命記第21章22節、23節にこう記されています。

 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。

 この神の掟を守るためにユダヤ人たちは、イエス様の足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出たのです。ユダヤ人たちは木にかけられた男のことなど忘れて、晴々した気持ちで特別な安息日を祝いたいと考えたのであります。

 「足を折る」という行為は十字架の死を早めるための行為でありました。通常、十字架にはりつけにされたものは何日もの間苦しんで死んでいったそうです。しかし、それでは特別な安息日が始まってしまいますので、ユダヤ人たちは足を折ることによって死期を早めようとしたわけです。ピラトはこのユダヤ人たちの願いを聞き入れて、兵士に十字架につけられた者たちの足を折るように命じました。ゴルゴタの丘には三本の十字架が立っておりました。イエス様を真ん中にして二人の男が十字架につけられていたのです。兵士たちはその二人の足を折りましたけれども、イエス様の足は折りませんでした。なぜなら、イエス様は既に息を引き取られていたからであります。足を折るという行為は死期を早めるためのものでありましたから、兵士たちは既に死んでいたイエス様の足は折らなかったのです。そして福音書記者ヨハネは36節で「これらのことが起こったのは『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」と語るのです。他の二人の足は折られたのに、イエス様の足は折られることはなかった。これによって「その骨は一つも砕かれない」という聖書の御言葉が実現したとヨハネは語るのであります。では「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉はどこに記されているのでしょうか?二つの箇所が考えられます。それは出エジプト記の第12章46節と詩編の第34編21節であります。出エジプト記の御言葉から見ていきます。出エジプト記第12章は「過越祭の規定」について記している箇所でありますが、その46節にはこう記されています。

 一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない。

 ここに「過越の小羊の骨を折ってはならない」と記されています。それと同じようにイエス様の骨は折られなかった。このように語ることによって福音書記者ヨハネはイエス様こそ過越の祭りを成就される神の小羊であったことを示しているのです(1:29参照)。ヨハネによる福音書は第19章14節で、イエス様が裁判の席についたのは「過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と記しておりました。これは神殿において祭司たちが過越の小羊を屠る時間帯でありました。イエス様は神殿において過越の小羊が屠られる時間帯に、十字架において御自身を屠られたのです。またヨハネによる福音書は第19章29節で、兵士たちが酸いぶどう酒をいっぱいに含ませた海綿をヒソプにつけてイエス様の口もとに差し出したと記しています。マルコによる福音書を見ますと、海綿を「葦の棒」につけてイエス様の口に差し出すのですが、ヨハネによる福音書は海綿を「ヒソプ」につけてイエス様の口もとに差し出すのです。そしてここにもイエス様をまことの過越の小羊として示そうとする福音書記者ヨハネの主張を読み取ることができるのです。出エジプト記によりますと、過越の小羊の血は一束のヒソプによって、それぞれの家の鴨居と入り口の二本の柱に塗られました(出エジプト12:22参照)。福音書記者ヨハネは「葦の棒」の代わりに「ヒソプ」と記すことにより、イエス様こそ過越の犠牲を最終的に実現されるお方であることを私たちに教えているのです。そのことを念頭に置きながら、イエス様の「成し遂げられた」という御言葉を読むときに、私たちはユダヤの祭儀がイエス様において成し遂げられたことを教えられるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙はイエス・キリストが十字架において御自身をささげて永遠の贖いを成し遂げてくださった以上、動物を犠牲としてささげる必要はもはやないことを私たちに教えております。それと同じように、ヨハネによる福音書は、イエス様が過越の祭りを成し遂げるために御自身をささげてくださった以上、私たちはもはや過越の小羊を屠る必要がないことを教えているのです(一コリント5:7参照)。イエス様は過越祭に代表されるすべてのユダヤ祭儀を成し遂げてくださいました。それゆえ私たちは旧約律法によって規定された祭儀をもはや行う必要はないのであります。

 「その骨は一つも砕かれない」という聖書の御言葉として考えられるもう一つの箇所は詩編第34編21節であります。ここでは18節から21節までをお読みします。

 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼を助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。

 ここには主に従う人への主の守りが記されています。すでに死んでおられたイエス様の足の骨が折られなかったことを、この詩編の御言葉の成就であると読むとき、そこにはどのような信仰の告白があるのでしょうか?それはイエス様は主の守りの中で死なれたということであります。イエス様は神様から見放されて死んでいったのではなくて、神様の守りの中で息を引き取られた。そのことがイエス様の足が折られなかったことによって示されたのです。イエス様のお体はまだ神様の守りのうちにある。このことを詩編第34編の御言葉は私たちに教えているのです。このことは私たちに大きな励ましを与えてくれると思います。私たちが大きな病を得たり、どうしようもないと思われる困難に遭うとき、私たちは神の守りから洩れたかのようにしばしば考えてしまいます。けれども、そうではないのです。死んでしまわれたイエス様の骨が一本も損なわれなかったことは、私たちがどのような状態にあっても神の守りの内にあることを教えているのです。「主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し/骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる」。この詩編の御言葉はイエス・キリストを信じる私たち一人一人の上にも実現しているのです。

