人間の言葉と神の言葉 2021年1月10日(日曜 朝の礼拝)

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人間の言葉と神の言葉

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マルコによる福音書 7章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」マルコによる福音書 7章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 主の日の礼拝では、福音書と書簡と旧約聖書からお話ししています。福音書からの説教は、昨年に続いて、『マルコによる福音書』を読み進めて行きます。今朝は、『マルコによる福音書』の第7章1節から13節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.昔の人の言い伝え

 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスさまのもとに集まりました。ファリサイ派の人々と律法学者たちが登場するのは、久しぶりであります。第2章と第3章に、罪を赦す権威について、罪人との交わりについて、断食について、安息日についてと、イエスさまとファリサイ派の人々との論争が記されています。そして、その結末として、第3章6節にこう記されています。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」。ファリサイ派の人々、彼らは神さまの掟である律法を熱心に守る人たちでありました。神さまの掟を守らない人々を罪人と呼び、自分たちだけでも神さまの掟を守ろうと努めていた真面目な人たちです。そのファリサイ派の人々が、全く立場の異なるヘロデ派(ヘロデ家を支持する者たち)と一緒になって、イエスさまをどのようにして殺そうかと相談し始めたのです。それは、ファリサイ派の人々の目に、イエスさまが安息日を破る危険人物に映っていたからです。彼らのかたくなな心は、イエスさまを殺そうとすることにおいて極まるのです。また、エルサレムから来た律法学者たちについては、第3章20節以下の、いわゆる「ベルゼブル論争」のところに記されていました。イエスさまは神の霊、聖霊によって、病を患う人たちを癒しておられました。しかし、エルサレムから下って来た律法学者たちは、「あの男は気が変になっている」、「(あの男は)悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていたのです。このような、ファリサイ派の人々と律法学者たちですから、イエスさまについて、良い印象を持っていなかったと思います。彼らは、エルサレムから来た者たちでしたから、最高法院から遣わされた調査団であったのかも知れません。エルサレムの最高法院の議員たちが、ガリラヤで活動するイエスさまのことを調査するために、ファリサイ派の人々と律法学者たちをイエスさまのもとに送ったと考えられるのです。

 彼らは、イエスさまの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見ました。食事の前に手を洗って、手を清める。それがファリサイ派の人々をはじめとしてユダヤ人が皆、守っていた昔の人の言い伝えであったのです。3節と4節は、福音書記者マルコが、異邦人の読者を念頭において記した註釈であります。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。その他、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」。ここで、注意したいことは、手を洗ってから食事をすることが、衛生面から言われているのではなくて、宗教的な清めとして言われているということです。私たちも食事の前には手を洗います。それは、衛生面から手を洗うわけです。ばい菌のついた手で食事をすると、ばい菌を体に取り込んでしまいますので、手を洗ってから食事をするわけです。しかし、ファリサイ派の人々が、手を洗ってから食事をするのは、宗教的な儀式として、清い手で食事をするためであるのです。神さまの恵みにあずかる食事は、宗教的な営みであり、礼拝の場であったのです。私たちもそうであると思います。聖書を一箇所短く読んで、食前の祈りをささげて、食事をいただく。そのような私たちの食卓は、まさしく礼拝の場であるのです。律法によれば、手(足)を洗うことは、祭壇に仕える祭司たちに命じられていたことでありました(出エジプト30:21参照)。それを昔の人たち(直訳は「長老たち」)は、祭司でない人々の食事にまで当てはめたのです。なぜなら、主は、イスラエルの人々に、「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる」と言われているからです(出エジプト19:6参照)。このように、昔の人の言い伝えは、律法に基づいたものであったのです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えを口伝律法と呼んで、書かれた律法と同じように重んじていたのです。

2.人間の言葉と神の言葉

 それで、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスさまにこう尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」。それに対して、イエスさまは、こう言われます。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民はわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、昔の人の言い伝えを口伝律法と呼び、書かれたモーセの律法と同じように重んじておりました。ですから、彼らはイエスさまに、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えを守らないのか」と非難したわけです。しかし、イエスさまは、昔の人の言い伝えを、「人間の言い伝え」と呼び、「神の掟」とはっきり区別されます。そのうえで、イエスさまは、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と、ファリサイ派の人々と律法学者たちを非難されたのです。

 ここで、イエスさまが引用しておられるのは、『イザヤ書』第29章の御言葉であります。実際に開いて、確認しましょう。旧約の1105ページです。9節から16節までをお読みします。

