ノアとその息子たち 2012年2月12日(日曜 夕方の礼拝)
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ノアとその息子たち
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- 村田寿和 牧師
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創世記 9章18節~29節
聖書の言葉
9:18 箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。
9:19 この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がったのである。
9:20 さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。
9:21 あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
9:22 カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。
9:23 セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
9:24 ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、
9:25 こう言った。「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
9:26 また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。
9:27 神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ。」
9:28 ノアは、洪水の後三百五十年生きた。
9:29 ノアは九百五十歳になって、死んだ。創世記 9章18節~29節
メッセージ
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今夕は創世記の第9章18節から29節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
18節、19節をお読みします。
箱舟から出たノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、全世界の人々は彼らから出て広がった。
1節で、神様はノアと彼の息子たちを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われましたが、その御言葉のとおり、ノアの息子たち、セム、ハム、ヤフェトから全世界の人々は出て広がりました。ここでの「全世界の人々」とは古代イスラエル人にとっての全世界の人々を指しております。すなわち第10章の「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェトの系図」に記されている諸民族が、ここでの「全世界の人々」であるのです。18節、19節は内容的には第10章に繋がっているのです。
20節、21節をお読みします。
さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。
ここには箱舟から出たノアの姿が描かれています。「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った」とありますが、もとの言葉を見ますと「ぶどう畑を作り始めた」と記されています。新改訳聖書はこの所を次のように訳しています。「ノアはぶどう畑を作り始めた農夫であった」。このようにノアは最初にぶどう畑を作った農夫であったのです。ですから、ノアはぶどう酒を造った最初の人でもありました。ぶどう酒は、人の心を喜ばせるものであります。詩編第104編15節にも「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ/パンは人の心を支える」と記されているとおりです。ノアがぶどう畑を作り始めた農夫であり、ぶどう酒を最初に作った人であったことは、父レメクの預言の成就であると言えます。第5章28節、29節にこう記されておりました。「レメクは百八十二歳になったとき、男の子をもうけた。彼は、『主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるだろう』といって、その子をノア(慰め)と名付けた」。ノアはぶどう酒を作ることによって、主に呪われた大地で働く人々を慰める者となったのです。ですから、「ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた」とあるのは、ぶどう酒を発明した発明家ゆえの失敗であったのです。ノアはぶどう酒を最初に作った人であったがゆえに、ぶどう酒の効用を知らずに、飲み過ぎて泥酔してしまったのです。
22節、23節をお読みします。
カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。
