エサウとヤコブ 2012年12月09日(日曜 夕方の礼拝)

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エサウとヤコブ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 25章19節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

25:19 アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。
25:20 イサクは、リベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。
25:21 イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。
25:22 ところが、胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と言って、主の御心を尋ねるために出かけた。
25:23 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」
25:24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。
25:25 先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。
25:26 その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。
25:27 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。
25:28 イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。
25:29 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。
25:30 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。
25:31 ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」
25:32 「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、
25:33 ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。
25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。
創世記 25章19節~34節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今夕は創世記の第25章19節から34節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

1.イサクの祈り

 前回学んだ「イシュマエルの系図」に続いて、今夕の御言葉では「イサクの系図」が記されております。「アブラハムの息子イサクの系図は次のとおりである。アブラハムにはイサクが生まれた。イサクはリベカと結婚したとき四十歳であった。リベカは、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘で、アラム人ラバンの妹であった。」。私たちはここからイサクが40歳でリベカと結婚したことが分かります。イサクはアブラハムの約束を受け継ぐ者であります。ですから、「あなたの子孫は大いなる国民となる」という約束はイサクにとっても有効であったわけです。しかし、イサクにはなかなか子供が与えられませんでした。なぜなら、妻リベカは不妊の女であったからです。21節に、「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」とあります。聖書は簡潔に記しておりますけれども、26節の後半を見ますと、「リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった」ことが分かります。ということは、イサクは子供が出来なくて悩む妻のために20年近くも祈り続けたのです。21節だけを見ますと、イサクの祈りに主がすぐに応えてくださったように読むことができるのですが、そうではないのです。イサクは主に聞き入れていただくために20年近くも祈り続けたのです。私たちはここに忍耐強く祈るイサクの姿を見ることができると思います。では、このイサクの忍耐を支えたものは何であったのでしょうか?それは、リベカが主によって備えられた妻であるとの信仰であります。「あなたの子孫は大いなる国民となる」との主の約束は、妻リベカによって実現するとイサクは信じて、側女を取ることなく、悩むリベカのために祈り続けたのです。イサクを支えていたのは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる」という確信であったのです(一ヨハネ5:14参照)。

2.エサウとヤコブの誕生

 イサクの祈りが聞き入れられ、妻リベカは身ごもりました。しかし、リベカの胎内で子供たちが押し合うので、リベカは、「これでは、わたしはどうなるのでしょう」と不安になりました。おそらく、このとき、リベカには自分のお腹に二人の子供がいることは分からなかったと思います。それで、あまりにもお腹の中で子供が動き回るので不安になり、主の御心を尋ねに出かけたのです。どこにいったかは書いてありませんが、かつてアブラハムが築いた聖所にリベカは出かけたものと思われます。

 主は彼女にこう言われました。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」。「二つの国民があなたの胎に宿っており」とありますが、これはリベカから生まれてくる二人の子供がそれぞれ国民の祖先となるということであります。リベカから生まれてくる子供はそれぞれ大きな国民となるのでありますが、その二人がお腹の中で争いを始めているのです。これは二人の子供からなる国民が争い合うようになることを意味しています。また、一つの民が他の民より強くなりますが、それは弟の民であると言うのです。なぜなら、「兄が弟に仕えるようになる」と主は言われるからです。

 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がおりました。「先に出て来た子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。」と記されています。また、「その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アカブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた」と記されています。エサウの名前の由来についてはよく分かりませんが、ヤコブの名前の由来は、その手がエサウのかかと(アカブ)をつかんでいたことにありました。このことは、弟のヤコブが何とかして兄エサウよりも早く外に出よう、産まれてこようとしたことを現しています。このような出産のエピソードは、これからエサウとヤコブが争って生きることを象徴的に示しているわけです。しかし、主の御心は、エサウとヤコブが生まれる前から決まっておりました。それは「兄が弟に仕えるようになる。」ということであります。この主の御言葉は、当時の慣習とは異なります。31節に、「長子の権利」という言葉が出てきますが、弟が兄に仕えるのが通常のことでありました。しかし、主はリベカに「兄が弟に仕えるようになる。」と告げたのです。なぜ、主は生まれる前から、「兄が弟に仕えるようになる。」と言われたのでしょうか?このことについて、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の第9章で、次のように記しています。新約聖書の286頁です。ここでは、第9章6節から12節までをお読みします。

 ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。

 なぜ、神は二人が生まれる前から、「兄は弟に仕えるようになる」と言われたのか?それは神の自由な選びによるものであり、その答えは神御自身の内にあるのです。神の主権は、社会の常識にとらわれることのない自由な主権であるのです。

 では今夕の御言葉に戻ります。旧約聖書の39頁です。

3.長子の特権

 二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となりました。他方、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常としておりました。エサウは狩猟を生業とし、ヤコブは牧畜を生業としました。父イサクは狩りの獲物が好物であったので、エサウを愛しました。それに対して母リベカはヤコブを愛しました。リベカがヤコブを愛した理由については記されておりませんが、もしかしたら、主からの言葉、「兄が弟に仕えるようになる」という言葉と関係があるのかも知れません。

 ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰ってきました。この日は、何も獲物が取れなかったのでしょう。そこで、エサウはヤコブにこう言うのです。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」。聖書は、「彼が名をエドムとも呼ばれるのはこのためである」と説明していますが、エサウはエドム人の先祖であるのです。23節で、主がリベカに言われた。「二つの国民」とはエサウの子孫である「エドム人」と、ヤコブの子孫である「イスラエル人」を指しているわけであります。エサウは、野から疲れきって帰ってきて、ヤコブに煮物を食べさせて欲しいと願いました。さて、ヤコブはどうするでしょうか?「お疲れ様でした。どうぞ、食べてください」と言って、煮物を差し出したでしょうか?そうではないのです。ヤコブは、こう言うのです。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」。ここで突然、「長子の権利」が出て来るので驚くのでありますが、ヤコブは以前から長子の権利を自分のものにしたいと狙っていたのだと思います。そこで、この時をチャンスと捉え、「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」と申し出たのです。長子の権利については、申命記の第21章15節以下に記されておりますが、長子は父親から二倍の財産の分け前をいただくことができました。そのような大切な権利でありますから、エサウはヤコブの申し出を断ると思うのですが、しかし、エサウは「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい。」と答えるのです。しめたと思ったヤコブは、「では、今すぐ誓ってください」と言い、エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまいました。新改訳聖書を見ますと、「売ってしまった」と記されています。エサウは、赤い煮物と引き替えに、長子の権利を売ってしまったのです。エサウは、将来にもらうことのできる財産よりも今手にすることのできる煮物を優先したのです。「エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。」私たちはここに、長子の権利を軽んじたエサウの姿を見ることができます。そして、それは神の約束されたものを軽んじる不信仰な態度であるのです。他方、ヤコブは、お腹が空いているのを我慢して、煮物よりも長子の権利を重んじました。私たちはここに、将来の約束を待ち望む信仰者としてのヤコブの姿を見ることができるのです。

結.神の子としての権利

 イエス・キリストを信じる私たちも、神の自由な選びによって、ある特権が与えられています。それは神の子としての特権です。ヨハネによる福音書の第1章12節には、「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と記されています。私たちはイエス・キリストにあって、神の子としての特権を与えられているのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストと共に、この世界を相続することになるのです(ローマ8:17参照)。ですから、私たちはこの地上の財産に捕らわれて、イエス・キリストにある約束を軽んじることがないように注意したいと思います。そのような意味で、私たちは、「だれであれ、一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」(ヘブライ12:16参照)。

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