食卓からこぼれ落ちる恵み 2021年2月07日(日曜 朝の礼拝)
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食卓からこぼれ落ちる恵み
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- 村田寿和 牧師
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マルコによる福音書 7章24節~30節
聖書の言葉
7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。マルコによる福音書 7章24節~30節
メッセージ
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序.
前回(1月17日)、私たちは、人を穢すのは、外から人の体に入る食べ物ではなく、人の心から出て来る悪い思いや言葉であることを御一緒に学びました。イエスさまは、「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして、外に出される」と言われて、すべての食べ物を清いとされたのです。今朝の御言葉はその続きであります。
1.ティルスの地方
イエスさまは、ゲネサレトの土地を立ち去って、ティルスの地方へ行かれました。「ティルス」とは、フェニキアの町の名前であります。巻末の聖書地図の「6 新約時代のパレスチナ」を開いて場所を確認しておきたいと思います。ガリラヤ湖の北西の地中海沿岸に、「ティルス」とあります。イエスさまは、ユダヤ人の土地から異邦人の土地へと行かれたのです。今朝の御言葉に戻りましょう。新約の75ページです。
イエスさまは、異邦人の土地であるティルスの地方に行かれました。しかし、それは、異邦人に福音を宣べ伝えるためではありません。と言いますのも、24節の後半にこう記されているからです。「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」。イエスさまは、人との交わりを避けるために、異邦人の土地であるティルス地方に来られたのです。しかし、イエスさまは、隠れていることができませんでした(口語訳参照)。イエスさまは、人々の目から御自身を隠しておきたかったのですが、人々に気づかれてしまったのです。ティルス地方の人々もイエスさまがしておられたことを聞いていました。第3章8節に、こう記されていました。「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」。ティルスの地方の人々も、イエスさまがあらゆる病を癒し、汚れた霊を追い出していたことを聞いていたのです。
2.シリア・フェニキアの女
ガリラヤで、あらゆる病を癒し、悪霊を追い出されたイエスさまが、ティルスに来ておられる。この知らせを聞いた女は、すぐにイエスさまのもとへ行き、足もとにひれ伏しました。といいますのも、この女の幼い娘が汚れた霊に取りつかれていたからです。この女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれでありました。「ギリシア人」とありますが、これは「ギリシャ文化の中で育った人」という意味です。フェニキアは、紀元前2世紀に、ギリシャ帝国に支配されることによって、ギリシャ化していたのです。ですから、この女は、民族としては、シリア・フェニキア人であったのです。ちなみに、「シリア・フェニキア」とは、シリアにあるフェニキアという意味です。北アフリカのリビアにあるフェニキアと区別するために、シリア・フェニキアと呼ばれていたのです。いずれにしても、この女は、イスラエルの民に属さない、異邦人であります。その異邦人である女が、イエスさまの足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだのです。さて、イエスさまは、どうされるのでしょうか。会堂長ヤイロのときのように、女と一緒に出かけて行かれたのでしょうか。そうではありません。イエスさまは、こう言われたのです。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。ここでの「子供たち」とは、神の契約の民であるイスラエルのことであります。また、「小犬」とは、シリア・フェニキアの女に代表される異邦人のことであります。また、「パン」とは、イエスさまにおいて到来した神さまの救いのことです。イエスさまは、異邦人の女が、自分の足もとにひれ伏して、「どうぞ、娘から悪霊を追い出してください」と頼んだとき、「あなたの願うとおりにしてあげよう」とは言われませんでした。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われたのです。このイエスさまの御言葉は、私たちにとって衝撃ではないでしょうか。このイエスさまの御言葉の背後にあるのは、御自分が神の民イスラエルに遣わされた者であるという強い自己認識であります。イエスさまは、第1章38節で、こう言われました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。イエスさまは、近くの他の町や村に住むイスラエルの人々に、福音を宣べ伝えるために、ナザレから、さらには神さまのもとから出て来たのです。また、第6章4節で、イエスさまは、御自分が預言者であると言われました。イエスさまは、旧約の預言者たちに連なる、預言者の一人であるのです。そのような預言者として、もっと言えば、油を注がれたイスラエルの王として、神の契約の民イスラエルに救いをもたらすために、イエスさまは遣わされたのです(1:10、11参照)。では、イエスさまは、神さまから与えられるパン、救いの恵みは、ユダヤ人だけのものであると言われたのでしょうか。そうではありません。イエスさまは、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」と言われたのです。