悪を善に変える神 2014年6月22日(日曜 夕方の礼拝)
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悪を善に変える神
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
創世記 50章15節~21節
聖書の言葉
50:15 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
50:16 そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
50:17 『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。
50:18 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、
50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
50:21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。創世記 50章15節~21節
メッセージ
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今夕は、創世記50章15節から21節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、ヤコブの埋葬について学びました。ヤコブの息子たちは、父に命じられていたとおり、父のなきがらをカナンの土地に運び、マクペラの畑の洞穴に葬ったのです。今夕の御言葉はその続きであります。ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しするのではないかと思いました。兄弟たちは、ヨセフが自分たちのことを心から赦したわけではなく、父親のヤコブに免じて自分たちに仕返しをしなかったのではないかと考えたのです。27章41節に、エサウが心の中で、「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる」と言っていたように、兄弟たちは、父ヤコブの死によって、ヨセフが自分たちの悪に仕返しをするのではないかと考えたのです。それほど、家長である父ヤコブの死は、息子たちにとって、大きな出来事であったのです。しかも、前回学びましたように、ヨセフは、父ヤコブのために荘厳な葬儀を行うことによって、兄弟たちに自分の力を見せつけたばかりでありましたから、兄弟たちがヨセフを恐れたのも当然であったかも知れません。ヨセフは父ヤコブのために荘厳な葬儀を行うことによって、自分がエジプトを治める者であり、さらにはヤコブの一族を治める、家督を継ぐ者であることを示したのでした。しかし、兄弟たちがヨセフを恐れた原因は、ヨセフにあるというよりも、彼ら自身にありました。兄弟たちは、ヨセフが自分たちを赦してくれているとの確信を得ることができないでいたのです。45章に記されていたように、ヨセフは兄弟たちを赦しているのですが、兄弟たちは赦しの確信を得ることができないでいたのです。それゆえ、兄弟たちは、人を介してヨセフにこう言うのです。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」。ここで兄たちは、直接ヨセフに語らず、人を介してヨセフに語っています。これは、兄たちがヨセフを恐れていたからです。ヨセフは、ヤコブの葬儀によっても分かりますように、エジプトの王ファラオに等しい権力者であります。そのヨセフが兄たちの悪に仕返ししようとするならば、牢獄に閉じ込めることも、死刑にすることもできたのです。それで、兄たちはヨセフに直接会うことを恐れて、人を介してヨセフに語りかけたのです。その昔、ヤコブがエサウに会うことを恐れて、自分よりも先に、使いの者を遣わしたように、兄たちは、人を介して、ヨセフに語るのです。ここで兄たちは、父ヤコブの生前の言葉を伝えることによって、赦しを得ようとしています。父ヤコブは亡くなる前にこう言っておりました。「お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい」。ある研究者は、このヤコブの言葉は、兄たちの創作であると言っていますが、私はそうではないと思います。ヤコブは、自分が死んだ後の息子たちの関係を案じていたのだと思います。それゆえ、ヨセフとの関係が悪くなったときには、このように言いなさいと、兄息子たちに語るべき言葉を授けていたと思うのです。ヤコブにとっても、兄息子たちがヨセフにしたことは到底赦されない咎と罪であるように思われたのです。そして、そのことは当事者である兄たちにはなおさらのことでした。ですから、兄たちは続けて、「どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と言うのです。ここで、兄たちは、自分たちがヨセフと同じ父ヤコブの神に仕える者であることに言及しています。兄たちは父ヤコブの神にあって、自分たちの咎を赦してくださいと願い出るのです。