ユダの嘆願 2014年2月02日(日曜 夕方の礼拝)
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ユダの嘆願
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- 村田寿和 牧師
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創世記 44章18節~34節
聖書の言葉
44:18 ユダはヨセフの前に進み出て言った。「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから。
44:19 御主君は僕どもに向かって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、
44:20 そのとき、御主君に、『年とった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。
44:21 すると、あなたさまは、『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』と僕どもにお命じになりました。
44:22 わたしどもは、御主君に、『あの子は、父親のもとから離れるわけにはまいりません。あの子が父親のもとを離れれば、父は死んでしまいます』と申しましたが、
44:23 あなたさまは、『その末の弟が一緒に来なければ、再びわたしの顔を見ることは許さぬ』と僕どもにおっしゃいました。
44:24 わたしどもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、御主君のお言葉を伝えました。
44:25 そして父が、『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来い』と申しました折にも、
44:26 『行くことはできません。もし、末の弟が一緒なら、行って参ります。末の弟が一緒でないかぎり、あの方の顔を見ることはできないのです』と答えました。
44:27 すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。
44:28 ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。
44:29 それなのに、お前たちはこの子までも、わたしから取り上げようとする。もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました。
44:30 今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、
44:31 この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。
44:32 実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。
44:33 何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。
44:34 この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」創世記 44章18節~34節
メッセージ
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エジプトの主君はヨセフでありますが、兄弟たちはそのことを知りません。ヨセフは、ベニヤミンの袋に銀の杯を入れておくように、執事に命じ、執事はそのとおりにいたしました。ですから、ベニヤミンの袋の中から銀の杯が見つかったのは当然のことなのです。なぜ、ヨセフは、このようなことをしたのでしょうか?考えられる一つのことは、同じ母ラケルから生まれたベニヤミンを自分の側に置いておきたかったということです。また、さらに考えられることは、自分を奴隷として売った兄たちが、正直な人間に変わっているのかを試すためであったということです。ここで、ヨセフは、かつて兄たちが自分をエジプトへ売ったときと同じような状況を作り出したのです。ヨセフは、かつてと同じような状況を作り出すことによって、兄たちの悔い改めが本物であるかどうかを試したのです。「神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります」と言うユダに対して、ヨセフはこう言いました。「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい」。この続きとして、今夕の御言葉は記されているのです。
ユダはヨセフの前に進み出てこう言いました。「ああ、御主君様。何とぞお怒りにならず、僕の申し上げますことに耳を傾けてください。あなたはファラオに等しいお方でいらっしゃいますから」。ここでユダは、当時の宮廷儀礼にのっとって語り出しています。ユダはヨセフを「ファラオに等しいお方」と言っていますが、ここには「物事を公平に判断する、憐れみ深いお方」という意味も込められております。エジプトの王ファラオに等しいお方であるエジプトの主君に対して、ユダは僕として語り出すのです。ユダは、末の弟であるベニヤミンに関わるこれまれで経緯から語り出します。19節から23節までをお読みします。「御主君は僕どもにむかって、『父や兄弟がいるのか』とお尋ねになりましたが、そのとき、御主君に、『年をとった父と、それに父の年寄り子である末の弟がおります。その兄は亡くなり、同じ母の子で残っているのはその子だけですから、父は彼をかわいがっております』と申し上げました。すると、あなたさまは『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』と僕どもにお命じになりました。わたしどもは、御主君に、『あの子は、父親のもとを離れるわけにはまいりません。あの子が父親のもとを離れれば、父は死んでしまいます』と申しましたが、あなたさまは、『その末の弟が一緒に来なければ、再びわたしの顔を見ることは許さぬ』と僕どもにおっしゃいました」。この19節から23節までは一回目のエジプト訪問の出来事が記されています。もちろん、ユダはすべてのことを語っているわけではありません。エジプトの主君の機嫌を損なうようなこと、例えば、自分たちが回し者であると疑われたことなどには一切触れません。ただ、年をとった父が、末の弟であるベニヤミンをかわいがっていたこと、父のもとからベニヤミンを引き離してしまえば、父は死んでしまうことを最初から申し上げていたことを確認しているのです。