サムエルとサウルの出会い 2021年1月13日(水曜 聖書と祈りの会)
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サムエルとサウルの出会い
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- 村田寿和 牧師
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サムエル記上 9章1節~17節
聖書の言葉
9:1 ベニヤミン族に一人の男がいた。名をキシュといい、家系をさかのぼると、アビエル、ツェロル、ベコラト、ベニヤミン人のアフィアに至り、勇敢な男であった。
9:2 彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。
9:3 あるとき、サウルの父キシュのろばが数頭、姿を消した。キシュはその子サウルに言いつけた。「若い者を一人連れて、ろばを捜しに行ってくれ。」
9:4 彼はエフライムの山地を越え、シャリシャの地を過ぎて行ったが、ろばを見つけ出せず、シャアリムの地を越えてもそこにはおらず、ベニヤミンの地を越えても見つけ出せなかった。
9:5 ツフの地に来たとき、サウルは供の若者に言った。「さあ、もう帰ろう。父が、ろばはともかくとして、わたしたちを気遣うといけない。」
9:6 若者は答えた。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方のおっしゃることは、何でもそのとおりになります。その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう。」
9:7 サウルは若者に言った。「訪ねるとしても、その人に何を持参できよう。袋にパンはもうないし、神の人に持参する手土産はない。何か残っているか。」
9:8 若者はまたサウルに答えて言った。「御覧ください。ここに四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げて、どうしたらよいのか教えていただきましょう。」
9:9 昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた。
9:10 サウルは若者に言った。「それはいい。さあ行こう。」彼らは神の人がいる町に向かった。
9:11 町に通じる坂を上って行くと、水くみに出て来た娘たちに出会った。彼らは彼女たちに尋ねた。「ここに先見者がおられますか。」
9:12 娘たちは答えて言った。「はい、おられます。この先です。お急ぎなさい。今日、この町に来られたのです。聖なる高台で民のためにいけにえがささげられるのは今日なのです。
9:13 町に入るとすぐ、あの方に会えるでしょう。あの方は食事のために聖なる高台に上られるところです。人々は、あの方が来られるまでは食べません。あの方がいけにえを祝福してくださるからです。祝福が終わると、招かれた者が食べるのです。今上って行けば、すぐにあの方に会えるでしょう。」
9:14 二人が町に上り、町の中に入って行こうとしたとき、サムエルも聖なる高台に上ろうと向こうからやって来た。
9:15 サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。
9:16 「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」
9:17 サムエルがサウルに会うと、主は彼に告げられた。「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。」サムエル記上 9章1節~17節
メッセージ
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今朝は、『サムエル記上』の第9章1節から17節より、「サムエルとサウルの出会い」という題でお話しします。
前回学んだ第8章で、主はサムエルに、民の声に従って王を立てるようにと言われました。続く今朝の第9章には、イスラエルの最初の王となったサウルのことが記されています。1節と2節には、サウルの父親であるキシュの家系が、4世代遡って記されています。このことは、キシュが立派な一族の出身であることを示しています(1:1参照)。キシュは、ベニヤミン族の立派な一族の出身で、勇敢な男でありました。新共同訳は「勇敢な男」と翻訳していますが、口語訳は「裕福な人」と翻訳していました。キシュは、ろば数頭を持つ裕福な人でもあったのです。そのキシュの息子がサウルでありました。「サウル」とは、「願って授かった者」という意味です(1:20参照)。サウルは美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいませんでした。また、サウルは民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かったのです。容姿の美しさと背の高さは、神からの賜物であります。サウルは王にふさわしい人物であったのです。