実は、兄たちが自分たちの咎を告白し、赦しを願ったのはここが初めてであります。私たちは、45章において、ヨセフが兄弟たちに身を明かし、ヨセフと兄弟たちが語り合ったことを学びました。ここで、ヨセフと兄たちは和解したわけですが、実は、ここには、兄たちが自分たちの咎を認めた言葉も、赦しを願う言葉も記されていないのです。そのことを思いますとき、兄たちが罪の赦しを確信することができなかったのも無理はなかったと思います。兄たちは、まだヨセフに自分たちの悪を告白しても、赦しを請うてもいなかったわけですから、ヨセフが自分たちを赦してくれていると確信できなかったのも当然のことであったのです。このような人を介して語られた兄たちの言葉を聞いて、ヨセフは涙を流しました。涙の意味を問うのも野暮ですが、おそらく、ヨセフは、兄たちが自分たちの犯した罪のために苦しんでいることを知って涙を流したのだと思います。そして、この涙は、何より、ヨセフが兄たちの咎を赦していることを示すものであったのです。やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言いました。これまでも、兄たちはヨセフの前にひれ伏しましたが、それはエジプトの総理大臣にひれ伏したのであって、弟のヨセフにひれ伏したのではありませんでした。しかし、ここで初めて、兄たちは、弟のヨセフの前にひれ伏し、自分たちから、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言ったのです。これは、37章に記されていたヨセフの夢の実現であります。ヨセフの夢の話しを聞いた兄たちは、こう言いました。「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか」。この言葉どおり、ヨセフは兄たちの王となるのです。そして、そのことは、兄たちの自発的な行動によって実現するのです。ルカによる福音書の15章に、いわゆる「放蕩息子のたとえ」が記されていますが、そこで弟息子は、父のところに行って、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おうと決心したことが記されています。ヨセフの兄たちも同じ気持ちではなかったかと思います。兄たちは、「私どもはあなたの僕です」と言わざるを得ないほどに、ヨセフに対して大きな罪を犯したと自覚していたのです。そのような兄たちに、ヨセフはこう言いました。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう」。ある研究者は、「ここでヨセフは、『あなたたちの咎を赦す』と言っていない」と指摘しています。確かに、言葉としては語られていませんが、ヨセフが兄たちを赦していることは明らかであります。ヨセフは兄たちの咎を赦しているゆえに、二度も「恐れることはありません」と語り、兄たちとその子供たちを養うことを約束するのです。なぜ、ヨセフは兄たちの咎と罪を赦すことができたのでしょうか?それは、兄たちの咎と罪も、神様の導きの内にあったことをヨセフが知っていたからです。このことは、既に、45章でヨセフが語っていたことでありました。兄弟たちに身を証したヨセフは、こう言いました。「わたしはあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです」。ヨセフが兄弟たちを赦すことができたのは、すべてのものの背後にある神様の導きを信じていたからでありました。神様は、すべてのものを御心のままに保ち、治めておられる。この神様の摂理の御業を信じるがゆえに、ヨセフは兄たちの咎を赦すことができたのです。また、今夕の御言葉においても、「あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と願う兄たちに、「わたしが神に代わることができましょうか」と答えるのです。これは、兄たちの罪を赦すことができないということではありません。むしろ逆です。ヨセフは、自分は兄たちを罪に定めることはできないと言っているのです。なぜなら、神様は兄たちの悪い計画を用いて、良い計画を立てられたからです。神様は兄たちの悪を善に変えて、ヤコブの一族の命を、さらには多くのエジプト人の命を救うことをよしとされたのです。ここに、神様が人間の悪をも用いて、善をなしてくださるお方であることが告白されています。それゆえ、私たちは、どのようなときも絶望して自暴自棄になってはならないのです。使徒パウロがローマ書の8章28節で記しているように、神様は御自分を愛する者たちのために、万事を益としてくださるお方であるのです。神様は、悪をも善に変えて、救いを実現してくださるお方であります。そして、そのことの典型が、イエス・キリストの十字架の出来事であったのです。人間は、正しい人であり、神の御子であるイエス・キリストを十字架につけて殺してしまいました。しかし、神様は、その人間の悪を用いて、罪の贖いという善をなしてくださったのです。イエス・キリストの十字架の出来事によって、私たちは罪から救われたのです。それゆえ、私たちは、神様が悪をも用いて善をなしてくださることを体験として知っているのです。