イサクの誕生 2012年9月23日(日曜 夕方の礼拝)
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イサクの誕生
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- 村田寿和 牧師
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創世記 21章1節~8節
聖書の言葉
21:1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、
21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、
21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
21:5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」
21:7 サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」
21:8 やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。創世記 21章1節~8節
メッセージ
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今夕は、創世記の第21章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
1節、2節をお読みします。
主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束された時期であった。
「主は、約束されたとおりサラを顧み」とありますが、この「約束」は第17章、第18章に記されていた約束であります。
第17章15節から19節に、次のように記されておりました。
神はアブラハムに言われた。「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によって、あなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」アブラハムは神に言った。「どうか、イシュマエルが御前に生き永らえますように。」神は言われた。「いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。
また、第18章9節から15節には次のように記されています。
彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
今夕の御言葉に、「主は、約束されたとおりサラを顧み」とありますが、この「顧み」と訳されている言葉は、直訳すると「訪れ」となります。主はアブラハムに、「わたしは来年の今ごろ、必ずここに来ます」と言われましたが、サラが身ごもって、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだのは、主が約束のとおりサラを訪れてくださったからであるのです。サラとアブラハムの間に生まれてくる男の子は、神が与えてくださった、約束の子であるのです。
3節、4節をお読みします。
アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
アブラハムは、生まれてきた男の子に、「イサク」と名付けました。これは以前、神が命じられたことでありました。神は、ひれ伏しながらも、ひそかに笑ったアブラハムに対して、その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい、と言われたのです。さらに、神は「わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」と言われたのであります。その永遠の契約のしるしとして、アブラハムは八日目に、息子イサクに割礼を施したのです。ここには、アブラハムの喜びがまったく記されていません。サラの喜びについては、6節以下に記されておりますが、アブラハムの喜びについては全く記されておらず、アブラハムがしたことだけが淡々と記されています。しかし、あえて想像をふくらませるならば、アブラハムはこのとき主への深い畏れを抱いていたのではないでしょうか。生まれたばかりの男の子を腕に抱いて、神の約束の確かさ、神はまさに全能の神であることを覚えて、主への深い畏れを抱いていたのではないかと思うのです。アブラハムは主への深い畏れを抱きながら、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、息子イサクに割礼を施したのです。
5節から7節までをお読みします。
息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」
息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳でありました。ということは、サラは九十歳であったわけです。ここにはアブラハムが年老いていたことだけが強調されていますが、サラも九十歳という高齢であったのです。また、サラは不妊の女でありました(11:30参照)。そのようなサラの喜びがここに記されているわけであります。サラは、「神はわたしに笑いをお与えになった」と言っています。これは「神がサラにイサクをお与えになった」こととかけているわけですね。主のアブラハムに対する言葉、「わたしは来年の今ごろ、必ずここに来ますが、そのころには、あなたの妻サラに男の子が生まれているでしょう」という言葉を、サラは天幕の後ろで聞いたとき、ひそかに笑いました。それは自らを嘲る笑いでありました。サラはひそかに笑って、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」と思ったのです。しかし、今、主は、心の底から湧き出る喜びの笑いを、サラに与えてくださったのです。新しい命が生まれるということは、大きな喜びであります。それゆえ、サラは、「聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」と言うのです。
サラはまたこう言いました。「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」。ここでは、子に乳を含ませることと子を産むことが同義語のように用いられています。サラが子を産み、子に乳を含ませることなど、誰も予想することができなかった、不可能としか思えないことでありました。しかし、主に不可能なことはありません。サラはそのことを信じて、アブラハムと夫婦の営みを持ち、主の顧みによって身ごもり、男の子を産んだのです。誰もが諦めていたこと、かつてサラ自身も諦めていたことを、主は成し遂げてくださったのです。不妊の女であり、年老いたサラが、年老いた夫のために息子を産んだのであります。そのようにして主は、御自分が全能の神であることを示されたのです。
最後、8節をお読みします。
やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。
ユダヤでは3歳で乳離れしたようです(二マカバイ7:27参照)。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な宴会を開きましたが、ここでは6節のサラの言葉が現実のものとなっております。イサクの誕生、その成長を祝って、多くの人が共に笑い、喜びを分かち合ったのです。この喜びに今夕私たちも招かれています。なぜなら、このイサクから、すべての民を祝福する一人の子孫、イエス・キリストがお生まれになるからです。もし、イサクが生まれなければ、イエス・キリストもお生まれになりませんでした(マタイ1:2参照)。このように考えますと、イサクの誕生は私たちにとっても喜ばしい、笑いを共にすることができる出来事であるのです。そして、私たちは、イサクの子孫である主イエス・キリストにあって、どのようなときも喜ぶことができる者とされているのです。使徒パウロは、テサロニケの教会に次のように書き送りました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサロニケ5:16~18)。また、パウロは、牢獄の中からフィリピの教会に次のように書き送りました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)。盛大な宴会はすぐに終わってしまうことでしょう。しかし、私たちは主イエス・キリストにあって、いつも喜ぶことができるのです。そのような大きな恵みを、私たちは主イエス・キリストを通して、神様から与えられているのです。