真理とは何か 2011年1月23日(日曜 朝の礼拝)

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真理とは何か

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 18章28節~40節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:28 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。
18:29 そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。
18:30 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。
18:31 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。
18:32 それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。
18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。
18:34 イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」
18:35 ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」
18:36 イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
18:38 ピラトは言った。「真理とは何か。」
18:38 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。
18:39 ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」
18:40 すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。ヨハネによる福音書 18章28節~40節

原稿のアイコンメッセージ

 前回はイエス様が大祭司アンナスから尋問を受けたことを学びました。今朝の御言葉にはイエス様がローマの総督ポンテオ・ピラトから尋問を受けたことが記されております。ピラトによる裁判については第18章28節から第19章16節までに記されていていますが、今朝は第18章40節までを御一緒に学びたいと思います。

 28節から32節までをお読みします。

 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸の中に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。

 前回も申しましたように、ヨハネによる福音書はその年の大祭司であったカイアファによる尋問の内容をまったく記しておりません。24節に「アンナスは、イエスを縛ったまま、大祭司カイアファのもとに送った」と記されており、28節に「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」と記されているとおりです。ヨハネによる福音書はその年の大祭司カイアファを議長とする最高法院の裁判についてなぜ記していないのでしょうか?それは最高法院においてイエス様を処刑することは既に決定済のことであったからです。14節に「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった」とありますように、大祭司カイアファを議長とする最高法院はイエス様を処刑することを既に決定済であったのです。最高法院の議員であるユダヤ人たちはその決定を実行に移すべくイエス様を総督官邸に連れて行きました。当時、ユダヤの国はローマの属州となっており、ローマ皇帝の代理人である総督によって統治されておりました。当時のユダヤ総督は29節にでてきます「ピラト」であります。私たちが使徒信条で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白している「ピラト」であります。ピラトは第5代のユダヤ総督で紀元26年から36年までその職務にありました。通常、総督はカイサリアに駐在していましたが(使徒23:33)、祭りの間は治安維持のためにエルサレムに滞在しました。ヘロデの宮殿か、アントニア要塞を総督官邸としていたと言われますが、学者の間でも結論が出ておりません。ともかくユダヤ人たちは明け方にイエス様を総督官邸に連れて行ったのです。しかし彼らは自分では官邸に入りませんでした。その理由を福音書記者ヨハネは「汚れないで過越の食事をするためである」と記しています。このヨハネの記述によりますと、イエス様が弟子たちとなされたいわゆる最後の晩餐は過越の食事ではなく、ふつうの夕食であったことになります。