本論2.自分たちの突き刺した者を見る

 34節から37節までをお読みします。

 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証しており、その証は真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。

 兵士の一人が槍でイエス様のわき腹を刺したのは、イエス様の死を確かめるためでありました。「すると、すぐ血と水とが流れ出た」とありますが、そのことの重要性が「目撃者の証言の真実の主張」によって強調されています。イエス様のわき腹からすぐ血と水とが流れ出たことを目撃したのは、十字架のもとにいた愛する弟子であり、この福音書を記したヨハネであると考えられます。イエス様のわき腹からすぐ血と水とが流れ出たことは何を意味しているのでしょうか?。すぐに考えられることは、イエス様は血の流れるまことの人間となり、確かに死んでくださったということであります。この34節、35節と似ている御言葉がヨハネの手紙一の第5章6節にあります。「この方は、水と血を取って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、霊はこのことを証しする方です。霊は真理だからです」。ヨハネの手紙一は、イエス・キリストが肉となられたことを否定する者たちを論敵として記されています。彼らは「イエス・キリストは人となられたのではなく、人となられたように見えただけである」と教えておりました。そのような間違った教えに対して、ヨハネは「イエス・キリストは水と血を取って来られた方である」と語るのです。福音書記者ヨハネは十字架のイエス様の体から血と水とが流れ出たことを記すことにより、イエス様が確かに私たちと同じ人間となり、死んでくださったことを伝えているのです。また聖書において血は命を表すものであります(レビ17:11参照)。イエス様はヨハネによる福音書第6章53節以下でこうおっしゃいました。

 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

 伝統的には、この御言葉からイエス様のわき腹から流れ出た血は聖餐を表すと解釈されてきました。また、水については第3章5節の「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」という御言葉から洗礼を表すと解釈されてきました。イエス様のわき腹から血と水とが流れ出たことは、聖餐と洗礼という二つの礼典がイエス様の死に根ざすものであることを私たちに教えているのです。私たちはこれから聖餐の恵みに与ろうとしておりますけれども、私たちが受けるパンはイエス様の裂かれた体を、ぶどう酒はイエス様の流された血潮を表すのです。そのことを信じて私たちがパンとぶどう酒を受けるとき、私たちは主の恵み深さをまさに味わい知る者とされるのです(詩編34:9参照)。

 兵士の一人が槍でイエス様のわき腹を指したことも、旧約聖書の御言葉の成就でありました。37節に「また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」とありますが、この聖書の言葉は旧約聖書のゼカリヤ書第12章10節であります。そこにはこう記されています。

 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。

 福音書記者ヨハネは、イエス様の遺体が兵士の槍によって刺し貫かれたことによって、このゼカリヤ書の預言が成就したと語るのです。ここで注目したいことは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしとは一体誰であるかということです。ここでの「わたし」は明らかに主なる神御自身のことであります。イエス様を刺し貫く、それはイエス様を遣わされた神様を刺し貫くことでもあるのです。神の独り子であるイエス・キリストにおいて神様も刺し貫かれたのです。しかし、ゼカリヤは不思議なことを語ります。イエス様を刺し貫いた者たちが、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむようになると言うのです。それはなぜかと言えば、刺し貫かれたイエス・キリストが復活してくださり、ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注いでくださるからです(使徒2:36~42参照)。

結.イエス・キリストの赦し

 私たちがイエス・キリストの十字架の場面を読むときに、私たちは自分をどこに見いだすのでしょうか?十字架のもとにいる愛する弟子に自らを重ねて読むのでしょうか。それも一つの読み方です。けれども、福音書記者ヨハネが「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」という聖書の言葉が実現したと語るとき、私たちは自分がイエス様を十字架につけた者たちであったことに気づかされるのです。イエス・キリストの十字架の恵みが分からないとしたら、おそらくそのことが分かっていないからではないでしょうか。私たちこそ、ピラトの法廷において「十字架につけろ。十字架につけろ」と叫んだ者たちであったのです。しかし、その私たちが自らの罪を嘆き、十字架のイエス・キリストを仰ぐ時が来るのです。復活されたイエス・キリストが私たちに憐れみと祈りの霊を注いでくださる。そして私たちのすべての罪を「赦す」と言ってくださるのです。神の御子イエス・キリストの血潮は私たちをあらゆる罪から清めてくださるのです(一ヨハネ1:7参照)。

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