ノアの息子ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げました。このことは父への尊敬を欠いた正しくない態度でありました。最初ハムは偶然父の裸を目にしてしまったかも知れません。けれども、彼は目をそらさずに、じっと見たのです。このことは自分の父への尊敬を欠いた正しくない態度でありました。セムとヤフェトが「顔を背けたままで、父の裸を見なかった」ように、ハムも自分の父の裸を見るべきではなかったのです。目に入ってしまったとしても、目をそらすべきであったのです。またハムは父の失態をおもしろがり兄弟に言いふらしました。もしかしたら、ハムは、セムとヤフェトにも父の裸を見るようにと誘ったかも知れません。しかし、セムとヤフェトは父の裸を見ないように自分たちの肩に着物を掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆ったのであります。ハムも、外にいた二人の兄弟に告げることなく、父の裸を覆うべきであったのです。そして、父の失態を自分の胸の内だけに納めておくべきであったのです。しかし、実際ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げたのであります。
24節、25節をお読みします。
ノアは酔いからさめると、末の息子がしたことを知り、こう言った。
「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」
ここでは「ハム」が「末の息子」と言われています。これまで「セム、ハム、ヤフェト」と記されておりましたから、ヤフェトが末の息子のように考えておりましたが、どうやらハムが末の息子であったようです。第10章21節にセムは「ヤフェトの兄であった」とありますから、年齢順に記すと、「セム、ヤフェト、ハム」となります。ではなぜ「セム、ハム、ヤフェト」と記されているのかと言えば、ハムはヤフェトよりも音節が短いので発音しやすいからであると推測されています。ともかく、ハムが末の息子であるのです。しかし、ここでノアが呪っておりますのは、ハムではなく、カナンであります。既に18節に「ハムはカナンの父である」とあり、22節にも「カナンの父ハム」と記されておりました。第10章6節には、「ハムの子孫は、クシュ、エジプト、プト、カナンであった」と記されております。なぜ、ノアはハムではなく、カナンは呪われよと言ったのでしょうか?その一つの理由は、カナンがハムの子孫であったからです。創世記の文脈から言えば、セム、ハム、ヤフェトはノアの息子であるがゆえに、洪水から救われ、祝福にあずかる者になりました。ですから、父ノアを軽んじることは自らに滅びと呪いを招く行為であるのです。また、申命記の第27章16節にも「父母を軽んずる者は呪われる」と記されています。では、なぜカナンなのか?クシュでもエジプトでもプトでもなく、なぜカナンなのか?このことについては様々な推測がなされておりますけれども、わたしはノアの思いを越えた神のお働きによるものと考えます。すなわち、ここでノアの口を通して語っておられるのは神様であられるのです。ここでノアは主の預言者として語っているのです。カナンは約束の地に住んでいた先住民族であり、約束の地を獲得するためにイスラエルが戦った民族の総称であります。カナンについては第10章15節から19節にこう記されています。「カナンには長男シドンとヘト、また、エブス人、アモリ人、ギルガシ人、ヒビ人、アルキ人、シニ人、アルワド人、ツェマリ人、ハマト人が生まれた。その後、カナン人の諸氏族が広がった。カナン人の領土は、シドンから南下してゲラルを経てガザまで含み、更に、ソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムを経てラシャまでを含んだ」。神様はセムの子孫であるアブラハムにカナン人の土地を与えると言われましたが、その背後には「カナンは呪われよ、奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」というノアの預言があったのです。
26節、27節をお読みします。
また言った。「セムの神、主をたたえよ。カナンはセムの奴隷となれ。神がヤフェトの土地を広げ(ヤフェト)/セムの天幕に住まわせ/カナンはその奴隷となれ」。
ノアは自分を敬い正しい態度を取ったセムとヤフェトに対しては祝福の言葉を語ります。出エジプト記第20章12節に「あなたの父母を敬え」とありますように、父を敬うことは、そのように命じられた神を敬うことでもあるのです。それゆえ、主はノアの口を通して、セムとヤフェトを祝福されるのです。ただし、ここで祝福されているのは、セムではなく、セムの神、ヤハウェであります。これはどういうことでしょうか?ここでノアが語っていることは、セムに祝福として主ヤハウェが与えられるということであります。ノアの息子たち、セム、ヤフェト、ハムが主の民となるのではなくて、セムが主の民となるのです。それに対して、ヤフェトには広い土地を与えられると預言されています。ヤフェトはセムの天幕に住むことによって、セムの神、主をたたえることになるのです。このセムに対する言葉は、セムの子孫であるアブラハムにおいて実現しました。さらにはアブラハムと同じ信仰によって生きる私たちのうえにも実現したのです。私たちも天地を造られた神ヤハウェを、イエス・キリストにあって「私たちの神」としてほめたたえることができるのです。私たちに与えられている祝福、それは神を「私たちの神」と呼び、ほめたたえることができることなのです。
28節、29節をお読みします。
ノアは、洪水の後三百五十年生きた。ノアは九百五十歳になって、死んだ。
これは内容的には第5章32節の続きの言葉であります。これをもって、第5章の「アダムの系図」は閉じられるのです。ノアは神に従う無垢な人であり、神と共に歩んだ人でありましたけれども、やはり死んだのであります。ノアも酒に酔って裸になるという醜態を演じてしまう罪人であるのです。ノアはぶどう酒によって人々の心を喜ばせ、その労苦を慰める者となりました。しかし、私たちを本当に慰めてくださるのは、セムの子孫としてお生まれになったイエス・キリストであるのです。私たちは今夕そのことを心に留めたいと願います。