ヤコブの祝福 2014年5月18日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの祝福

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 49章13節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

49:13 ゼブルンは海辺に住む。そこは舟の出入りする港となり/その境はシドンに及ぶ。
49:14 イサカルは骨太のろば/二つの革袋の間に身を伏せる。
49:15 彼にはその土地が快く/好ましい休息の場となった。彼はそこで背をかがめて荷を担い/苦役の奴隷に身を落とす。
49:16 ダンは自分の民を裁く/イスラエルのほかの部族のように。
49:17 ダンは、道端の蛇/小道のほとりに潜む蝮。馬のかかとをかむと/乗り手はあおむけに落ちる。
49:18 主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。
49:19 ガドは略奪者に襲われる。しかし彼は、彼らのかかとを襲う。
49:20 アシェルには豊かな食物があり/王の食卓に美味を供える。
49:21 ナフタリは解き放たれた雌鹿/美しい子鹿を産む。
49:22 ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる。
49:23 弓を射る者たちは彼に敵意を抱き/矢を放ち、追いかけてくる。
49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく/彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により/それによって、イスラエルの石となり牧者となった。
49:25 どうか、あなたの父の神があなたを助け/全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福/下は横たわる淵の祝福/乳房と母の胎の祝福をもって。
49:26 あなたの父の祝福は/永遠の山の祝福にまさり/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり/兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。
49:27 ベニヤミンはかみ裂く狼/朝には獲物に食らいつき/夕には奪ったものを分け合う。」
49:28 これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。創世記 49章13節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 ヤコブは自分の死を前にして、息子たちを呼び寄せてこう言いました。「集まりなさい。わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。ヤコブの息子たちよ、集まって耳を傾けよ。お前たちの父イスラエルに耳を傾けよ」。前回、私たちは、ヤコブとレアとの間に生まれた最初の4人の息子たち、ルベン、シメオン、レビ、ユダについての預言の言葉を学びました。ユダの子孫から王が出るという預言がダビデにおいて、最終的にイエス・キリストにおいて実現したことを学んだのでありました。今夕は、13節以下に記されている残りの8人の息子たちについて学びたいと思います。

 13節をお読みします。

 「ゼブルンは海辺に住む。そこは舟の出入りする港となり/その境はシドンに及ぶ。」

  ゼブルンもヤコブとレアとの間に生まれた息子でありますが、ここでは、イスラエル十二部族がカナンの地に定住する際に、どこに嗣業の土地を得るかが預言されています。けれども、聖書地図の3「カナンへの定住」を見ると分かるように、ゼブルンの領地は、海辺に接しておりません。しかし、ゼブルンの領地は海辺に近く、またシドンからも近かったので、海上貿易によって豊かになったようであります(申命33:19の「彼らは海の富、砂に隠れた宝を手に入れる」を参照)。

 14節、15節をお読みします。

 「イサカルは骨太のろば/二つの革袋の間に身を伏せる。彼にはその土地が快く/好ましい休息の場となった。彼はそこで背をかがめて荷を担い/苦役の奴隷に身を落とす。」

 イサカルもヤコブとレアとの間に生まれた息子であります。「二つの革袋」とはろばの背中の両側につける革袋を指しています。ここには、生活で使う物質的なものを得るために、自分の自由な身分を売り渡してしまう部族の姿が預言されています。

 16節から18節をお読みします。

 「ダンは自分の民を裁く/イスラエルのほかの部族のように。ダンは、道端の蛇/小道のほとりに潜む蝮。馬のかかとをかむと/乗り手はあおむけに落ちる。主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。」

 ダンはヤコブとラケルの召使いビルハとの間に生まれた息子であります。「ダン」という名前は「裁く」という意味ですが、その名前のとおりダンも自分の民を裁くものとなるのです。ユダが獅子に喩えられていたのに対して、ダンが蛇に喩えられているのは、この民族の小ささをうまく表しています。18節の「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」という言葉は、唐突な印象を受けますが、ヤコブが「かかと」という自分の名前と関係する言葉に、心動かされたためであったかも知れません。25章26節には、「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」と記されておりました。ヤコブは、ダンについての預言を語る中で、自分のことを思い起こし、「主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む」との信仰を言い表したと考えられるのです。

 19節をお読みします。

 「ガドは略奪者に襲われる。しかし彼は、彼らのかかとを襲う。」

 ガドはヤコブとレアの召使いジルパとの間に生まれた息子であります。ここでヤコブは「ガドは略奪者に襲われる」と預言しておりますが、これはガド族が割り当てられる土地と関係しております。ガド族は、ヨルダン川の東岸を嗣業の土地として割り当てられました。それゆえ、アンモン人からの襲撃をしばしば受けることになるのです。しかし、ここでヤコブが預言しておりますように、ガドはその襲撃に屈することはなかったようであります(申命33:20、21参照)。

