ヤコブの遺言 2014年4月13日(日曜 夕方の礼拝)

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ヤコブの遺言

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 47章28節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

47:28 ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった。
47:29 イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトには葬らないでくれ。
47:30 わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい。」ヨセフが、「必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答えると、
47:31 「では、誓ってくれ」と言ったので、ヨセフは誓った。イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した。創世記 47章28節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、創世記47章28節から31節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 28節に、「ヤコブは、エジプトの国で十七年生きた。ヤコブの生涯は百四十七年であった」と記されています。これを読みますと、ヤコブがエジプトに来てからもずいぶん生きたことが分かります。ヤコブはこれまで自分の死について何度も語って来ましたけれども、エジプトで十七年も生きたのです。私が思いますに、それはヨセフとの出会いによってヤコブが元気を取り戻したからであると思います(45:27参照)。ヤコブは、自分の生涯を振り返って、ファラオに、「わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く」と語りましたが、その晩年は、楽しみ多いものであったと思います。それゆえ、ヤコブはエジプトの国で17年も生きることができたのです。

 29節に、「イスラエルは死ぬ日が近づいたとき、息子ヨセフを呼び寄せて言った」とありますが、これはヤコブがエジプトの国に移り住んでから、15年、16年経ってからかも知れません。もちろん、この時には、飢饉は終わっております。イスラエルは自分が死ぬ日が近づいたことを感じ、息子ヨセフを呼び寄せてこう言いました。「もし、お前がわたしの願いを聞いてくれるなら、お前の手をわたしの腿の間に入れ、わたしのために慈しみとまことをもって実行すると、誓ってほしい。どうか、わたしをこのエジプトに葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい」。ここで、ヤコブは息子ヨセフに誓うことを求めております。「誓う者が、誓う相手の腿の間に手を入れる」という行為は、24章にも記されておりました。24章には、アブラハムが息子イサクの妻を迎えるために、年寄りの僕を遣わす場面が記されています。そのときも、アブラハムは、自分の腿の間に手を入れて誓うように、と僕に言っております。腿の間に手を入れるという行為についてはよく分からないのですが、おそらく、性器に触れることを意味したようです。ともかく、ヤコブは、かつてのアブラハムのように、自分の腿の間に手を入れて誓うようにとヨセフに言うのです。ここでヤコブは、「わたしのために慈しみとまことをもって実行すると誓ってほしい」と願っておりますが、それはヨセフに誓わせようとしていることが、自分が死んだ後の、葬りのことだからでありますね。自分が死んだ後、自分の遺体が、エジプトではなく、カナンの地にある先祖の墓に葬られるかどうかは、ひとえに、ヨセフの慈しみとまことにかかっているわけです。ヤコブは、「どうか、わたしをこのエジプトに葬らないでくれ。わたしが先祖たちと共に眠りについたなら、わたしをエジプトから運び出して、先祖のたちの他に葬ってほしい」と願いましたが、考えてみますと、これは大変なお願いであります。普通、エジプトで死んだら、エジプトに葬りますよね。しかし、ヤコブは、エジプトには葬らないで、カナンの地にある先祖の墓に葬ってほしいと願うのです。これは、権力のあるヨセフにしかできないことであります。そのことをヤコブもよく分かっていたのでしょう。ですから、ヤコブは、息子ヨセフを呼び寄せたのです。しかし、なぜ、ヤコブは、「わたしをこのエジプトには葬らないでくれ」と言ったのでしょうか?それは、ヤコブにとって、エジプトは寄留の地であったからです。土地を得て、子を得て、大いに数が増しても、イスラエルにとって、エジプトは寄留の地であるのです。それゆえ、ヤコブは、「わたしをこのエジプトには葬らないでくれ」と願ったのです。

