生ける希望
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- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書 ペトロの手紙一 1章3節~6節
1:3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、
1:4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
1:5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。
1:6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。ペトロの手紙一 1章3節~6節
序
前回(2020年11月22日)、私たちは、2節の御言葉から、私たちキリスト者とは何ものであるのかをご一緒に学びました。私たちは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、霊によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、その血を注ぎかけていただくために選ばれた者たちであるのです。私たちは、洗礼の水に象徴されるイエス・キリストの血を注ぎかけられて、神の新しい契約の民としていただきました。その私たちの歩みを支えるのは、神さまからいただく恵みと平和であるのです。その恵みと平和を、私たちは礼拝ごとに、「派遣と祝福」の言葉を通していただいているのです。
ここまでは前回の振り返りですが、今朝は3節から6節前半より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1.神への賛美
3節と4節を読みます。
わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。
ペトロは、神さまをほめたたえることから、この手紙の本論を書き始めます。実際、元の言葉を見ますと、「ほめたたえられますように」(ユーロゲートス)という言葉が最初に記されています。口語訳聖書は、3節を次のように翻訳しています。「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」。そのように、ペトロは、神さまをほめたたえようと、私たちを招いているのです。以前にも申しましたが、新約聖書にある手紙は、公の礼拝において朗読されました。教会に宛てて記された手紙ですから、教会の礼拝において朗読されたのです。礼拝において、私たちは、神さまを賛美します。神さまをほめたたえる歌を歌うのです。そのような神さまをほめたたえる礼拝において、改めて、私たちは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」というペトロの言葉を聞くのです。
ここでペトロは、単に「神」とは記さずに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と記しています。これは、神さまをより正確に言い表した言葉です。神という言葉は、さまざまなイメージが盛り込まれて用いられます。神という言葉に、人間のさまざまな願望が投影されるのです。「わたしは神を信じている」と言う人がいても、「では、その神とはどのような神ですか」と尋ねると、漠然とした超越的な存在であったり、あるいは、万物の背後にいる諸霊であったりすることがあります。「神さまを信じている」と言っても、その神さまが、聖書で言うところの偽りの神々、偶像であることがあるのです。では、私たちが信じている神さまとは、どのような神さまでしょうか。いろいろと言い表すことができます。天地万物を造られた神さま。イスラエルの民をエジプトから導き出された神さま。しかし、それだけなら、ユダヤ教とイスラームが信じている神と同じになってしまいます。私たちが信じている神さまは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」であるのです。私たちが礼拝においてほめたたえているのは、漠然とした超越的な存在でも、万物の背後にいる諸霊でもありません。私たちは、「私たちの主イエス・キリストの父である神さま」をほめたたえているのです。
2.神を賛美する根拠
ペトロは、神さまをほめたたえた後で、私たちが神さまをほめたたえるべき根拠を記します。今朝の週報に、参考として、聖書協会共同訳を記しておきました。そこには、こう記されています。「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました」。新共同訳と少し違うことに気づかれると思います。新共同訳は、イエス・キリストの復活を、生き生きとした希望と結びつけていますが、聖書協会共同訳では、イエス・キリストの復活を、私たちが新たに生まれることと結びつけています。他の翻訳聖書(新改訳2017、口語訳)も、聖書協会共同訳のように翻訳しています。元の言葉を見ても、聖書協会共同訳のように訳した方がよいと思いますので、今朝は、聖書協会共同訳に基づいてお話ししたいと思います。
