アブラムの信仰 2012年6月10日(日曜 夕方の礼拝)
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アブラムの信仰
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- 村田寿和 牧師
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創世記 15章1節~6節
聖書の言葉
15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。創世記 15章1節~6節
メッセージ
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今夕は創世記の第15章1節から6節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節をお読みします。
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
「これらのことの後で」とは第14章に記されていたエラムの王ケドルラオメルたちとの戦いと、それに続くサレムの王メルキゼデクとソドムの王とのやり取りを指していると思われます。アブラムはサレムの王メルキゼデクから、いと高き神、主の祝福を受け、ソドムの王に対して「わたしは何も要りません」と分け前を受けることを拒否しました。そのようなアブラムに、主の言葉が幻の中で臨んだのです。主は幻の中で「恐れるな、アブラムよ」と呼びかけます。「恐れるな」という言葉は神様の臨在に接した人間にしばしば語られる言葉でありますが、おそらく、アブラムの内に恐れが生じていたのだと思います。アブラムは何を恐れていたのでしょうか?ある人は、アブラムが打ち破ったケドルラオメルが再び、アブラムに戦いを挑んでくることと結びつけて、アブラムの恐れを説明しています。そうであったかも知れません。なぜなら、主は続けてアブラムに「わたしはあなたの盾である」と言われたからです。盾は守りの象徴でありまして、アブラムが主の守りのうちにあることを示しています。エラムの王たちをアブラムの手に渡されたいと高き神、主は、アブラムを守られるお方であるのです。また、主はソドムの王から糸一筋、靴ひも一本でも受けとらなかったアブラムに、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と言われます。アブラムを裕福にするのはソドムの王ではなく、主であられるのです。
2節、3節をお読みします。
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子供を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と言われる主に対して、アブラムは「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか」と尋ねます。尋ねるというよりもこれは嘆きの言葉です。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っておりましたが、しかし、子供がおりませんでした。ですから、たとえ主が非常に大きな報いを与えられようとも、それを継ぐのは他人の、ダマスコのエリエゼルであるのです。さらにアブラムは言葉を継ぎ、「御覧のとおり、あなたはわたしに子供を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と主に対して不平を述べています。第12章2節で主はアブラムに「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように」と言われておりました。また、第13章16節では「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」とお語りになりました。しかし、そのように言われた主はアブラムに子孫を与えてくださらないのです。わたしはここに、アブラムの恐れの原因があったのではないかと思います。アブラムの恐れは、主の約束が実現しないことにあったと思うのです。しかし、そのようなアブラムに主は言われるのです。
4節、5節をお読みします。
見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは、「自分の跡を継ぐのは家の僕ダマスコのエリエゼルになっている」と言うのですが、主はそれを否定なされます。そして、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言うのです。主は彼を外に連れ出してこう言われるのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。おそらく夜空に満天の星が輝いていたのでしょう。その数えきれない星のように、あなたの子孫はなると主はアブラムに言われるのです。ここで私たちは、主が天地の造り主、いと高き神であることを思い起こさなければなりません。満天の星を造られた主が、アブラムに、あなたの子孫もこのようになると言われたのです。そして、アブラムはそのように言われる主を信じたのです。
6節をお読みします。
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
アブラムは「あなたの子孫は満天の星のようになる」と言われる主を信じました。アブラムの状況は、不平を述べたときと何ら変わっておりません。しかし、アブラムはそれが天地を造られた、いと高き神、主の御言葉であるがゆえに信じたのです。そのように言われる主を信頼したのです。そして、主はそのようなアブラムを正しい者として受け入れられたのです。ここで「義」と訳されているのは「ツェダカー」というヘブライ語で、関係を表す概念であります。主を信じたアブラムは、主との関係において正しい態度を取ったということです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。この御言葉は、使徒パウロがローマ書やガラテヤ書の中で引用している有名な御言葉であります。ここではローマの信徒への手紙第4章1節から12節までを読んでみたいと思います。
では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらず神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
少し長く読みましたが、ここでパウロが論点としていることは、人は信仰によって神の御前に正しいとされるのか、それとも人は行いによって神の御前に正しいとされるのかということであります。もちろん、パウロは人は信仰によって神の御前に正しいとされると主張しているのですが、その論拠とされている聖書箇所が今夕の御言葉、特に6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」であるのです。パウロは「こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました」と記しておりますが、主を信じて、主から義と認められたアブラムは、私たちの先達であり、私たちの模範であるのです。ですから、パウロは23節から25節で次のように記すのです。
しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちは主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。
私たちは、神がイエスを復活させられたところを見たわけではありません。また、復活されたイエスに直接お会いしたわけでもありません。しかし、私たちは聖書に記されているゆえに、そのことを信じたし、信じているのです。そして、ここに主を信じたアブラムと同じ主に対する信仰があるパウロは記すのであります。それゆえ、今夕の御言葉はアブラムの物語であると同時に、私たちの物語でもあるのです。アブラムばかりでなく、主はイエスの復活を信じる私たちをも正しい者として受け入れてくださるのです。神が復活させられたイエスを信じること、それが神様との関係において人間の取るべき正しい態度であるのです(一ヨハネ5:10参照)。