バベルの塔 2012年3月11日(日曜 夕方の礼拝)

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バベルの塔

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
創世記 11章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。
11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。創世記 11章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は創世記第11章1節から9節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

 前回私たちは、ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図について学びました。そこにはノアの息子の子孫たちが、「それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」ことが記されていました(10:5,20,31参照)。ノアの息子の子孫たちは、それぞれの地に、その言語に従って住むようになったのです。今夕の御言葉はその経緯について記しています。つまり第11章は、第10章と時代的には並行しているのです。

 1節から4節までをお読みします。

 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 聖書は「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」と記しておりますが、これは「地上の諸民族は洪水の後、ノアの息子たちから分かれ出た」のならば当然のことと言えます。ノアの息子たち、セム、ハム、ヤフェトが同じ言葉を話していたのなら、彼らから分かれ出た全人類は同じ言葉を使って、同じように話していたはずです。「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた」とありますから、この人々はノアの息子たちから出たすべての子孫というよりも、ハムの子孫であったようです。第10章8節から10節にこう記されておりました。「クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった。彼は主の御前に勇敢な狩人であり、『主の御前に勇敢な狩人ニムロドのようだ』という言い方がある。彼の王国の主な町は、バベル、ウルク、アッカドであり、それはすべてシンアルの地にあった」。聖書は、ハムの子孫に起こったことを普遍的に、全民族に当てはまることとして記しているのです。

 人々は、「さあ、れんがを作り、それをよく焼こう」と呼びかけ合いました。彼らが「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」ことは彼らの技術が発展したことを教えています。人々は石の代わりにれんがを作り、しっくいの代わりにアスファルトを用いる技術を手にしました。そして、その技術を自らの栄光と安全保障のために用いるのです。彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と呼びかけ合いました。「天」とは古代人にとって神の領域、神の住み処であります。その天にまで届く高い塔のある町を建てて、有名になろうと彼らは言うのです。ここで「有名になろう」と訳されている言葉は直訳すると「自分たちのために名前を作ろう」となります。彼らは天にまで届く高い塔を作ることによって、神と等しい者となり、神から自立した新しい存在になろうと試みたのです。ここに見られるのは、エデンの園でアダムが犯したのと同じ罪であります。エデンの園においてアダムは「神のようになりたい」という動機から、禁じられていた善悪の木の実を食べることによって定められていた限界を超えてしまいました。そして、アダムの子らである人々は、「神と等しい者となろう」という動機から天にまで届く高い塔を造ることによってその限界を超えようとするのです。そして、このことは全地に散らされないためでもありました。これは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われた神様への反逆でもあったのです。彼らは一つに集まることによって、自らの安全を確保しようとしたのです。

 5節から7節までをお読みします。

 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

 「人の子ら」とは直訳すると「アダムの息子たち」となります。「人の子ら」は、主によって土の塵から形作られ、命の息を吹き入れられて生きる者となったアダムの子孫にすぎないのです。すなわち、彼らも神によって造られ、生かされている被造物なのであります。しかし、その彼らが天にまで届く高い塔を造ることによって人としての限界を超えようとしました。その塔のある町をご覧になって、主はこう言われます。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。神様は「人が心に思うことは、幼いときから悪い」ことをご存じでありました(8:21参照)。その人々が一つとなってしたことは、自分たちのために名前を造るという自己の神格化と散らされないようにするという神への反逆でありました。それゆえ、神様は直ちに彼らの言葉を混乱させられるのです。これは神様の裁きであると同時に、より大きな裁きをもたらすことがないための予防措置と言えます。神様はノアとその息子たち、また後に続く子孫と契約を立てて、「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」と言われました(9:11参照)。もし、このまま彼らの企てを放っておかれたら、神様は洪水を再び起こすことになったかも知れないのです。「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」とありますように、高い塔の建設は、神への反逆の始まりに過ぎないからです。それで、主は直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにされたのです。

 8節、9節をお読みします。

 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから全地に散らされたからである。

 彼らが全地に散らされたこと、またこの町の建設をやめたことは、互いの言葉が聞き分けられぬようにされたことの結果であります。人々は言葉を混乱させられることにより、意志疎通ができなくなり、全地に散って暮らすようになったのです。このようにして、彼らは「それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って住むようになった」のです(10:5)。聖書は「この町の名はバベルと呼ばれた」と記していますが、バベルとはバビロンのことです。旧約聖書において、バビロンは自らを神とする悪の象徴として出てきますが、その始めにおいても、彼らは神に逆らう者たちであったのです。

 今夕の御言葉を読むとき、主は人々の言葉を混乱させられただけではなく、人々の信仰をも混乱させたと言えると思います。1節の「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」は、人々が同じ言語を話していたことだけではなくて、同じ思いを、すなわち神様に敵対する思いを共有して話していたことを教えているのです。ですから、彼らは「さあ、れんがを作り、それをよく焼こう。さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と互いに呼びかけ、すぐ実行に移すことができたのです。しかし、神様によって言葉が混乱させられたことによって、彼らは互いの言葉を聞かない者となりました。それは言葉が理解できないというだけではありません。それぞれに信じる宗教が起こり、神に逆らうことにおいて一致することができなくなったことを意味しているのです。バベルの塔のお話は、たくさんの言語がある原因を説明するだけではなく、たくさんの宗教がある原因をも説明しているのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙の第1章で、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され」たと記しています(ローマ1:28)。なぜ、世界には様々な宗教があり、多くの神々がいると信じられているのか。その原因はバベルの塔に対する神様の裁きであります。そして、このことは人々が心を一つにして主に逆らうことよりも良いことであるのです。心を一つにして主に逆らう人々は、それぞれの神々を持ち、互いの言葉に耳を傾けなくなりました。聖書はそのような人々が主によって清い唇を与えられ、一つとなって主に仕えることを預言しています。ゼファニヤ書第3章9節、10節には次のように記されています。

 その後、わたしは諸国の民に/清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え/一つとなって主に仕える。クシュの川の向こうから、わたしを礼拝する者/かつてわたしが散らした民が/わたしのもとに献げ物を携えて来る。

 ここで「クシュの川」とありますが、シンアルの地に移り住んだのはクシュの子孫でありますから、ここではバベルの塔のことが言われているのです。主が与える清い唇とは、同じ一つの言葉を話すということよりも、むしろ主の御名を唱える唇であるのです。そして、この預言は、新約聖書の使徒言行録第2章に記されているペンテコステにおいて実現するのです。使徒言行録の第2章1節から12節までをお読みします。

 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるたままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけに取られてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

 ここにはガリラヤ人であるイエスの弟子たちが、当時の世界の国々の言葉で話し出したことが記されています。これはバベルの塔の出来事の再現とも言えますが、ただ一つ大きく違う点があります。それは彼らが異なる言語であっても、同じことを語っていたということです。つまり、彼らは国々の言葉で主の偉大な御業を語っていたのです。神様はイエスを信じる者たちに聖霊を与えることにより、言葉や民族は違っても、「イエスは主である」と告白する一つの民を造られたのです。そして、神様はこの民に「キリスト者」という新しい名を与えられたのであります。キリスト者である私たちは、主の言葉に耳を傾け、さらには互いの言葉に耳を傾けて、一つになって主に仕える者とされているのです。

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