契約のしるし 2012年7月08日(日曜 夕方の礼拝)

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契約のしるし

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 17章1節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

17:1 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。
17:2 わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」
17:3 アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
17:4 「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。
17:5 あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。
17:6 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。
17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。
17:8 わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」
17:9 神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。
17:10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。
17:11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。
17:12 いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。
17:13 あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。
17:14 包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」創世記 17章1節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記の第17章1節から14節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 1節、2節をお読みします。

 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間に契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」

 前々回、私たちはハガルがアブラムとの間にイシュマエルを産んだお話を学びました。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳でありましたが、今夕の御言葉では、「アブラムが九十九歳になったとき」と記されています。イシュマエルが産まれて13年後のある日、主はアブラムに現れて、次のように言われました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間に契約を立て、あなたをますます増やすであろう」。主は御自身を「わたしは全能の神である」と自己紹介なされます。そして、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われるのです。なぜ、主はアブラムにこのようなことを言われたのでしょうか?アブラムは主に従って歩んでいなかったのでしょうか?そうかもしれません。なぜなら、アブラムにはハガルとの間にイシュマエルという男の子が与えられていたからです。アブラムにとって、主の約束はイシュマエルにおいて実現したのであり、そのことにアブラムは満足していたのです。しかし、そのようなアブラムに主は全能の神として現れ、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言うのです。「全き者」とは道徳的に完全である者ということではありません。主を信じることにおいて完全である者ということです。ここで、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と言われていることに注意したいと思います。主に従って歩むことによって、私たちの信仰は全きものとなるのです。全き信仰があるから、主に従って歩むのではありません。主に従って歩むとき、私たちの信仰は全きものとなるのです。

 ここで主は「わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」と言われていますが、私たちは第15章で、主がアブラムと契約を結ばれたことを学びました。二つの切り裂かれた動物の間を、主なる神だけが通られることによって、主はアブラムと契約を結ばれたのです。この契約の儀式の意味は、もし自分が約束を守らなければ、この切り裂かれた動物と同じようになってもかまわないという意味でありました。第15章の契約においては、アブラムは何の責任も負わされず、主なる神だけがその責任を負われたのです。しかし、今夕の御言葉で主が「わたしは、あなたとの間に契約を立てる」と言われるとき、アブラムにも責任を負うことが求められています。それが、「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」ということであったのです。その責任を果たすとき、主は「あなたをますます増やす」という責任を負われるです。第15章の主とアブラムの契約は、主だけが責任を負われる片務契約でありました。しかし、今夕の第17章の契約は、主とアブラムの双方が責任を負う双務契約であるのです。主はアブラムに「わたしは、あなたとの間に契約を立てる」と言われました。主は第15章で結ばれたアブラムとの契約を、もう一度思い起こさせるために、「契約を立てる」と言われたのです。そして、アブラムにも御自分に従って歩み、全き者となる責任を負わせられたのです。

 3節から6節までをお読みします。

 アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。

 アブラムがひれ伏したこと、これは主に対する服従を表すものであります。ひれ伏すアブラムに、神は更にこう言われました。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」。ここで約束されているのは、これまで語られていたのと同じ約束であります。第15章で、主は、アブラムに満天の星のように多くの子孫を与えると約束されました。そして、主はここでも「あなたは多くの国民の父となる」と言われるのです。しかし、ここで主はアブラムに、アブラハムと名乗るようにと言われました。アブラハムとは「多くの国民の父」という意味ですが、主はアブラムの名前を変えられることによって、アブラムが必ずそのような者となることを示されたのです。アブラムにアブラハムという名前を与えられた主は、アブラムを必ず、多くの国民の父としてくださるということであります。主はアブラハムをますます繁栄させ、諸国民の父とし、王となる者たちを彼から生まれさせるのです。

 7節と8節をお読みします。

 「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしはあなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久に所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」

 ここでは、主とアブラムとの契約が、彼個人とだけではなく、彼の後に続く子孫との間に立てられることが言われています。それは代々に続く永遠の契約なのです。主は、アブラハムだけではなく、アブラハムの子孫の神ともなってくださるのです。また、主はアブラハムが滞在しているカナンの土地を、「あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」と言われるのです。子孫を増やす約束と土地を与える約束は、これまでにも語られてきましたが、ここではそれ以上のことが約束されています。それは全能の神である主が、アブラハムとその子孫の神となってくださるということです。ここまでが主がアブラハムとその子孫に対して負われる責任でありますが、続いて、アブラハムとその子孫が負うべき責任が語られます。