ユダヤ人たちは汚れないで過越の食事をするために、自分では異邦人であるピラトの官邸に入らなかったのです。私たちはここに一つのアイロニー、皮肉を読み取ることができます。彼らは過越の食事をすることには心を用いながら、罪のない方を処刑することには心を用いないのです。またユダヤ人たちが過越の食事をするために官邸に入らなかったことは、この後ピラトが官邸の内と外を行ったり来たりする要因となります。ユダヤ人たちは官邸に入らなかったので、ピラトは官邸から出て来て、彼らにこう言いました。「どういう罪でこの男を訴えるのか」。おそらくピラトはユダヤ人たちのもめごとに関わりたくなかったのでありましょう。使徒言行録の第18章にユダヤ人たちがパウロをアカイア州の地方総督ガリオンに訴えたことが記されています。そこでガリオンはユダヤ人に向かって次のように言っています。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」。おそらくピラトもガリオンと同じ気持ちであったと思います。ですからピラトはユダヤ人たちに「どういう罪でこの男を訴えるのか」と問うたのです。それに対して彼らはこう答えました。「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」。これは答えになっていない答えであります。何の罪で訴えるのかを答えておりません。「私たちがこの男をあなたのもとに連れてきたのはこの男が悪いことをしたからに他ならないではないか」といささかぶっきらぼうに答えています。それに対してピラトも「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と突き放すように答えました。「この男が悪いことをしているとすでに判決をくだしているのならば、あなたたちの律法に従って罰すればよいのではないか」とピラトは言うのです。するとユダヤ人たちは「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えました。当時、ユダヤはローマ帝国の属州でありまして、人を死刑にする権限はローマの総督に留保されておいりました。これはローマ帝国に協力するユダヤ人たちを保護するための当然の措置であったと言われています。けれども私たちはこのユダヤ人たちの言葉を読むときに、本当にそうだったのかなぁと疑問に思うのではないでしょうか?なぜなら使徒言行録の第7章にステファノが最高法院での弁明の後、石打の刑によって処刑されたことが記されているからです。またヨハネによる福音書においてこれまで何度もユダヤ人たちはイエス様を石で打ち殺そうといたしました。ですからおそらく宗教裁判においては最高法院にも死刑の権限が与えられていたのではないかと思います。けれども刑事裁判においては最高法院には死刑の権限がなかったと思われるのです。宗教裁判と刑事裁判とをそれほど明確に区別できるのかという疑問は残りますが、ユダヤ人たちは「わたしたちには、人を処刑にする権限がありません」と答えることによって、イエス様を刑事裁判として総督ピラトに裁いてもらいたいと申し立てたのです。福音書記者ヨハネは32節で「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と注釈しています。イエス様はユダヤの処刑方法である石打の刑ではなくて、なぜローマの処刑方法である十字架の刑に処せられたのか?ヨハネはその理由を「それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と記すのです。イエス様はこれまで何度も御自分は「上げられる」と予告してきました。第3章14節、15節でイエス様はニコデモにこうおっしゃいました。「(そして)、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」。また第8章28節でイエス様はユダヤ人たちにこう言われました。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」。さらに第12章32節でイエス様は群衆に対して次のように言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。このようにイエス様は御自分が上げられることを語ってきたのですが、それはローマの処刑方法である十字架刑に処せられることによって実現するのです。十字架につけられる者は人々からよく見えるように高く上げられました。十字架の木に磔にされることによって空間的にも地上から上げられたのです。またヨハネによる福音書において「上げられる」とは十字架に上げられることばかりではなく、死人の中から復活し、天へと上げられること、栄光へとあげられることをも意味しております。それゆえヨハネによる福音書において十字架は恥辱というよりも栄光であるのです。ユダヤ人たちはローマの総督を利用してイエス様を処刑しようとしたのでありますけれども、それによって「人の子は上げられねばならない」というイエス様の御言葉が実現するのです。