21節に、「すると、あなたさまは、『その子をここへ連れて来い。自分の目で確かめることにする』と僕どもにお命じなりました」とあります。新共同訳聖書は、「自分の目で確かめることにする」と翻訳していますが、岩波書店から出ている旧約聖書では、「私は彼にわが目を注いでみよう」と翻訳しています。これは、寵愛を賜わることであり、光栄なことであるのです。つまり、ユダは、エジプトの主君が弟のベニヤミンを見たいと言ったことを、身に余る光栄なこととして語っているのです。私たちはここからも、ユダがエジプトの主君の機嫌を損ねないように、細心の注意を払っていることが分かるのです。さらにユダは語ります。24節から29節までをお読みいたします。「わたしどもは、あなたさまの僕である父のところへ帰り、御主君の御言葉を伝えました。そして父が、『もう一度行って、我々の食糧を少し買って来い』と申しました折にも、『行くことはできません。もし、末の弟が一緒なら、行って参ります。末の弟が一緒でないかがり、あの方の顔を見ることはできないのです』と答えました。すると、あなたさまの僕である父は、『お前たちも知っているように、わたしの妻は二人の息子を産んだ。ところが、そのうち一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来、会っていない。それなのに、お前たちはこの子までも、わたしから取り上げようとする。もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちはこの白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ』と申しました」。24節から29節までは、エジプトからカナンの地に帰ったときの、父ヤコブとのやりとりが記されています。ユダは、宮廷儀礼に従って、自分の父を「あなたさまの僕である父」と言っております。ここでも、ユダは、ベニヤミンを失うことが、父ヤコブにとって、耐えられないことであり、さらには死に至らせる致命的な打撃であることを強調しています。そして、ここでユダは図らずも、父ヤコブのヨセフについての言葉を語るのです。ヨセフは、このユダの言葉をとおして、父ヤコブが自分のことをどのように思っているのかを初めて知るわけです。ヤコブはヨセフについて、28節でこう言いました。「ところが、そのうちの一人はわたしのところから出て行ったきりだ。きっとかみ裂かれてしまったと思うが、それ以来会っていない」。ユダは20節で、「その兄は亡くなり」と言っておりましたが、父ヤコブは、まだヨセフの死を受け入れていないわけです。ヤコブは、ヨセフの死体を見たわけではありません。血にまみれた晴れ着を見ただけであります。ですから、心のどこかで、ヨセフが生きているのではないかとの希望をもっていたわけです。しかし、ユダの方は、自分たちがヨセフをエジプトに奴隷として売ったにも関わらず、また晴れ着の血がヨセフのものではなく、雄山羊の血であることを知っていたにも関わらず、「その兄は亡くなり」と言ったのです。ヨセフがいなくなってから、ヤコブの愛情は妻ラケルのもう一人の息子ベニヤミンに注がれました。そのベニヤミンがいなくなってしまえばどうなるか?ヤコブは息子たちにこう申しました。「もしも、何か不幸なことがこの子の身に起こりでもしたら、お前たちは白髪の父を、苦しめて陰府に下らせることになるのだ」。このような父ヤコブとのやりとりを語った後で、さらにユダは言うのです。30節から34節までをお読みします。「今わたしが、この子を一緒に連れずにあなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子は他の兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のところへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません」。ユダは、これまでの経緯を語り、ようやく今へと至りました。このような経緯の中で、今、自分がベニヤミンを連れて帰られないことが、どのような結末をもたらすのか。それは、父ヤコブの死であります。ユダたち白髪の父を悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。さらに、ここでユダは、先程語らなかった、父ヤコブとのやりとりを打ち明けます。すなわち、ユダはベニヤミンの安全を保障して、「もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます」と誓ったのです。それゆえ、ユダは、「何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子は他の兄弟たちと一緒に帰らせてください」と嘆願するのです。ユダは自らベニヤミンの身代りになることを申し出るのです。ユダにとって、ベニヤミンを連れずに父のもとへ帰り、父に襲いかかる苦悶を見るのは耐えられないことであったのです。ここでユダは、自分のことよりも、父ヤコブの身を案じております。父ヤコブの視点に立って、物事を考え、行動しているのです。かつてのユダでありましたら、ヨセフから「ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。他のお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい」と言われたとき、安心して帰って行ったと思います。かつて、ヨセフをエジプトに売って、ヨセフがいないままで、安心して帰って行ったように、かつてのユダであったなら安心して帰って行ったはずです。しかし、すでにユダは、ヨセフが失われたことが、父ヤコブをどれほど嘆き悲しませたかを知っておりました。ユダは30節で、「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう」と言いましたが、これは決して大げさなことではなく、本当にそうなってしまうことをユダは知っていたのです。それゆえ、ユダは、自分をベニヤミンの代わりに奴隷にしてもらいたいと願い出るのであります。そのようにして、ユダは、自分たちの悔い改めが真実であることを証明するのです。このユダの歎願を聞いて、ヨセフは、もはや平静を装っていることができなくなりました。なぜなら、父ヤコブは、ヨセフの父でもあるからです。その父を、悲歎の内に陰府にくだらせることは到底ヨセフにもできないことであったのです。