子供の泣き声を聞かれる神 2012年9月30日(日曜 夕方の礼拝)

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子供の泣き声を聞かれる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 21章9節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、
21:10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」
21:11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。
21:12 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。
21:13 しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」
21:14 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。
21:15 革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、
21:16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。
21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。
21:18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。
21:20 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。
21:21 彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。創世記 21章9節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、年老いたアブラハムとサラの間に、約束の子イサクが誕生したことを学びました。8節に、「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」とありますように、アブラハムの家全体に、大きな喜びが与えられたのです。当時は、子供は三歳頃に乳離れしたと言われます。当時は、赤ちゃんの死亡してしまう確率が高い社会でありました。そのような社会にあって、乳離れして、自分でものを食べることができるようになったことは、危険な時期を脱して、子供が順調に成長していることを祝う日でもあったのです。

 では、今夕の御言葉、9節から13節までをお読みします。

 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」

 ここに、「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」とありますが、これはイシュマエルのことであります。ハガルとイシュマエルについては、第16章に記されておりました。そこには、サラが夫アブラハムに、自分の女奴隷であるハガルを側女として与え、当時の慣習に従って、子供を得ようとしたことが記されています。また、身ごもったハガルが女主人であるサラを軽んじたため、サラがハガルにつらく当たり、ハガルが逃亡したこと。しかし、そのハガルを主が顧みてくださり、生れてくる子にイシュマエルと名付けるように命じられたことが記されています。ハガルは、主の御使いの「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」という御言葉に従って、アブラハムのもとに帰ったのでありました。そして、アブラハムとの間に男の子を産み、アブラハムはその子にイシュマエル、主は聞かれるという意味の名前を付けたのです。このとき、アブラハムは86歳でありました。イサクが生まれたのが100歳のときであり、子供は三歳頃に乳離れの日を迎えましたから、今夕の御言葉ではアブラハムは103歳、イシュマエルは16歳、イサクは3歳ということになります。16歳の兄イシュマエルが、3歳の弟イサクをからかっていた。その光景を見て、サラはアブラハムに次のように訴えるのです。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」。ここで「あの女」と訳されている言葉は、元の言葉を見ますと「女奴隷」と記されています。新改訳聖書では、「はしため」と翻訳されています。ここには正妻であるサラの自分の子供の将来を案じる母親としての強い思いを見ることができます。イサクが生まれ、無事に乳離れの日を迎えることができた。そうしますと、サラにとって、ハガルとイシュマエルは邪魔になってくるわけです。「あの女とあの子を追い出してください」とありますように、サラは決してハガルとイシュマエルの名前を口にしません。私たちはここにも、サラのハガルとイシュマエルを軽んじ、卑しむ思いを見ることができます。「イシュマエルは女奴隷の子であって、自分の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではない。だから、あの女とあの子を追い出してください」とサラはアブラハムに訴えるのです。11節に、「このことはアブラハムを非常に苦しめた」とありますが、この所は、「このことはアブラハムの目に悪いことと映った」とも訳すことができます。つまり、サラの訴えは、古代社会の法律に適っていないことであったのです。女奴隷の息子とはいえ、イシュマエルはアブラハムの息子です。しかも、最初に生まれた子、長子であります。そうであれば、イシュマエルが跡継ぎになるべきであるわけです。当時の法律には、奴隷の産んだ子を自由にするならば、跡継ぎにしなくてよいという掟があったと言われますが、自由にすることと、追い出すこととは全く別のことであります。ですから、イシュマエルを追い出すことはアブラハムにとって法的にも悪いことであったのです。サラは、「あの女の息子」と言いますが、イシュマエルは、アブラハムの息子でもあるわけです。それで、アブラハムは非常に苦しむわけであります。アブラハムにとって、イシュマエルもイサクも自分の息子であって、どちらもかわいいわけです。そのようなアブラハムに、苦しみの祈りの中で、神は次のように言われます。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。神は、「すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる」と言われました。サラは自分の子イサクの将来、イサクが跡継ぎとなることを確かにするために、ハガルとイシュマエルを追い出すことを求めましたが、神はアブラハムの子孫はイサクによって伝えられるという神の御計画から、すべてサラが言うことに聞き従いなさい、と言われるのです。そして、イシュマエルも、アブラハムの息子であるゆえに、一つの国民の父とする、と言われるのです。このことは、第17章15節以下に記されていたことでありました。