あるとき、サウルの父キシュのろばが数頭、姿を消しました。ろばは、大変高価な家畜でありました。現代で言えば、数百万円する高級車でありました。それで、キシュは、サウルに、「若い者を一人連れて、ろばを探しに行ってくれ」と言いました。サウルはエフライムの山地を越え、シャリシャの地を過ぎて行きましたが、ろばを見つけ出せませんでした。さらに、ベニヤミンの地を越えても見つけられませんでした。ツフの地に来たとき、サウルは供の若者にこう言いました。「さあ、もう帰ろう。父が、ろばはともかくとして、わたしたちを気遣うといけない」。20節を見ると、「三日前に姿を消したろば」とありますから、サウルと供の若者は、三日間も、ろばを探し回っていたようです。そうしますと、父のキシュは、ろばのことよりも、息子たちが姿を消してしまったと心配しているだろうと、サウルは言うのです。それに対して、若者はこう答えました。「ちょうどこの町に神の人がおられます。尊敬されている人で、その方を訪ねてみましょう。恐らくわたしたちの進むべき道について、何か告げてくださるでしょう」。この「神の人」とは、サムエルのことであります。サウルと若者は、ろばを探し回りながら、サムエルの家のあるラマまで来ていたのです。サウルは若者に、こう言いました。「訪ねるとしても、その人に何を持参できよう。袋にパンはもうないし、神の人に持参する手土産はない。何か残っているか」。このサウルの言葉から、当時の人々が、報酬を払って、神のお告げを聞いていたことが分かります。若者はサウルに、こう答えました。「御覧ください。ここに四分の一シェケルの銀があります。これを神の人に差し上げて、どうしたらよいのかを教えていただきましょう」。聖書巻末の度量衡によると、シェケルは重さの単位で、約11.4グラムです。四分の一シェケルは、約3グラムであります。その3グラムの銀を報酬として払い、ろばの行方を教えてもらおうと言うのです。9節は、『サムエル記』を記した人、あるいは編集した人の説明の言葉です。昔は、預言者(ナービー)のことを先見者(ローエー)と呼んでいました。「先見者」とは「見る者」のことで、いわゆる千里眼を持つ人物であります。ちなみに、千里眼とは、「遠隔地の出来事や将来の事柄、隠された物事などを見通すことのできる能力」(明鏡国語辞典)を意味します(9:20参照)。「先見者」という言葉は、幻や夢を見ることによって、神さまの啓示を受けることが強調されています。他方、「預言者」という言葉は主の言葉を聞くことによって啓示を受けることが強調されているのです(9:15参照)。サウルは、若者にこう言いました。「それはいい。さあ行こう」。そして、彼らは神の人がいる町に向かって行ったのです。
町に通じる坂を上って行くと、水くみに来た娘たちに出会いました。サムエルと若者は、娘たちにこう尋ねました。「ここに先見者がおられますか」。娘たちはこう答えました。「はい、おられます。この先です。お急ぎなさい。今日、この町に来られたのです。聖なる高台で民のためにいけにえがささげられるのは今日なのです。町に入るとすぐ、あの方に会えるでしょう。あの方は食事のために聖なる高台に上られるところです。人々は、あの方が来られるまでは食べません。あの方がいけにえを祝福してくださるからです。祝福が終わると、招かれた者が食べるのです。今上って行けば、すぐにあの方に会えるでしょう」。第7章16節と17節によれば、サムエルは、ベテル、ギルガル、ミツパを巡り歩いて、裁きを行っていました。また、彼の家があるラマでも裁きを行い、主のために祭壇を築きました。この日、サムエルはラマに来て、聖なる高台でいけにえをささげる日であったようです。この娘たちの言葉は長く、これから起こることを説明しています。この娘たちの言葉のとおり、サウルと若者が、町の中に入って行こうとしたとき、サムエルも聖なる高台に上ろうと向こうからやって来ました。そして、このことは、サウルが来る前日に、主がサムエルの耳に告げていたことであったのです。主はサムエルにこう言われておりました。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる」。私たちは、この主の御言葉から、キシュのろばが姿を消したことも、若者が神の人を訪ねるように提案したことも、娘たちが早く町に入るように勧めたことも、すべて主の導きであったことを教えられます。主は、さまざまなことを用いて、サウルをサムエルのもとに導かれたのです。そして、サウルにサムエルとの出会いを備えられたのです。このことは、私たちが教会へと導かれて、イエスさまを信じるようになったことにおいても言えると思います。私たちはそれぞれ、さまざまな出来事を通して教会へと導かれ、イエス・キリストに出会うことができたのです。
第8章で、主は、民が王を求める背後には、御自分を王として退ける不信仰があることを指摘されました。しかし、ここでは、主が王を選び、立てられるのです。主は、サムエルに、サウルに油を注いで、「わたしの民イスラエルの指導者とせよ」と言われます。油を注ぐとは、主のために聖別することを意味します。ここで、主は「王とせよ」とは言われずに、「指導者とせよ」と言われました。指導者(ナーギード)とは、「将来、王位につくと指名された者の称号」であります。実際に、サウルがイスラエルの王(メレク)になるのは、民が「王様万歳」と喜び叫んで迎えるときであるのです(10:24参照)。主は御自分の民をペリシテ人の手から救うために、サウルを御自分の民イスラエルの指導者とされたのです。そのように、主は民の叫び声を聞いてくださり、民を顧みてくださるのです。このようにして、王を立てることが、主を王位から退けることではなく、主の王権のもとに組み込まれるのです。そのようにして、イスラエルの民は、王を立ててからも、主の民であり続けるのです。
サムエルがサウルに会うと、主はサムエルにこう告げました。「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する」。ここで、「支配する」と訳されている言葉(アーツァル)は、「制御する」とも訳せます。ここでの支配は、主の王権の内に保つことであるのです。そして、そのためには、誰よりも王になる者が、主の王権の内に、自らを保たなければならないのです。新約時代において、神の国の中心的な現れはキリストの教会であります。全世界の王であるイエス・キリストは、教会の頭として、教師と長老たちからなる小会に、御自分の民を霊的に治める権能を授けられました。教師と長老たちからなる小会には、教会を霊的に統治する議会権能と任務が与えられているのです。そうであれば、教師と長老たちは、神の国(神の王的支配)に、自らを保たねばならないことが分かります。神の国は、聖霊と御言葉による御支配ですから、教師と長老たちは、聖霊と御言葉に従うことが求められるのです。そのような教師と長老たちからなる小会によって教会が治められるとき、すべての信徒たちが神の国の内に保たれるのです。