わたしの心に適う者 2012年12月16日(日曜 朝の礼拝)

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わたしの心に適う者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 3章13節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。マタイによる福音書 3章13節~17節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 前回私たちは、洗礼者ヨハネが悔い改めのしるしとして洗礼を授けたことを学びました。今朝の御言葉はその続きとなります。

1.ヨハネのところへ来られたイエス

 13節に次のように記されています。「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」。かつて学んだ第2章22節、23節に、ヨセフが幼子イエス様とその母親を連れて、「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」と記されておりましたが、大人になられたイエス様は、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られました。ルカによる福音書によれば、イエス様はこのときおよそ30歳でありました(ルカ3:23参照)。「そのとき」とありますが、「そのとき」とは、洗礼者ヨハネが悔い改めるように告げ知らせ、そのしるしとして洗礼を授けていたまさにそのとき、ということであります。洗礼者ヨハネのうわさはガリラヤまで伝わっていたのでしょう。イエス様は洗礼者ヨハネのことを聞いて、いよいよ御自分の時が来たことを悟られたのだと思います。そのことはイエス様も洗礼者ヨハネの働きに、主の日の到来に先立って遣わされるエリヤの働きを見ておられたことを私たちに教えているのです(マラキ3:23参照)。イエス様は何をしにヨハネのところへ来られたのか?福音書記者マタイは「彼(ヨハネ)から洗礼を受けるためである」と記しております。このことは、私たちにとって、驚きではないでしょうか?そして、このことを誰よりも驚いたのが、洗礼者ヨハネであったのです。

2.思いとどまらせようとするヨハネ

 14節に次のように記されています。「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」。なぜ、ヨハネは、イエス様が洗礼を受けることを思いとどまらせようとしたのでしょうか?それは、イエス様こそ、ヨハネの後から来られる、ヨハネよりも優れたお方であったからです。ヨハネは11節、12節で次のように言っておりました。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。

どのようにして知ったのかは書いてありませんが、ヨハネは、イエス様こそ自分の後から来られる、優れたお方であることを知っていたのです。それゆえ、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言ったのであります。前回学びましたように、ヨハネは悔い改めに導くために水で洗礼を授けておりますが、後から来られるお方、メシア、救い主は聖霊と火で洗礼をお授けになられます。ですから、ヨハネは、「私こそ、あなたから聖霊と火で洗礼を受けるべき者である。そのあなたがわたしから水で洗礼を受けるのですか」と言ったわけです。しかし、イエス様はこうお答えになりました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいこです」。イエス様は、御自分がヨハネより後から来られる優れた者であること、聖霊と火で洗礼を授ける者であることをここで否定してはおりません。ヨハネの言葉をもっともな言葉として受け止めつつ、「今は、止めないでほしい」と言われるのです。なぜなら、「正しいことをすべて行なうのは、我々にふさわしいことである」からです。ここで「正しいことをすべて行なう」とありますが、元の言葉を直訳すると「すべての義を成就する」と記されています。ちなみに、口語訳聖書は、「すべての正しいことを成就する」と翻訳しています。イエス様がヨハネから洗礼を受けること、それは成就すべき正しいことであるのです。もちろん、ここでの「正しいこと」とは「神の御前に正しいこと」という意味であります。イエス様は、その神の御前に正しいことをすべて行なうことは、我々にふさわしいことだ、と言われるのです。ここでの「我々」は、第一に、イエス様と洗礼者ヨハネのことを指しております。ヨハネより優れた方、聖霊と火で洗礼を授ける方であるイエス様がヨハネから水で洗礼を受けることは、イエス様にとって神の御前に正しいことであるのです。また、自分よりも優れたイエス様に水で洗礼を授けることは、ヨハネにとって神の御前に正しいことであるのです。それゆえ、ヨハネはイエス様の言われるとおりにしたのであります。

3.メシアとしての任職

 16節、17節に次のように記されています。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。ここに記されていることは、神様がイエス様に聖霊を注いで、イエス様をメシア、救い主として任職された光景であります。昔、イスラエルにおいて、王に任職する人の頭に油を注ぐという儀式を行いました。油は、神の霊である聖霊を表しており、それによって王となる人に聖霊が与えられたことを表したのです。この王に油を注ぐという儀式は預言者や祭司によって執行されましたが、ここでは、神様が天を開いて、イエス様に神の霊を注がれるのです。イエス様は、自分に向かって天が開き、神の霊が鳩のように御自分のうえに降って来るのを御覧になられたのです。このことは、イエス様が神様によって聖霊を注がれ、メシア、救い主として任職されたことを私たちに教えているのです。