「まず」という言葉が大切であります。ここでの「小犬」は飼われている室内犬です。ギリシャの文化では、小犬をペットとして飼う習慣がありました。そのことをイエスさまは、念頭において言われているのです。お腹を空かせている子供たちを後回しにして、ペットの小犬にパンを与える人はいません。誰でも、まず、子供たちにパンを与えて、十分に食べさせます。その後で、ペットの小犬にも食べさせるのです。イエスさまは、「小犬にパンを与えない」とは、言われていません。イエスさまは、「まず、子供たちに十分食べさせた後で、小犬にパンを与える」、そのような順序があることを教えられたのです。そして、実際、『使徒言行録』を読むと、イエスさまの救いは、ユダヤ人から異邦人へと広がって行ったのです。使徒パウロが、ローマ書の第1章16節に記しているとおり、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」であるのです。パンに象徴される福音の恵みは、まず子供たちであるユダヤ人に与えられます。そして、十分食べた子供たちの手を通して、小犬である異邦人に与えられるのです。
3.食卓からこぼれ落ちる恵み
イエスさまは、「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」と言われることによって、女の頼みを断りました。女はどうしたでしょうか。「わたしを小犬呼ばわりするとは」と言って、怒って帰ってしまったでしょうか。そうではありません。女は答えて、こう言いました。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」。ここで、女はイエスさまの御言葉を受け入れています。自分が子供ではなく、小犬であることを受け入れたうえで、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と言うのです。ペットである小犬は、主人がパンをくれるまで、じっとして待っているのではありません。食卓の下で、パン屑が落ちて来るのを待っているのです。そして、落ちてくるパン屑を食べるのです。その小犬のように、この女は、子供たちが十分食べるのを待ってはいられないのですね。今、幼い娘が汚れた霊に取りつかれて苦しんでいるのですから、今、イエスさまの救いをいただかねばならないのです。この女の言葉の背後にあるのは、イエスさまが子供たちに与えられる救いは、食卓からこぼれてしまうほど、豊かであるという信仰です。イエスさまがもたらされる救い、それは、食卓からこぼれ落ちるほどに、豊かであるのです。第6章に、イエスさまが、五つのパンと二匹の魚で、五千人を満腹させたお話しが記されていました。イエスさまは、五つのパンと二匹の魚を祝福し、弟子たちに配らせることによって、五千人を十分に食べさせました。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠がいっぱいになったのです。そのように、イエスさまにおいてもたらされた救いは、豊かであるのです。このような信仰に裏打ちされた女の言葉を聞いて、イエスさまはこう言われました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」と訳されている言葉は、直訳すると「その言葉のゆえに、行きなさい」となります。その言葉とは、28節の女の言葉であります。イエスさまは、この女の言葉を、信仰の言葉として受けとめてくださいました。「食卓の下の小犬が子供のパン屑をいただくように、自分もユダヤ人にもたらされた溢れる救いにあずかることができる」。そのような信仰の言葉として、イエスさまは女の言葉を受け入れてくださったのです。そして、女が望んだとおりに、「悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言うのです。そして実際、30節にあるように、女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていたのです。ここで、私たちが注意したいことは、異邦人である女が、小犬としてではなく、子供として、イエスさまの救いにあずかったということです。女は、自分が小犬であることを認めました。そのことを認めたうえで、子供たちに与えられる豊かな恵みのおこぼれをいただきたいと願ったのです。そして、女は願いどおり、娘から悪霊を追い出していただき、イエスさまの救いにあずかったのです。そのようにして、この女は、子供たちの一人として、イエスさまの救いをいただいたのです。異邦人である女は、どのようにして、子供の一人となったのでしょうか。それは、イエスさまを「主」と呼び、イエスさまの善意に依り頼んだことによってであります。そして、そのことは、私たちにおいても同じであるのです。私たちは、旧約の区分から言えば、まことの神さまを知らない異邦人でありました。今朝の御言葉で言えば、「小犬」であったのです。しかし、その私たちが、今は、イエス・キリストにあって、神の子供たちとされているのです。イエスさまを、「主」と呼び、イエスさまの善意を信頼することによって、主の食卓に連なる神の子供たちとされているのです。私たちが、主の晩餐にあずかることは、そのことを教えているのです。ご存じのとおり、昨年の4月から、聖餐式を中止しております。けれども、今朝、私たちは、私たちが主の晩餐にあずかる者であることを想い起こしたいと思います。聖餐式において、私たちは、主の裂かれた体であるパンを食べ、主の流された血であるぶどう汁を飲みます。そこで、私たちは、神さまの子供たちとして、主の恵みを味わうのです。そして、その私たちの内にいるのは悪霊ではなく、神の霊、聖霊であるのです。私たちは、今、コロナウイルス感染症の拡大防止のために、聖餐の恵みにあずかることができません。しかし、私たちは主イエス・キリストのあふれるほどの恵みにあずかっていることを心に刻みたいと願います。