 20節をお読みします。

 「アシェルには豊かな食物があり/王の食卓に美味を供える。」

 アシェルもヤコブとレアの召使いジルパとの間に生まれた息子であります。この預言も、アシェル族が割り当てられるカナンの土地と関係しています。アシェルは肥沃な平原と海に至る通商路を持っていたため、王のために食糧を提供するようになるのです(申命33:24、列王上4:7参照)。

 21節をお読みします。

 「ナフタリは解き放たれた雌鹿/美しい子鹿を産む。」

 ナフタリはヤコブとラケルの召使いビルハとの間に生まれた息子であります。ここには、ナフタリ族の機敏さと自由を愛する精神が預言されています。ナフタリ族は山々を自由に駆け巡り、子に恵まれると言うのです。

 22節から26節までをお読みします。

 「ヨセフは実を結ぶ若木/泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は石垣を越えて伸びる。弓を射る者たちは彼に敵意を抱き/矢を放ち、追いかけてくる。しかし、彼の弓はたるむことなく/彼の腕と手は素早く動く。ヤコブの勇者の御手により/それによって、イスラエルの石となり牧者となった。どうか、あなたの父の神があなたを助け/全能者によってあなたは祝福を受けるように。上は天の祝福/乳房と母の胎の祝福をもって。あなたの父の祝福は/永遠の山の祝福にまさり/永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福がヨセフの頭の上にあり/兄弟たちから選ばれた者の頭にあるように。」

 ヨセフは、ヤコブとラケルとの間に生まれた息子でありますが、ここで、ヤコブはヨセフを祝福しています。ヤコブの口から祝福が語られるのは、ヨセフに対してだけです。そして、ここに、死を前にしたヤコブが息子たちを呼び寄せて、一人一人の将来について語った理由があるのです。ヤコブはすでに、48章で、ヨセフを祝福し、さらにはその子供たち、エフライムとマナセを祝福しました。ヤコブはすでに、ヨセフを長子として、家督を継ぐ者として祝福していたのです。そして、49章では、すべての息子たちの前で、そのことを明瞭に語ったのであります。それゆえ、49章は、誰に家督を譲るのか、誰を神の祝福の担い手とするのかを示す、ヤコブの遺言とも言えるのです。ヤコブは自分が死んだ後、息子たちの間に、家督をめぐって争いが起こらないように、ヨセフをすべての息子たちの前で、祝福するのです。ヨセフこそ、父の祝福を受け継ぐ、兄弟たちから選ばれた者であるのです。そして、この預言は、ヨセフの息子エフライムが、北王国イスラエルの中心的な部族になることによって実現するのです。

 27節をお読みします。

 「ベニヤミンはかみ裂く狼/朝には獲物に食らいつき/夕には奪ったものを分け合う。」

 ベニヤミンはヤコブとラケルとの間に生まれた息子でありますが、ここではベニヤミン族の好戦的な様子が預言されています。そして、このようなベニヤミン族への姿は、士師記19章から21章に記されている野蛮な行為に垣間見ることができるのです。

 最後、28節をお読みします。

 これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。

 ここには、ヤコブが息子たちに語った言葉が、息子たちから出る部族に対して語られた祝福の言葉であることが記されています。しかし、先程も申しましたように、ヤコブの口から祝福が語られるのは、ヨセフに対してだけであるのです。しかし、創世記の記者は、「父は彼らを、おのおのにふさわし祝福をもって祝福したのである」というのです。なぜなら、イスラエルの部族は十二の部族からなっていても一つであるからです。ヤコブはヨセフを祝福することによって、その兄弟たちをも祝福したのです。そして、現に、シメオンとレビを除いたすべての息子たちが、約束の地カナンを受け継ぐことが預言されているのです。シメオンとレビも、散らされてではありますが、カナンの地に住むことができるのです。そして、これは父ヤコブを通して神様が与えてくださったおのおのにふさわしい祝福であるのです。

 私たちも、まことのイスラエルであるイエス・キリストにあって、神様の祝福にあずかる者たちとされました。そして、その祝福はやはり一つの神の民として与えられている祝福であるのです。この視点を忘れるとき、神様の祝福がねたみと争いの原因となるのです。神様が私たちをイエス・キリストにあって祝福してくださること、そして、その祝福は神の教会全体のために与えられている祝福であることを、心に留めたいと願います。

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