 33節から37節までをお読みします。

 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していなさい。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」

 ここでは場面が総督官邸の外から内へと移っております。ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と問いました。当時多くの者たちがユダヤ人の王を名乗り、民衆を扇動してローマの支配に対し反乱を起こしておりました(使徒5:36、37参照)。おそらくピラトはそのような意味で「お前がユダヤ人の王なのか」とイエス様に問うたのだと思います。それに対してイエス様は「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と問うております。ここでは尋問しているはずのピラトが逆にイエス様から尋問されているのです。イエス様はピラトに「あなたの目にはこのわたしがユダヤ人の王に見えるのですか?それとも他の者たちがあなたにそう言ったので、あなたはそう言ってるだけなのですか?」と問うておられます。すなわちイエス様は御自分の前にピラトを立たせようとしておられるのです。イエス様はピラトに、他の者ではなくてあなたはわたしを何者だと言うのか?と問うておられるのであります。このイエス様の問いにピラトは腹立たしくこう答えております。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を引き渡したのだ。いったい何をしたのか」。「わたしはユダヤ人なのか」このピラトの言葉には支配者としてのローマ人としての誇りとユダヤ人に対する軽蔑の思いが込められています。細かいことを言いますが、元の言葉を見ますと否定の答えを期待する問い方で記されています。「この私がユダヤ人に見えるか。ユダヤ人ではないわたしにとってお前がユダヤ人の王かどうかなどどうでもよい。わたしがお前をユダヤ人の王として訴えるのではない。お前の同胞や祭司長たちが、お前を引き渡したから尋問しているに過ぎない。お前はとてもユダヤ人の王には見えないが、それほどまでに同胞から恨みを買うとは一体何をしたのか」。こうピラトはイエス様に言っているわけです。ピラトはイエス様をユダヤ人の王を名乗り、民衆を扇動してローマ皇帝に背くような人物でないことは、イエス様を一目見たときから見抜いていたと思います。ですからピラトは始めに「お前のような者がユダヤ人の王なのか」とイエス様に問うたのです。35節で「同胞」と訳されている言葉がありますが、これは元の言葉を直訳すると「国民」となります。ピラトはイエス様をおちょくって「お前の国民と祭司長たちが、王であるお前をわたしに引き渡したのだ」と語ったのかも知れません。なぜならエルサレムの大勢の群衆はイエス様をイスラエルの王として歓呼して迎え入れた者たちであったからです。エルサレムの大勢の群衆はなつめやしの枝を振って自分たちをローマの支配から解放してくれるイスラエルの王としてイエス様を迎えました。けれども、今はその者たちがイエス様をローマの総督に引き渡す者となったのです。

 36節、37節のイエス様の御言葉は特に大切な御言葉であります。なぜならそこでイエス様は御自分の王権について、御自分がどのような王であられるかについて語っておられるからです。イエス様は「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人たちに引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」と答えることによって、ピラトが言うところの「ユダヤ人の王」ではないことを断言されました。「わたしの国は、この世には属していない」。このイエス様の御言葉は元の言葉から直訳すると「わたしの王国はこの世からのものではない」「わたしの王国はこの世を起源とするものではない」となります。ここで「国」と訳されている元の言葉は「王権」とも「王国」とも訳せます。イエス様の王国はこの世からのものではない。この世を起源とはしていないのです。イエス様は第8章23節でユダヤ人たちにこう言われました。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」。イエス様がこの世からのものではないように、イエス様の王権、王国もこの世からのものではないのです。イエス様の王国がこの世からのものではない一つの証拠として、イエス様は御自分が捕らえられたとき部下が戦わなかったことをあげております。この世からの王国、この世を起源とする王国に必要不可欠なもの、それは軍隊です。王としての支配を確立し、維持するためには軍事力が必要不可欠であります。しかしイエス様の王国はこの世を起源としておりませんから軍隊を持つ必要がないのです。ここでイエス様は「もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう」とおっしゃっていますが、実際はペトロが剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかったときイエス様は「剣をさやにおさめなさい」と言われました。それはイエス様の王国がこの世からのものではなかったからであります。ペトロはそれを勘違いしたのです。

 ピラトはイエス様が「わたしの王国」について語り出したので「それではやはり王なのか」と言いました。それに対してイエス様は「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と答えられました。これはピラトの答えを肯定するわけでも否定するわけでもない御言葉であります。イエス様は御自分が何者であるかをあくまでもピラトの言葉として語らせたいわけです。イエス様は続けて「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。イエス様は上から、天におられる御父のもとから遣わされたのでありますが、それは真理について証しをするためでありました。真理とはイエス様をお遣わしになった神その方であります(7:28参照)。イエス様は真理である御父について証しをすることにより、御自分の王国をこの世に打ち立てられるのです。そして真理に属する者である神の民は皆、真理そのものであるイエス様の御声に聞き従うのです(14:6参照)。軍事力によって従わせるのではありません。真理に属する者は、真理を証しするイエス様の御声に聞き従うのです。ちょうど羊が羊飼いの声を聞き分けるように、神の民はイエス様の御声を聞き分けるのです。そのようにしてイエス様の王国はこの世にその姿を現す。イエス様の御言葉が語られ、それに聞き従う私たちを通してイエス様の王権はこの地上に姿を現すのであります。

