生きていたヨセフ 2014年3月09日(日曜 夕方の礼拝)
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生きていたヨセフ
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- 村田寿和 牧師
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創世記 45章16節~28節
聖書の言葉
45:16 ヨセフの兄弟たちがやって来たという知らせがファラオの宮廷に伝わると、ファラオも家来たちも喜んだ。
45:17 ファラオはヨセフに言った。「兄弟たちに、こうするように言いなさい。『家畜に荷を積んでカナンの地に行き、
45:18 父上と家族をここへ連れて来なさい。わたしは、エジプトの国の最良のものを与えよう。あなたたちはこの国の最上の産物を食べるがよい。』
45:19 また、こうするよう命じなさい。『エジプトの国から、あなたたちの子供や妻たちを乗せる馬車を引いて行き、父上もそれに乗せて来るがよい。
45:20 家財道具などには未練を残さないように。エジプトの国中で最良のものが、あなたたちのものになるのだから。』」
45:21 イスラエルの息子たちはそのとおりにした。ヨセフは、ファラオの命令に従って、彼らに馬車を与え、また道中の食糧を与えた。
45:22 ヨセフは更に、全員にそれぞれ晴れ着を与えたが、特にベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚を与えた。
45:23 父にも、エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物やパン、それに父の道中に必要な食糧を積んだ雌ろば十頭を贈った。
45:24 いよいよ兄弟たちを送り出すとき、出発にあたってヨセフは、「途中で、争わないでください」と言った。
45:25 兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、
45:26 直ちに報告した。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています。」父は気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったのである。
45:27 彼らはヨセフが話したとおりのことを、残らず父に語り、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せた。父ヤコブは元気を取り戻した。
45:28 イスラエルは言った。「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは。わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい。」創世記 45章16節~28節
メッセージ
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今夕は、創世記45章16節から28節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回、私たちは、ヨセフが兄弟たちに自分が弟のヨセフであると身を明かしたことを学びました。ヨセフは、「命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にエジプトに遣わされたのだ」と語りました。ヨセフはすべてを導いておられる神様を信じるがゆえに、兄たちの罪を赦し、兄たちと和解することができたのです。14節以下に、「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語りあった」とありますように、兄たちとヨセフは兄弟として語り合うことができたのです。
ヨセフの兄弟たちがやって来たという知らせがファラオの宮廷に伝わると、ファラオも家来たちも喜びました。ヨセフは、エジプトを救った人物でありますから、その兄弟たちが来たことは、ファラオや家来たちにとっても喜ばしいことであったのです。ファラオはヨセフにこう言いました。「兄弟たちに、こうするように言いなさい。『家畜に荷を積んでカナンの地に行き、父上と家族をここへ連れて来なさい。わたしは、エジプトの国の最良のものを与えよう。あなたたちはこの国の最上の産物を食べるがよい。』また、こうするように命じなさい。『エジプトの国から、あなたたちの子供や妻たちを乗せる馬車を引いて行き、父上もそれに乗せてくるがよい。家財道具などには未練を残さないように。エジプトの国中で最良のものが、あなたたちのものになるのだから』」。前回学んだ9節から13節で、ヨセフは、兄たちに、カナンの地へ帰って、父ヤコブを連れて来るようにと語りました。そして、今夕の17節から20節では、ファラオがそのことを命じているのです。ファラオは、ヨセフの思いを知りつつ、それを承認しているのであります。このようにして、ヤコブのエジプトへの移住は、ヨセフ個人によるものではなく、エジプトの王ファラオの命令によってなされるのです。21節に、「イスラエルの息子たちはそのとおりにした」とありますように、イスラエルのエジプトへの移住はファラオの命令によって行われるのです。私たちは、ここにも摂理の主である神様の導きを見ることができます。神様は、ファラオがヨセフに好意を持つようにしてくださっただけではなく、ヨセフの家族に対しても好意を持つようにしてくださったのです。イスラエルの一族は、今や、ヨセフにあって、エジプトの最上の産物を食べ、最良の家具を自分のものとすることができるのです。
ヨセフは、ファラオの命令に従って、彼らに馬車を与え、また道中の食糧を与えました。ヨセフはさらに、兄たち全員にそれぞれ晴れ着を与えました。かつて兄たちはヨセフから晴れ着を奪い取りましたけれども、ヨセフは兄たちに晴れ着を与えるのです。特に、弟のベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚を与えました。ヨセフは、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンへの愛情を隠そうとはいたしません。ヨセフにとって、ベニヤミンは同じ父と母から生まれたただ一人の兄弟であるのです。また、父ヤコブにも、エジプトの最良のものを積んだろば十頭と、穀物やパン、それに父の道中に必要な食糧を積んだ雌ろば十頭を送りました。兄たちは、たくさんの贈り物を携えて、カナンへと帰っていくわけですが、これらの贈り物は、ヨセフが兄たちを赦していることの目に見えるしるしであります。また、これらのたくさんの贈り物は、神様がヨセフを全エジプトの主としてくださったことの証拠であるのです。
