洪水 2011年12月04日(日曜 夕方の礼拝)
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洪水
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- 村田寿和 牧師
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創世記 7章1節~16節
聖書の言葉
7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。
7:2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。
7:3 空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。
7:4 七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」
7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
7:6 ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。
7:7 ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。
7:8 清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、
7:9 二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。
7:10 七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。
7:11 ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。
7:12 雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、
7:13 まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。
7:14 彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、
7:15 命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。
7:16 神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。創世記 7章1節~16節
メッセージ
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今夕は創世記の第7章1節から16節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から5節までをお読みします。
主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
主はノアに「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい」と言われていますから、このときノアは神様に示されたとおり箱舟を造っていたようであります。第6章22節に「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」とありますように、ノアは長さ約135メートル、幅約23メートル、高さ約14メートルという大きな箱舟を多くの時間と労力を費やして造ったのです。このことについて、ヘブライ人への手紙は次のように述べています。
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
今夕の御言葉で、主が「この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている」と言われておりますけれども、それはノアが信仰によって箱舟を造ったことによるのです。陸の上に造られた大きな箱舟は、ノアが神に従う人であることを雄弁に物語っているのです。
2節で、主は「あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい」と言われています。清い動物と清くない動物についての祭儀的な規定はレビ記の第11章に詳しく記されておりますが、ノアの時代から清い動物と清くない動物という区分があったようであります。レビ記の規定はそれを定式化したものであると言えるのです。主は清い動物を七つがいずつ取りなさいと命じられましたが、これは洪水の後に、主のための献げ物とするためでありました(8:20)。また、洪水の後に主は肉食を許されますので、清い動物は人間の食物として増える必要があることを見越しての配慮であったと思われます。また、主は清くない動物もすべて一つがいずつ取りなさいと命じられています。このようにして主は「全地の面に子孫が生き続けるように」なされるのです。
4節では、第6章17節で言われていたことが、より具体的にノアに対して語られています。洪水は「七日の後」であり、四十日四十夜に渡って降り続く雨によって引き起こされるのです。イエス様によれば、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしておりました(マタイ24:38参照)。誰も洪水が起こるなどとは考えていなかったのです。しかし、ここでもノアはすべて主が命じられたとおりにしたのであります。
6節から9節までをお読みします。
ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。清い動物も清くない動物もすべて、箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。
ここでは5節の「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」ことが詳しく記されております。洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎったのは「ノアが六百歳のとき」でありました。ノアにセム、ハム、ヤフェトが生まれたのは五百歳になったときでありましたから、三人の息子たちは百歳であったことになります(5:32参照)。ノアは主の御言葉どおり、妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入りました。また、清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来ました。これはノアが捕まえたというよりも、神様がノアのもとに遣わされたのであります。神様がノアに命じられたとおり、雄と雌がノアのもとにやって来たのです(2:19参照)。
10節から16節までをお読みします。
七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。雨が四十日四十夜降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼あるものすべて、命の霊を持つ肉成るものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
「七日が過ぎて」とありますから、「それぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼あるものすべて」が箱舟に入るのにどうやら七日かかったようであります。ここに記されていることは6節から9節までの繰り返しのように思われますが、これは古代の叙述の仕方によるものであります。同じ出来事をより詳しく記すことによって強調する一つの技法であります。11節に、「ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」とあります。ここに「深淵」という言葉がでてきますが、この記述は第1章2節を思い起こさせるものであります。第1章2節に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されておりました。神様は第1章6節で、その水を上と下とに分けられたわけです。洪水の時に起こったことは、この神様の御業と反対のことが起こったわけですね。つまり、神様は大いなる深淵の源をことごとく裂き、天の窓を開かれることによって、地を再び創造以前の状態である混沌にされるのです。四十日四十夜降り続くことになる雨は、まさにこの日、動物とノアの妻とその子供たちと妻たちが箱舟に入ったその日に降り始めました。ある研究者はノアとその子供たちは一人の妻を娶っていたことを指摘しております。レメクはアダとツィラという二人の妻を娶っていましたが、ノアもその息子のセム、ハム、ヤフェトも一人の妻を娶っていたのです。そして、この妻たちも主の御名を呼び求めるセトの子孫であったと思われます。第6章2節に、「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」とありましたが、ノアとその息子たちは、外見の美しさではなく主を畏れる女を自分の妻にしたのです(箴言31:30「あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる」参照)。ですから、箱舟を造り、食物を集めるという作業はノアだけではなく、ノアの家族によって行われたと思います。ノアの信仰はノアの家族の信仰でもあったのです。 16節の後半に、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」とありますが、これは意味深長な言葉であります。このことはノアが最後に箱舟に入ったことを教えておりますが、聖書はノアが戸を閉めたとは記しませんでした。主がノアの後ろで戸を閉ざされたと記すのです。これは箱舟に入っている者たちへの神様の守りを表す言葉であります。箱舟は防水のために内側からも外側からもタールを塗っておりました。ですから当然、戸口もタールで防水処置がなされたはずであります。実際はノアが内側からタールを塗ったのでしょうけれども、しかし、聖書は「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」と記すのです。それは箱舟に入っている者を主が守られるからであります。そして、そのことは主イエス・キリストを信じる私たちにおいても言えることなのです。ペトロの手紙一第1章5節に「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」とありますように、私たちは救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られているのです。
また、「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」という言葉は、救われる者が誰であるかを定めるのが主であることを表しています。主が戸を閉ざされた以上、もはや誰も箱舟に入ることはできないのです。教会の歴史において、教会は箱舟に譬えられてきましたけれども、教会という箱舟の扉はまだ閉ざされてはおりません。それは主が一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと忍耐しておられるからです(二ペトロ3:9参照)。それゆえ、私たちはまだ扉が開かれているうちに、主イエスを信じて、教会という箱舟に乗り込むべきであるのです。