 38節でピラトは「真理とは何か」と言っておりますが、ここにも私たちはヨハネによる福音書のアイロニー、皮肉を見ることができます。ピラトは真理を証しするために生まれ、そのために世に遣わされたイエス様を目の前にしながら「真理とは何か」と問うのです。真理そのものと言えるイエス様を目の前にして、ピラトは「真理とは何か」と問うのであります。これによってピラトは自分が真理からの者でないことを暴露しているのです。35節でピラトはイエス様に「わたしはユダヤ人なのか」と申しました。このピラトの問いは否定の答えを当然予測するものであります。けれどもその答えがあやしくなってくる。なぜならヨハネによる福音書において「ユダヤ人」とは決して民族のことを言っているのではなくて、イエス様を受け入れない世の勢力に汲みする者たちのことであるからです。ここで裁かれているのはイエス様ではありません。イエス様を裁いていると思っているピラトがイエス様から裁かれているのです。「あなたはわたしが証しする真理を受け入れるか」。そのようにイエス様はピラトに問うておられるのです。ピラトだけではありません。イエス様は今朝私たちに「あなたはわたしが証する真理を受け入れるか」と問うておられるのです。イエス様が真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来たことによって、すべての人がイエス様の裁きの前に立つことになりました。なぜなら、イエス様の真理について証しは同時に世の行っている業が悪いことを告発するものであるからです。ここで「真理」と訳される言葉は旧約聖書では「真実」とか「誠実」と訳されます。この世はうそっぱち、真実なんてどこにもない。そうであるならば、世は裁かれないのです。けれども、神の永遠の御子が人としてお生まれになり、真実について証しするためにこの世に来られたことによって、世は裁かれるのです。イエス様は世において真理を証しすることによって、世の偽り、不誠実を告発するのです。そのことに、世に属する者たちは耐えられない。ですからイエス様を殺すのです。イエス様の復活を否定して、今も聖書を通して語っておられるイエス様の御声に聞こうとしないのです。けれども真理に属する者たちは皆、イエス様の御声に聞き従います。真理に属する者たちはイエス様が真理について証ししてくださったがゆえに、生きていくことができるのです。この世がうそっぱちで、真実などどこにもないならば私たちはこの世を生きていくことができましょうか?もしこの世がうそっぱちで、真実などどこにもないならばこの世は生きていく価値があるのでしょうか?けれどもイエス様がその言葉と行いにおいて、特に十字架に上げられることによって神の真実を証してくださいましたから、私たちは生きていけるのです。イエス・キリストに証された神の真実とは何か。それは神が御子をお与えになったほどに世を愛しておられるということであります(3:16参照)。この神の真実をイエス・キリストが身をもって証ししてくださいましたから、私たちは生きていくことができるのです。

 38節の後半から40節までをお読みします。

 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

 「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」これがピラトの判決でありました。しかし彼はイエス様をだから釈放するとは申しませんでした。過越祭において一人犯罪人を釈放する慣例を用いてあのユダヤ人の王釈放して欲しいかと持ちかけるのです。ピラトはなぜこのようなことを持ちかけたのでしょうか?明らかにピラトはここでユダヤ人たちに判断を突き返しております。するとユダヤ人たちは「その男ではない。バラバを」と大声で言い返しました。福音書記者ヨハネは「バラバは強盗であった」と注釈しています。ユダヤ人たちは良き羊飼いであるイエス様ではなくて、強盗を選び取るのです。そしてこのことは私たちに第3章19節の御言葉を思い起こさせます。「光が世に来たのに、人々は行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」。ユダヤ人たちは世の光であるイエス様よりも、闇の業をする強盗バラバを選びました。このようにして、ユダヤ人たちは、自分たちを神の民ではない者として裁いてしまうのです。

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