いよいよ兄弟たちを送り出すとき、出発にあたってヨセフは、「途中で争わないでください」と言いました。これは、どういう意味でしょうか?おそらく、このヨセフの言葉は、5節のヨセフの言葉と関係していると思います。5節で、ヨセフはこう言っておりました。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません」。かつて兄たちは、ヨセフをエジプトに売ったことで悔やんだり、責め合ったりしました。そのことが、42章21節、22節にこう記されておりました。
(兄たちは)互いに言った。「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」すると、ルベンが言った。「あのときわたしは、『あの子に悪いことをするな』と言ったではないか。お前たちは耳を貸そうともしなかった。だから、あの子の血の報いを受けるのだ。」
このような言い争いを、旅の途中でしないようにと、ヨセフは言ったのだと思います。といいますのも、兄たちは、これから父ヤコブにヨセフが生きていたことを話さねばならないからです。そのとき、当然、自分たちがヨセフにしたことについても語らねばならなかったと思います。ですから、ヨセフにしたことについて、兄たちの間で言い争いが起こる可能性があったのです。しかし、ヨセフは、自分をエジプトへ連れてきたのは兄たちではなく、神であると信じるがゆえに、「途中で、争わないでください」と言ったのです。
兄弟たちはエジプトからカナン地方へ上って行き、父ヤコブのもとへ帰ると、直ちにこう報告しました。「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」。この息子たちの報告を受けて、「父は気が遠くなった」と記されています。彼らの言うことを信じて、気が遠くなったのではありません。父ヤコブは息子たちの言葉を到底信じることができなかったからです。ですから、ある人は、このところを次のように翻訳しています。「彼の心はひややかなままであった」。息子たちの言葉、「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」という言葉を聞いても、彼の心はひややかなままであったのです。それほど、息子たちの言葉は信じがたい言葉であったのです。しかし、そのような父ヤコブに、息子たちは、ヨセフが話したとおりのことを残らず語りました。すなわち、息子たちは、次のヨセフの言葉を父ヤコブに伝えたのです。「息子のヨセフがこう言っています。神が、わたしを全エジプトの主としてくださいました。ためらわず、わたしのところへおいでください。そして、ゴシェンの地域に住んでください。そうすればあなたも、息子も孫も、羊や牛の群れも、そのほかすべてのものも、わたしの近くで暮らすことができます。そこでのお世話は、わたしがお引き受けいたします。まだ五年間は飢饉が続くのですから、父上も家族も、そのほかすべてのものも、困ることのないようになさらなければいけません」(9~11節)。このように語った後で、息子たちは、ヨセフが父を乗せるために遣わした馬車を見せたのです。この馬車は、息子たちの言葉が真実であることの確かな証拠でありました。それゆえ、父ヤコブは元気を取り戻したのです。かつて、ヤコブはヨセフが死んでしまったと思い、いく日も嘆き悲しみました。ヤコブは喪が明けても慰められることを拒んだのです。ヤコブの心は、ヨセフを失ったときから、冷やかなままであったのです。しかし、ヤコブは、馬車や多くの贈り物を目の当たりにして、息子たちの言葉、「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」という言葉を信じて、元気を取り戻すことができたのです。ここには、兄たちがヨセフをエジプトに奴隷として売ったことは記されておりません。しかし、兄たちはそのことを父ヤコブに語ったと思います。といいますのも、50章15節から17節にこう記されているからです。
ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。
このように、父ヤコブは、兄たちがヨセフにした悪事を知っておりました。では、ヤコブはいつそのことを知ったのでしょうか?それはおそらく、ヨセフが生きていると告げたときであったと思うのです。兄たちは、ヨセフが生きていたことだけではなくて、かつての自分たちが犯した罪をも告げたと思います。また、そのことがずっと心の重荷になっていたこと、そのことを悔やんで、自らを責めたりしたことをも語ったと思うのです。しかし、イスラエルは「よかった。息子ヨセフがまだ生きていたとは、わたしは行こう。死ぬ前に、どうしても会いたい」と言うのです。ここで「よかった」と訳されている言葉は、「十分だ」とも翻訳することができます(新改訳)。イスラエルは、息子たちの罪の告白を聞いて、「十分だ」と言ったのではないでしょうか?わたしの息子ヨセフが生きている。もうそれだけで十分だ。そのように、父ヤコブもすべてを導いておられる神様にあって、息子たちを赦したのだと思うのです。
ヤコブは、息子ヨセフに「死ぬ前にどうしても会いたい」と言いました。先程、私は、エジプトの王ファラオの命令によって、イスラエルのエジプトへの移住は行われると申しましたが、しかし、それは同時に、イスラエルの「死ぬ前に、息子ヨセフにどうしても会いたい」という願いによるものであるのです。
「ヨセフがまだ生きています。しかも、エジプト全国を治める者になっています」という息子たちの言葉を信じられない父ヤコブの姿は、イエス様が復活され、全世界の王となられたという使徒たちの言葉を信じられない人々の姿に重なるものがあります。ヤコブは、馬車やたくさんの贈り物によって、息子たちの言葉を受け入れるのですが、では、使徒たちの言葉を聞く人々にはどのような保証が与えられているのでしょうか?その保証とは、復活され、父なる神の右におられるイエス・キリストの聖霊であります。神様は、イエス・キリストをとおして聖霊をお与えになることにより、私たちが、イエス・キリストが復活され今も生きておられること、そして、全世界の王の王、主の主であられることを信じさせてくださるのです。そして、そのことを信じるときに、私たちの霊は生き返り、元気を取り戻すのです。父ヤコブは、息子ヨセフに「死ぬ前にどうしても会いたい」と言いましたが、私たちは、死をとおして、イエス・キリストにお会いすることができるのです。私たちはこの地上において、見えないお方を見えるようにして礼拝しておりますが、天上において、イエス・キリストの御姿をはっきりと見ることができるのです。