 このことは、天からの声によって宣言されたことでもあります。「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」とありますが、この御言葉は王が任職する際に歌われた詩編第2編7節を背景として読むべきであります。実際に見てみたいと思います。旧約聖書の835頁です。詩編第2編は、王の即位の詩編でありますが、その7節に、「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」と記されております。サムエル記下第7章に記されているダビデ契約の中で、「わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われておりますように、イスラエルの王となることは、神の子となることでもあるのです(サムエル記下7:13、14参照)。今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の4頁です。

 神によって王に任職された者は、神様によって「わたしの子」と呼ばれるのでありますが、イエス様は「わたしの愛する子」と呼ばれています。これは神様とイエス様との特別な関係を表しています。つまり、イエス様は神様の独り子であるのです。創世記の第22章で、神はアブラハムに「あなたの愛する独り子イサクを連れてモリヤの地に行きなさい」と言われたように、「愛する子」は「独り子」でもあるのです。私たちはイエス様が聖霊によっておとめマリアの胎にやどり、ダビデ家のヨセフを法的に父として生まれてきたことを学びました。ですから、イエス様は、神様にとってまさしく愛する独り子であるのです。イエス様は王として任職されたゆえに神の子とされただけではなく、その存在においても聖霊によっておとめマリアより生まれたゆえに、神の愛する独り子であるのです。

 また、神様は、「わたしの心に適う者」とも言われました。このところを新改訳聖書は「わたしはこれを喜ぶ」と翻訳しています。この御言葉はイザヤ書の第42章1節を背景として読むべきであります。実際に見てみたいと思います。旧約聖書の1128頁です。イザヤ書第42章は小見出しに「主の僕の召命」とありますように、イザヤ書にある主の僕の歌の最初のものであります。その1節にこう記されています。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す」。この「喜び迎える者」こそ、神がわたしは彼を喜ぶと言われる、「わたしの心に適う者」であるのです。すなわち、イエス様こそイザヤが預言した主の僕であるのです。今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の4頁です。

結.イスラエルの王にして主の僕

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声は、イエス様がどのようなメシア、救い主として任職されたのかを私たちに教えております。それは一言で言えば、「イスラエルの王であり、主の僕であるメシア」であります。私たちは先程、この天からの声を、かつて語られた神の言葉、詩編第2編7節とイザヤ書第42章1節を念頭において読むべきであることを確認いたしました。かつて語られた神の言葉である旧約聖書を背景として、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉を読むとき、イエス様がイスラエルの王であり、主の僕であるメシアとして任職されたことが分かるのです。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと。このことは、教会にとって、一つのつまずきでありました。なぜなら、ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼であったからです。教会の信仰によればイエス様は罪のないお方であります(一ヨハネ3:5参照)。そのイエス様が、なぜ悔い改めの洗礼をヨハネから受けられたのか?なぜ、ヨハネから洗礼を受けることが、神の御前に正しいことなのか?そのことを教会は不思議に思ったのです。そして、その謎を解き明かす鍵とも言えるのが、この天からの声であるのです。イエス様は、イスラエルの王であり、主の僕として、罪のないお方であるにもかかわらず、ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられたのであります。そのようにして、イエス様は私たち罪人のメシアとしての歩み出される。そのようなイエス様に神は天を開いて聖霊を注ぎ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という宣言によって、メシアとして任職されたのです。

 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を福音書記者マタイは「これは」と三人称で記しておりますが、マルコによる福音書、ルカによる福音書を見ますと、「あなたは」と二人称で記されています。神の霊が鳩のように降って来るのを見たのはイエス様だけでありまして、元々は、「あなたは」と二人称で記されていたと考えられています。では、なぜ、マタイは「これは」と三人称に書き換えたのか?それは、この福音書を読んでいる私たちに、イエス様が神様の愛する子であり、神の御心を実現する者であることを教えるためであります。イエス様がイスラエルの王であり、主の僕であるメシアとして任職されたことは、イエス様だけが知っていればよいことではなくて、私たちが今朝はっきりと知らなくてはならないことであるのです。

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