なぜ、私たちは、神さまをほめたたえているのか。それは、神さまが豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださったからです。神さまが私たちを新たに生まれさせてくださった。それが、ここでの急所となる言葉です。神さまの豊かな憐れみは、その根拠であり、死者の中からのイエス・キリストの復活は、その手段であり、生ける希望を与えてくださったのは、その結果であります。新しく生まれるとは、神の霊によって生まれることを指しています。『ヨハネによる福音書』の第3章に、イエスさまとニコデモの対話が記されています。そこで、イエスさまは、こう言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。また、次のようにも言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。この二つの言葉を結び付けるとき、新たに生まれるとは、神の霊によって生まれることであると分かります。神さまは、私たちを聖霊によって、新たに生んでくださったのです。それは、私たちの行いによるのではありません。神さまの豊かな憐れみによるのです。そして、神さまは、私たちを新たに生まれさせるために、その手段として、イエス・キリストを死者の中から復活させられたのです。つまり、私たちを新たに生まれさせる神の霊は、十字架の死から復活させられたイエス・キリストを通して注がれるのです。なぜ、神さまは、イエス・キリストを死者の中から復活させられたのでしょうか。それは、私たちに聖霊を注いで、私たちを新たに生まれさせるためであるのです。復活されたイエス・キリストを通して聖霊を注がれ、新しく生まれた私たちには、生ける希望が与えられております。生ける希望とは、私たちを生き生きと生かす希望であり、必ず実現する希望のことです。新しく生まれる前まで、私たちは、希望を持たずに歩んでいました(エフェソ2:12参照)。希望を持っていたとしても、それは死んだ希望、いつかは失望に終わってしまう希望であったのです。この世の人生の終わりをもたらす死によって、色あせてしまう希望であったのです(ローマ5:24参照)。では、私たちに与えられている生ける希望とは、どのような希望なのでしょうか。それは死を越えた希望、イエス・キリストが死者の中から栄光の体で復活させられたように、私たちも栄光の体で復活させられるという希望であるのです。
また、神さまは、私たちのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。この地上の財産は、やがては朽ちて、汚れて、しぼんでしまいます。旧約のイスラエルの民にとって、受け継ぐべき財産は、何よりも約束の地カナンでありました。しかし、カナンの土地は、イスラエルの民の罪によって汚れ、都エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされてしまいました。けれども、カナンの土地が指し示すところの新しい天と新しい地、新しいエルサレムは、朽ちず、汚れず、しぼむことがないのです(黙示21章、22章参照)。新しく生まれた私たちは、天に蓄えられている朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者とされています。それは、イエス・キリストの復活を信じて、新しく生まれた私たちが神の子とされているからです。そのようにして、私たちは、神の御子イエス・キリストと共同の相続人とされたのです(ローマ8:17参照)。神さまは、私たちに天に蓄えられている財産、神の義が宿る新しい天と新しい地を相続させてくださいます(二ペトロ3:13参照)。私たちは、天に蓄えられている財産、神の義が宿る新しい天と新しい地、完成された神の国を受け継ぐことができるのです。
3.神の守り
5節と6節前半を読みます。
あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。
生ける希望の実現である栄光の体で復活することも、天に蓄えられている財産である新しい天と新しい地を受け継ぐことも、「終わりの時に現されるように準備されている救い」と言えます。「終わりの時」とは、天からイエス・キリストが、再び来られる時のことです。『ヨハネの黙示録』の第19章から第22章に記されているように、イエス・キリストが再び来られることによって、最後の審判が行われ、死者が復活し、新しい天と新しい地が到来するのです。そのような救いを受けるために、私たちは、イエス・キリストが天から来られる日まで、あるいは、私たちが地上の人生を終えて、イエス・キリストのおられる天へと召される日まで、イエス・キリストを信じ続ける必要があります。なぜなら、イエス・キリストへの信仰こそ、私たちをイエス・キリストに結びつける絆であり、救いを受け取る手であるからです。こう聞きますと、私たちは不安になると思います。私たちは、イエス・キリストが来られる日まで、あるいは、イエス・キリストのもとに召される日まで、信じ続けることができるだろうか。そのように考えるのです。しかし、ペトロは、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られている」と記すのです。神さまは、私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださいました。イエス・キリストへの信仰は、私たちの業ではなく、私たちの内に働く神の業であるのです。なぜ、神さまは、私たちにイエス・キリストを信じる信仰を与えてくださったのか。それは、私たちがイエス・キリストの再臨の日に現される救いを受けるためであるのです。
私たちは、この後、『讃美歌21』の469番、「善き力にわれかこまれ」を歌います。この讃美歌は、ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーの詩に曲をつけたものです。ボンヘッファーは、ヒトラーを暗殺する計画にかかわって投獄され、処刑された優秀な神学者でありました。そのボンヘッファーが、獄中で記した詩が、「善き力にわれかこまれ」という詩であるのです。いつも1番だけを歌いますので、ここでは、最後の5番の歌詞を読みます。「善き力に 守られつつ、来たるべき時を待とう。夜も朝も いつも神は われらと共にいます」。このように、ボンヘッファーが記すことができたのは、自分が、神の御力により、信仰によって守られていることを知っていたからです。それゆえ、ボンヘッファーは、牢獄の中にあっても、死を前にしても、望みを失うことはなかったし、喜ぶことができたのです。そして、このことは、私たちも同じであります。私たちは、善き力に守られている。それゆえ、終わりの日に現される救いに確かにあずかることができる。そのことを喜んで、私たちはイエス・キリストの父である神をほめたたえているのです。