 ためらえ、立ちすくめ。目をふさげ、そして見えなくなれ。酔っているが、ぶどう酒のゆえではない。よろめいているが、濃い酒のゆえではない。主はお前たちに深い眠りの霊を注ぎ/お前たちの目である預言者の目を閉ざし/頭である先見者を覆われた。それゆえすべての幻は、お前たちにとって封じられた書物の中の言葉のようだ。字の読める人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、その人は「封じられているから読めない」と答える。字の読めない人に渡して、「どうぞ、読んでください」と頼んでも、「わたしは字が読めない」と答える。

 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき御業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。

 災いだ。主を避けてその謀を深く隠す者は。彼らの業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らを見るものか/誰が我らに気づくものか」と。お前たちはなんとゆがんでいることか。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が、造った者に言いうるのか「彼がわたしを造ったのではない」と。陶器が、陶工に言いうるのか「彼には分別がない」と。

 イエスさまが、ファリサイ派の人々と律法学者たちに、当てはめて引用されたのは、13節であります。ファリサイ派の人々と律法学者たちは、唇で神さまを敬っていましたが、心は遠く離れていました。それは、彼らが人間の戒めに従って、神さまを畏れ敬っていたからです。彼らの関心は、神さまの目に自分がどう映るかよりも、人間の目に自分がどう映るかにあったのです。それゆえ、イエスさまは、ファリサイ派の人々と律法学者たちを、偽善者(仮面を付けて役を演じる者)と呼んだのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約の74ページです。

 

3.神の言葉を無にするな

 ファリサイ派の人々は、昔の人の言い伝えを口伝律法と呼び、記された神の律法と同じように、重んじていました。しかし、イエスさまは、「あなたたちは自分の言い伝えを重んじて、神の掟を侮り軽んじている」と言うのです。そして、その具体例として、「コルバン」のことを言われるのです。神さまは、イスラエルの民に、「父と母を敬え」と言われました。これは、十戒(十の言葉)の第五戒であります。また、神さまは、「父と母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とさえ言われたのです(出エジプト21:17参照)。それなのに、ファリサイ派の人々は、こう言っていたのです。「もし、だれかが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」。「父と母を敬え」という掟は、年老いた父と母の生活を支えることも含まれています。当時は、年金などの制度はありませんから、年老いた親の世話をすることは、子どもにとっての義務であったのです。そして、それが神さまの御意志であったのです。しかし、ファリサイ派の人々は、年老いた親の世話をしなくてもよい逃げ道を、「コルバン」によって正当化したわけです。「コルバン」は、「神への供え物」という意味でありますが、実際は、自分の手もとにおいて、自分の好きなように用いることができたそうです。年老いた親に差し上げるべきものを、自分の手もとに置いておきたいとき、人々は、これはコルバン、神への供え物にしますと言っていたのです。この言い伝えにも、聖書を根拠とする理屈があります。親よりも神さまを愛すること。一度誓ったことは必ず果たすこと。そのような聖書の教えを根拠に、ファリサイ派の人々は、コルバンを正当化していたわけです。しかし、イエスさまは、こう言われるのです。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」。「コルバン」の言い伝えは、「父と母を敬え」という神の言葉を無にするものだ、とイエスさまは言われるのです。神の掟が、ないがしろにされ、無にされている。そのことは、どのようにして起こるのか。それは、人間の戒めを教え、固く守り、大事にすることによって起こるのです。このことは、キリスト教会の歴史においても起こったことであります。私たち日本キリスト改革派教会は、16世紀の宗教改革を源とするプロテスタントの教会であります。宗教改革者たちの一つのスローガンは、「聖書のみ」(ソラ・スクリプトゥラ)でありました。当時のローマ・カトリック教会は、教会の伝承、いわゆる聖伝を、聖書と同じように重んじていました。それに対して、宗教改革者たちは「聖書のみ」を主張したのです。ローマ・カトリック教会が、聖書と同じように、教会の伝承を重んじていることは、今も同じです(『カトリック要理』48、49問参照)。それに対して、私たち改革派教会は、旧約39巻と新約27巻からなる66巻の聖書のみを神によって霊感された、信仰と生活の規範としているのです(ウ告白第1章2節と6節を参照)。私たち改革派教会にとって、聖書だけが絶対的な規範であります。私たちは、信仰規準として、『ウェストミンスター信仰基準』を採用していますが、『ウェストミンスター信仰基準』は、相対的な規範であるのです。神の言葉のみを教え、神の言葉のみに固く留まり、神の言葉のみを大事にするのが、イエスさまの姿勢であり、私たち改革派教会の姿勢であるのです。私たち改革派教会は、御言葉によって改革され続ける教会であるのです。

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