 ヤコブは、「わたしが先祖たちと共に眠りについたなら」と言っておりますが、これは面白い言い方であると思います。これはヤコブが死後の世界というものを信じていたことを教えています。ヤコブの先祖であるアブラハムもイサクも、死後の世界である陰府において、眠っているのです。そして、その陰府とは、墓の下であるのです。それゆえ、ヤコブは「わたしをエジプトから運び出して、先祖たちの墓に葬ってほしい」と願うのです。ドイツの旧約学者であるツィンマリは、『旧約聖書の世界観』という書物の中で、このように記しています。「すでに先祖たちが葬られている場所に安置されるというのは、明らかに完全な死の安らぎを意味した」。このことは、私たち日本人にもよく分かるのではないでしょうか?なぜなら、多くの日本人が先祖のお墓に葬られたいと願っているからです。このことも、多くの日本人が、死後の世界を信じていることを表しています。多くの日本人が、死んだら無になるとは考えずに、死後の世界を信じているのです。先祖が葬られているお墓に入りたいという願いの背後には、死後の世界への信仰があるのです。しかし、ヤコブが、ここで、「先祖たちの墓に葬ってほしい」と言ったのは、単に、死後も先祖と共にいたいという願っただけではなかったと思います。それは、ヤコブの信仰の表明でもあったのです。そもそも、このお墓は、アブラハムが妻サラを葬るために、ヘト人から銀400シェケルで購入したものでありました。アブラハムは、神様から、カナンの地を、あなたと子孫に与えるとの約束をいただいておりましたが、実際、彼が手にしたのは、墓地として購入したヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑だけであったのです。そして、そこに、アブラハム自身も、そしてイサクも葬られたのです。彼らは、神様がカナンの地を、自分の子孫に与えてくださるとの信仰をもって、その墓地に葬られたのです。そして、そのことは、ヤコブも同じであったのです。ヤコブも、祖父アブラハムと、また父イサクと同じ信仰に生きたのであります。それゆえ、ヤコブは、エジプトではなく、カナン地方にある先祖が葬られている墓に葬ってほしいと願うのです。ヤコブは、自分が生きてきたように、死ぬことをここで願っているのです。

 私たちは、誰もが死にます。ですから、自分がどこのお墓に葬られるかは、私たちにとっても問題であるわけです。幸い、私たちの教会には、墓地があります。これは、本当にありがたいことですね。自分が死んだときに、先祖が眠る寺の墓地に葬られることを望むか、それとも、教会の墓地に葬られることを望むか。これは大きな問題であり、それこそ、遺言としてしたためておいよいことであります。私の実家にも、寺に墓がありますが、私としては、教会の墓に葬っていただきたいと願っております。しかし、それはどのような意味があるのでしょうか?そのことを考える手がかりとして、「春日部栄光墓苑規定」の第一条(目的)を読んでみたいと思います。

 第1条(目的)この墓地の目的は次の通りである。

 1.御国に召された聖徒たちの遺骨を葬り、復活の希望と主イエス・キリストにあってひとつとされていることの信仰を世に証しし、神に栄光を帰する。

 2.故人に与えられた神の恵みに感謝し、御国を瞑想し、死に至るまで主イエス・キリストに従う決意を新たにする場とする。

 このように、私たちは教会の墓地に葬られることによって、復活の希望と主イエス・キリストにあってひとつとされていることの信仰を世に証しし、神に栄光を帰することができるのです。礼拝を共にささげてきた教会員が眠るお墓に葬られることによって、私たちは自分が何を信じて、何を希望として生きてきたかを世に証しすることができるのです。

 ヨセフはヤコブの願いを受けて、「必ず、おっしゃるとおりにいたします」と答えました。しかし、ヤコブは、その言葉だけでは満足せず、「では、誓ってくれ」と言い、ヨセフに誓わせました。これは、天の神、地の神である主にかけて誓うことであり、その誓いを果たさないならば、神の怒りに引き渡されるという厳かな誓いでありました。ヤコブは、ヨセフに誓わされることにより、このことが必ず実行されるようにしたのです。

 ここまでして、ヤコブは安心したのでしょう。31節の後半に、「イスラエルは、寝台の枕もとで感謝を表した」と記されています。このところを新改訳聖書は、次のように翻訳しています。「イスラエルは床にねたままおじぎをした」。もとの言葉を見ますと、「ひれ伏した」と記されているのです。このことは、かつてヨセフが見た夢の実現であります。37章9節から11節にこう記されておりました。

 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。「わたしはまた夢を見ました。太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」今度は兄だけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った。「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。

 父ヤコブがヨセフにひれ伏すという夢がどのように実現するのか?それは、父ヤコブの遺言とも言える願いをヨセフが聞き入れるということによってであるのです。ヤコブは、ヨセフへの感謝の思いから、ひれ伏すのであります。このようにして、ヨセフの夢を実現するのです。

 私たちが教会の墓地に葬られること、それは私たちがキリスト者として生きたことの証しであります。私たちの主であるイエス・キリストは、墓に葬られましたが、三日目に栄光の体へと復活され、墓から出て行かれました。それゆえ、私たちは、教会の墓地において、御国を瞑想し、死に至るまで主キリストに従う決意を新たにすることができるのです。

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