アブラハムのとりなし 2012年8月26日(日曜 夕方の礼拝)
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アブラハムのとりなし
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- 村田寿和 牧師
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創世記 18章16節~33節
聖書の言葉
18:16 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。
18:17 主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。
18:18 アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。
18:19 わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
18:20 主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。
18:21 わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」
18:22 その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
18:23 アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。
18:25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
18:26 主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
18:27 アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
18:28 もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
18:29 アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
18:30 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」
18:31 アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:32 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」
18:33 主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。創世記 18章16節~33節
メッセージ
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今夕は創世記第18章16節から33節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
16節から19節までをお読みします。
その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」
前回、私たちは、アブラハムが三人の旅人をもてなしたお話を学びました。この三人の旅人は主と二人の御使いであったわけですが、彼らには、サラにイサクの誕生を予告する他に、もう一つの目的がありました。彼らはその目的を果たすために、アブラハムのもとを立ち、ソドムを見下ろす所まで来たのです。「アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った」とありますが、もうこの時、アブラハムはこの三人がただの旅人ではなくて、主とその御使いであることに気づいておりました。そのためでしょうか。アブラハムはこのとき沈黙していたようです。しかし、主はこう言われるのです。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである」。アモス書の第3章7節に、「まことに、主なる神はその定められたことを/僕なる預言者に示さずには/何事もなされない」とありますように、主はアブラハムにこれから御自分がしようとしていることを打ち明けられます。主はアブラハムを大きな強い国民とし、世界のすべての国民を彼によって祝福に入れられるからです。また、主がアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためでありました。ここで「正義を行う」とありますが、元の言葉を直訳しますと「義と裁きを行う」となります。主がアブラハムに約束されたことは、アブラハムが息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って義と裁きを行うように命じることによって実現されるのです。それゆえ、主はアブラハムに予め、御自分の義と裁きについて教えられるのです。
20節から22節までをお読みします。
主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」。その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた。
ソドムについては、第13章13節にこう記されていました。「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」。そのソドムとゴモラの罪を訴える叫びが主のもとに届いたのです。ソドムとゴモラの罪によって苦しめられていた多くの人々の告発が、全世界を裁かれる主のもとに届いたのです。それで、主は降って行き、その訴えのとおりかどうかを確かめようと言うのです。そして、そのとおりであれば、主はソドムとゴモラを滅ぼされるつもりであるのです。ここで「その人たち」、二人の御使いだけが、更にソドムの方へ向かいましたが、主は行きませんでした。それはアブラハムがなお、主の御前にいたからです。主は、アブラハムが何か言いたいことを察して、とどまられたのです。
23節から25節までをお読みします。
アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者と悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」
アブラハムが、主の御前にとどまり、進み出て、このようなことを言ったのは、ソドムには甥のロトの家族が住んでいたからであると思われます。しかし、それだけではなくて、アブラハムの関心は、主の義と裁きそのものへと向けられております。もし、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるならば、それは公正な裁きとは言えず、全世界を裁くお方にふさわしくないことであるとアブラハムは言うのです。これは、私たちにもよく分かることだと思います。では、悪い者だけを罰するようにとアブラハムは求めたのかと言いますと、そうではないのです。アブラハムは、「ソドムに正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全体を赦すことが公正な裁きではないでしょうか」と言うのです。アブラハムは「主の裁き、公正とは、多数の悪を行う者に目を留めて、町全体を滅ぼすことではなく、少数の正しい者に目を留めて町全体を救うことではないですか」と言うのであります。これは共同体から切り離された個人という概念がまだない古代の社会の発想によるものであります。共同体から切り離された個人の概念は預言者エゼキエルの時代からのものでありまして、アブラハムの時代には共同体と切り離された個人という概念はまだありません。ですから、アブラハムは、「正しい者を救い出して、悪しき者だけを滅ぼすべきではありませんか」とは言いませんでした。裁きの対象はソドムという町でありまして、そこには正しい者と悪しき者が一緒に暮らしているわけです。そのようにして一つの共同体を形成しているわけです。ですから、アブラハムは、ソドムに50人の正しい人がいるならば、その人たちのために、町全体をお赦しになるのが、主の裁き、公正というものではないでしょうかと言ったのです。このようなアブラハムの言葉は、神様に対して神学を論ずる出過ぎたまねのように思えますが、おそらく、主はアブラハムがそのように問うことを望んでおられたのではないかと思います。主はアブラハムにそのように質問させることによって、主の裁き、公正について考えさせ、学ばせようとされたのです。そして、主は「もし、ソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と言われるのです。主は正しい者に目を向け、その町全部を赦されるのです。このようにして、主は御自分の裁き、公正がどのようなものであるのかをアブラハムに示されたのです。
27節から33節までをお読みします。
アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もしかすると、そこには三十人しかいないかも知れません。」主は言われた。「もし三十人いるならわたしはそれをしない。」アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。
ここで、アブラハムは値切るようにして、50人から45人、45人から40人、40人から30人、30人から20人、20人から10人とその人数を減らしていきます。そして、その度に、主は「その人数の正しい者のためにわたしは滅ぼさない」と言われるのです。主は「十人の正しい者のために町を滅ぼさない」お方なのです。そして、これが全世界を裁かれる主の公正にふさわしいことであるのです。ソドムの人口がどのくらいであったかは分かりませんが、仮に500人としましょう。そうすると、ソドムの町には正しい者が10人、悪い者が490人ということになります。数から言えば、悪い者が圧倒的に多いのですが、主は正しい者10人のために町を滅ぼさない、町全体を赦すと言われるのです。このことは主の目には多数の悪い者たちよりも少数の正しい者が重要であること、主の裁きは滅ぼすことよりも救うことを目的とするものであることを教えています。それゆえ、主は、すべての人を救うために、正しい方、イエス・キリストを私たちにお与えくださったのです。神様の目は、主の道を守る正しい者に何よりも向けられています。そして、主の義と裁きとは、正しい者によって悪しき者を救うことであるのです。アブラハムは、「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と主に申しました。そして、主は「十人のためにわたしは町全体を赦す」と言われたのです。そのような主は、今、私たちに、「一人の正しい人、イエス・キリストにあって、すべての人の罪を赦すと言われているのです。ローマの信徒への手紙第3章21節から24節に次のように記されています。
ところが今や、律法と関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
このパウロの言葉は、アブラハムに示された神の裁き、神の公正の延長線上にあるものです。主は一人の正しい人イエス・キリストにあって、私たちをも救ってくださいました。そのようにして、私たちも主の義と裁きを学ぶことができたのです。主が、イエス・キリストにある私たちに目を留めてくださること、主の裁きは滅ぼすためではなく、救うためであることを私たちは心に留めたいと願います。