メルキゼデクの祝福 2012年6月03日(日曜 夕方の礼拝)
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メルキゼデクの祝福
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- 村田寿和 牧師
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創世記 14章17節~24節
聖書の言葉
14:17 アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。
14:18 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。
14:20 敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
14:21 ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言ったが、
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。
14:23 あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。
14:24 わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」
創世記 14章17節~24節
メッセージ
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今夕は創世記の第14章17節から24節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
前回私たちは、アブラムがエラムの王ケドルラオメルを中心とする5人の王を追跡し、勝利をおさめたことを学びました。今夕の御言葉はその続きであります。
17節、18節をお読みします。
アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
ケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破ったアブラムをここでは二人の王が出迎えております。一人は「ソドムの王」であり、もう一人は「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」でありました。ソドムの王については10節に次のように記されておりました。「シディムの谷には至るところに天然アスファルトの穴があった。ソドムとゴモラの王は逃げるとき、その穴に落ちた」。このようにソドムの王は天然アスファルトの穴に身を隠していたわけです。そのソドムの王がアブラムがエラムの王を追撃して勝利し、すべての財産を取り返したという知らせを聞いて、シャベの谷まで出迎えに来たわけです。また、もう一人の王、「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」については、ここで初めて出て来ます。サレムとはエルサレムのことですが、メルキゼデクはサレムの王であると同時にいと高き神の祭司でありました。メルキゼデクもアブラムの勝利の知らせを聞いたのでありましょう。それで、メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って、アブラムを祝福するために来たのです。
19節、20節をお読みします。
彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った。
アブラムはエラムの王たちがソドムとゴモラから奪ったすべての財産を取り戻したのですから、アブラムの帰還は多くの戦利品を伴った凱旋でありました。このときのアブラムの気持ちを考えてみますと、彼は有頂天になっていたかも知れません。しかし、アブラムはメルキゼデクの祝福によって、いと高き神が敵を自分の手に渡されたことを告げられるわけです。アブラムはもちろん信仰をもって戦いを挑んだと思いますけれども、ここではっきりといと高き神の祭司メルキゼデクの口から、敵を自分の手に渡されたのは、いと高き神であることを知らされるのであります。そして、アブラムもそのことを認めて、すべての物の十分の一を彼に贈ったのです。ここでの「いと高き神」はアブラムがすべての物の十分の一を贈ったことから、天地を造られた主なる神であることが分かります。また、アブラムは22節で「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います」と述べておりますから、サレムの王メルキゼデクはいと高き神、主の祭司であったわけです。そうしますと、私たちは戸惑うわけですね。私たちは創世記を始めからコツコツ学んできましたが、神知識の伝達は系図によって示され、それはバベルの塔の裁き以後、アブラムに引き継がれておりました。しかし、今夕の御言葉に突然、エルサレムの王メルキゼデクがいと高き神、主の祭司として登場してくるわけです。この戸惑いは新約聖書のヘブライ人の手紙にも記されています。ヘブライ人への手紙第7章1節から3節をお読みします。
このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の始めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。
メルキゼデクも人間でありますから、父も母もいたはずでありますが、ヘブライ人への手紙は「彼には父もなく、母もなく、系図もなく」と記しています。これは要するに身元がよく分からないということなのです。そればかりか、ヘブライ人への手紙は、メルキゼデクを「生涯の始めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」と記すのです。
このようにメルキゼデクの身元はよく分かりませんが、彼は確かにいと高き神、主の祭司であるのです。
では今夕の御言葉に戻ります。
21節から24節までをお読みします。
ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言ったが、アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」
ソドムの王がアブラムを王の谷まで出迎えたのは、アブラムが手にした戦利品を自分の物とするためでありました。ここで、ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と言っていますが、彼はこのようなことを本来言えないはずなのです。人も財産もアブラムの戦利品でありますから、ソドムの王が「わたしにお返しください」などと言うことはおかしなことなのです。人も財産もアブラムのものなのですね。ですから、アブラムはすべての物の十分の一をメルキゼデクに贈ったわけです。しかし、ソドムの王はアブラムに「人はわたしのお返しください。しかし、財産はお取りください」と言うことによって、人を自分のものとし、アブラムに財産を与えるかのように振る舞うのです。これに対してアブラムは次のように言います。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、わたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません」。このアブラムの言葉は「いと高き神、主に手を上げて誓います」とありますように、主の御前に語られた言葉であります。アブラムはメルキゼデクを通して、いと高き神、主こそ、自分を祝福し、敵を自分の手に渡された方であることを改めて知りました。そのような者として、アブラムは、「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」と言うのです。アブラムは「人も財産もエラムの王に勝利したわたしのものだ」とは言いませんでした。ソドムの王の言葉をそのまま受けとめて、あなたの物は、決していただかないと言うのです。それは、アブラムを裕福にするのはソドムの王ではなく、アブラムを祝福されるいと高き神、主であるからです。第13章13節に、「ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた」と記されておりましたが、アブラムはそのようなソドムの王からたとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただかないと言うのです。また、このことはアブラムがエラムの王を追跡したそもそもの理由をはっきりさせるためであったと思います。なぜ、アブラムはエラムの王たちをダンまで追跡したのでしょうか?それはソドムに住んでいた甥のロトが捕虜として連れ去られたことを聞いたからであります。アブラムは、財産のためにエラムの王たちを追跡し、撃ち破ったわけではないのです。そのことを、アブラムはソドムの王から何も受け取らないことによってはっきりと示したのです。
しかし、アブラムはこの自分の態度を共に戦った、アネルとエシュコルとマムレに押しつけることはしませんでした。彼らは命をかけて戦ったのですから、当然、戦利品の分け前にあずかる権利をもっているのです。アブラムはこのように言うことによって、財産が戦利品であり、ソドムの王から与えられる物ではないことを暗に示しています。しかし、ソドムの王の理屈にしたがって、ソドムの王が誤解して、「アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ」と言わないために、アブラムは何も受け取らなかったのです。そのようにしてアブラムは自分を祝福してくださるのは、いと高き神、主であることを証ししたのです。
今夕の御言葉に出て来ますメルキゼデクは、ヘブライ人への手紙によれば、イエス・キリストを指し示す人物であります。メルキゼデクが王であり祭司であったように、イエス・キリストも王であり祭司であられるのです。しかも、イエス・キリストは永遠の大祭司となられたのです。私たちは永遠の大祭司であるイエス・キリストを通して、今礼拝をささげているのです。そして、永遠の大祭司であるイエス・キリストを通して、いと高き神、主の祝福を受けているのです。メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってアブラムを迎えましたけれども、私たちは聖餐式において、キリストの体であるパンと、キリストの血であるぶどう酒にあずかるわけであります。そして、私たちはイエス・キリストを通して献げ物をささげ、私たちを祝福してくださる方は、いと高き神、主であることを証ししているのです。
今夕は最後にヘブライ人への手紙の「結びの言葉」を読んで終わりたいと思います。ヘブライ人への手紙第13章20節、21節をお読みします。
永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。