 神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについての願いも聞き入れよう。必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる。彼は十二人の首長の父となろう。わたしは彼を大いなる国民とする。しかし、わたしの契約は、来年の今ごろ、サラがあなたとの間に産むイサクと立てる。」

 神は、かつてアブラハムに言われたことを、苦しむアブラハムにもう一度語られるのです。そして、アブラハムは、神の言葉に従って、また、神の約束に委ねて、ハガルとイシュマエルを追放するのです。

 今夕の御言葉に戻ります。

 14節から21節までをお読みします。

 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」

 神がハガルの目を開かれたので、彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいたとき、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた。

 アブラハムが次の朝早く起きて、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせたことは、アブラハムが主の命令に従順にしたがったことを教えています(22:3参照)。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野、砂漠をさまようのですが、革袋の水は無くなってしまいます。砂漠の中で、水がなくなるということは、死を意味します。それで、ハガルは、子供を一本の灌木、枝が茂る低い木の下に寝かせて、「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座りこんだのです。私たちはここに、ハガルの自分の息子に対する母親としての愛情を見ることができます。「彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」とありますが、泣いたのはハガルだけではありませんでした。灌木の下に突っ伏していたイシュマエルも泣いていたのです。彼らは頼るべきものを失って絶望しておりました。しかし、彼らが絶望していたということは、彼らが神に祈ったということを意味していたのではないでしょうか?なぜなら、神に祈りをささげることは、頼るべきものを失い、絶望した人間ができる最後のことであるからです。そのハガルとイシュマエルの祈りに答えて、天から神の御使いがこう言うのです。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」。ここで、神の御使いは、「神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた」と言われました。イシュマエルという名前は、「主は聞いていくださる」という意味でありますが、主はイシュマエルの泣き声、祈りを聞いてくださるのです。そして、神の御使いは、ハガルに、「立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい」と言うのです。母親が子供を愛する気持ち、それはサラもハガルも同じです。その母親の思いを神は共有してくださいます。いや、むしろ、母親が子供を愛する思いは、神によって与えられた思いであり、神からの賜物であるのです。母親は子供を授かるだけではなくて、子供を愛する思いをも授かるのです。また、神様は、「わたしは必ずあの子を大きな国民とする」とハガルに約束されました。イシュマエルは、契約の祝福を継ぐ者ではありませんが、大きな国民となるのです。

 神がハガルの目を開かれると、彼女は水のある井戸を見つけました。ここでの井戸は、むしろ泉でありましょう。その泉から、彼女は革袋に水を満たし、子供に飲ませたのです。そのようにして、子供は元気を取り戻したのでありました。この泉は、イエス・キリストを指すと理解できるのではないでしょうか?イエス様はヨハネによる福音書の第4章で、サマリアの女にこう言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。契約の祝福を継ぐ者ではないということは、契約の祝福にあずかれないということではありません。契約の祝福を継ぐ者を通して、すなわち、イエス・キリストを通して、契約の祝福にあずかることができるのです。イエス様はヨハネによる福音書の第7章で、次のように言われています。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書にいてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 現代の私たちは水がなくて、渇いて死んでしまうことはないかも知れません。しかし、私たちの心はどれほど渇いていることでしょうか?そのような私たちの心、魂を潤す水が、イエス・キリストにおいて無料で提供されているのです。神が一人でも多くの人の心の眼を開いてくださって、命の泉であるイエス・キリストから飲むことができるよう祈りたいと思います。

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