 9節から14節までをお読みします。

 神はまた、アブラハムに言われた。「だからあなたも、わたしの契約を守りなさい、あなたも後に続く子孫も。あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない。あなたの家で生まれた奴隷も、買い取った奴隷も、必ず割礼を受けなければならない。それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる。わたしの契約を破ったからである。」

 神はアブラハムとその子孫の神となると言われました。それゆえ、アブラハムとその子孫は契約を守ることが求められるのです。これは、条件ではなく、神様の一方的な恵みに対する正しい応答です。神様は、わたしの契約を守るならば、あなたの神となろうと言われたのではありません。わたしはあなたとあなたの子孫の神となるから、あなたとあなたの子孫はわたしとの契約を守りなさいと言われたのです。では、守るべき契約とは何でしょうか?それは「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」ということでありました。割礼は古代オリエント諸民族の風習として行われていました。第12章にアブラハムがエジプトに滞在したことが記されておりましたが、エジプト人も割礼の風習を持っておりました。割礼は多産を願って、また衛生上のためになされたと言われます。しかし、主は契約のしるしとして割礼を受けるように命じられるのです。割礼は、包皮の部分を切り取るわけですから、これは男だけを対象としています。しかし、それは女が契約の恵みにあずかることができないということではありません。アブラハムの妻サライが主の恵みから洩れていないように、男は女を代表して、契約のしるしとして割礼を受けたのです。主は、「いつの時代でも、あなたたちの男子はすべて、直系の子孫はもちろんのこと、家で生まれた奴隷も、外国人から買い取った奴隷であなたの子孫でない者も皆、生まれてから八日目に割礼を受けなければならない」と言われました。主は自由人と奴隷を差別されません。家で生まれた奴隷であろうと、買い取った奴隷であろうと、契約を結んで、彼らの神となってくださるのです。先程わたしは、割礼は古代オリエント諸国に見られた風習であったと申しましたが、割礼は思春期や結婚前に行われることが多かったそうです。しかし、主はここで「生まれて八日目に割礼を受けなければならない」と言われるのです。このことは、主の契約の恵みが、生まれながらに与えられていることを表しています。八日目に割礼を受ける子供は、主がアブラハムと結ばれた契約の実現として生まれてくるのです。このようにして、主の契約は体に記されて永遠の契約となるのです。第15章に記されていた、主が二つに切り裂かれた動物の間を通られるという儀式は、一回的なことであり、アブラハムの他に見た者はおりません。しかし、割礼は、自分の体に記されており、自分が神の契約の中に生かされていることをいつでも確認することができるのです。

 以前わたしは、創世記が最終的に編纂されて今のかたちとなったのはバビロン捕囚の時代であったということをお話したことがあります。今夕の御言葉も、バビロン捕囚を背景にして読むとき、よく分かると思います。バビロン捕囚によって、イスラエルはカナンの土地を失いました。もちろん、神殿祭儀を行うことはできません。そのような捕囚の民が重んじたのが、割礼であり、安息日でありました。契約のしるしである割礼を受けていることが、彼らの民族としてアイデンティティーとなったのです。また、バビロン捕囚を背景として、8節の言葉を読むとき、イスラエルの民がどれほどの慰めを受けたかと思うのであります。「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンの土地を、あなたと子孫に、永久に所有地として与える。わたしは彼らの神となる」。この言葉を、カナンの土地を失ったイスラエルの人々は、まさに主の約束として読んだのです。

 では、割礼を受けていない私たちは、今夕の御言葉をどのように読めばよいのでしょうか?無割礼の私たちは民の間から断たれているのでしょうか?そうではありません。なぜなら、イエス・キリストにあって、契約のしるしとしての割礼は、洗礼へと変えられたからです(コロサイ2:11、12参照)。私たちは契約のしるしとして洗礼を受けた者として、割礼を洗礼に置き換えてこのところを読むべきであるのです。割礼は男だけでありましたが、洗礼は男も女も受けることができます。それは、イエス・キリストにあって男も女もないことをよく表しています。イエス・キリストの恵みは、男と女の性別の違いに関係なく豊かに注がれるのです。また、生まれてから八日目に割礼を施したことに対応して、教会では幼児洗礼が行われているのです。私たちもアブラハムから生まれた王であるイエス・キリストにあって、契約の恵みに生かされています。ですから、私たちも主に従って、全き者となることが求められているのです。

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