神の心痛 2011年10月30日(日曜 夕方の礼拝)
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神の心痛
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- 村田寿和 牧師
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創世記 6章1節~8節
聖書の言葉
6:1 さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。
6:2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
6:3 主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
6:4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
6:7 主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
6:8 しかし、ノアは主の好意を得た。創世記 6章1節~8節
メッセージ
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今夕は創世記第6章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
1節から4節までをお読みします。
さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。
当時もその後も、地上にはネフェリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
前回私たちは第5章の「アダムの系図」を学びました。そこにはアダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラルエル、イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノアと10代に渡る系図が記されておりました。今夕の御言葉はその続きであります。すなわち、神様がアダムを創造されてから何千、何百年と経っているわけです。その歴史の経過を受けて、第6章1節は「さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた」と記しているのであります。2節に「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした」とありますが、「神の子ら」とは誰を指すのでしょうか?これには大きく3つの解釈があります。1つは「天使たち」を指すというものであります。しかし、主イエスが教えられたように天使はめとることも嫁ぐこともないのですから、そうではないでしょう(マタイ22:30「復活の時には、めとることも嫁ぐこともく、天使のようになるのだ」参照)。2つ目の解釈は「王の一族(豪族)」を指すというものです。確かに聖書にも王が神の子と言われている個所があります(サムエル記下7:14「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」参照)。しかし、最も文脈に則しているのは、3つ目の「セムの子孫」を指すという解釈であります。前回もお話しましたように、アダムの系図は血筋だけではなく、信仰の系図でもありました。第4章26節に「セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」とありましたけれども、第5章のアダムの系図は、主の御名を呼び求めた者たちの系図であるのです。それゆえ、セトの子孫らは主なる神を礼拝する神の子らと言うことができるのです。
では、「人の娘たち」とはどのようなものを指すのでしょうか?それはカインの子孫の娘たちであると考えることができます。創世記は、第4章にカインの系図を7代に渡って記しておりましたが、そのカインの子孫の娘たちがここで「人の娘たち」と言われているのです。信仰の家系であるセムの子孫たちは不信仰な家系であるカインの子孫の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。しかし、このことは主の御心ではありませんでした。3節にこう記されています。「主は言われた。『わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった」。この主の御言葉は、第2章7節を背景とするものであります。そこにはこう記されておりました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。しかし、主はセムの子孫たちがカインの子孫の娘たちの美しさを見て、おのおの選んで結婚したとき、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉に過ぎないのだから」と言われたのです。目に見える美しさに心ひかれる。それはセムの子孫も肉に過ぎないことを表しています。そのような肉の美しさ、肉の欲望に従っておのおのが妻を選んだとき、主は「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」と言われたのです。「こうして、人の一生は百二十年となった」とありますが、これには二つの解釈があります。1つは人の寿命が120年と短くなったという解釈です。そして2つ目は、ノアの洪水によって滅ぼされるまでの猶予期間が120年であるという解釈です。私としては、新共同訳聖書が翻訳しているように、人の寿命が短くされることが語られているのだと思います。「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」と言われてアダムとエバをエデンの園から追放された神は、セムの子孫がカインの子孫の娘たちの美しさを見て、おのおの選んだ者を妻にしたのを御覧になって、「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」と言われ、人の寿命を短くされたのです。
4節に、「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた」とありますが、「ネフィリム」という言葉がここ以外で出てくるのは他に一個所しかありません。それは民数記の第13章33節であります。約束の地カナンに偵察に行った者たちは、イスラエルの人々にこう言いました。「我々が偵察して来た土地は、そこに住み着こうとする者を食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない」。この所から、ヘブライ語旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書では、「ネフィリム」は「巨人」と記されています。「神の子ら」を「天使たち」と解釈する者はネフィリムは神と人が交じり合った神人と考えます。では、私たちはどのように解釈するのでしょうか?ネフェリムという言葉は「堕ちる、倒れる」を意味するナーパルを元としています。ですから、ネフェリムとは神の御前に堕ちた者たち、倒れた者たちと理解するのが良いと思います。この解釈は「大昔の名高い英雄たちであった」という記述からも支持されます。「名高い」とは第11章に記されているバベルの塔を建てた者たちの言葉、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」を思い起こさせます。主なる神を呼び求めるセムの子孫と不信仰なカインの子孫の娘が結婚し、生まれてきたのは神の御前に堕落した者、ネフィリムであったのです。この解釈はネフィリムが勇士であったことを否定するものではありません。女の美しさが重んじられたように、男の強さが重んじられていたのです。しかし、主は人の心を御覧になられるのです。
5節から7節までをお読みします。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」しかし、ノアは主の好意を得た。
地上に人が増え広がるのと比例して、地上に悪も増え広がりました。なぜなら、人は常に悪いことばかりを心に思い計っているからです。主はそれを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。神様は御自分の造った人間が御自分のことを忘れて、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、心を痛めるお方であるのです。このことは、神様が世界を造られただけではなく、世界を保ち統治しておられることを私たちに教えています。神様はアダムにあって堕落した人間によって地上に悪が増え広がったことを放置されずに、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛めて、こう言われます。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」。主は人だけではなくて、家畜も這うものも空の鳥も、地上からぬぐい去ろうと言われます。このことは、家畜も這うものも空の鳥も人の支配下に置かれていたためであり、またアダムの堕落の影響が家畜、這うもの、空の鳥にも及んでいたことを私たちに教えています。アダム(人間)だけが良き創造の状態から堕落したのではありません。アダムの支配下に置かれていた家畜も這うものも空の鳥も良き創造の状態から堕落したのです。それゆえ、主は「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も」と言われたのです。「わたしはこれらを造ったことを後悔する」とありますが、この神様の言葉は第1章31節の裏返しであると読むことができます。第1章30節にはこう記されておりました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神様が造られた世界は創造主である神様の目から見ても極めて良い世界でありました。しかも人間は神のかたちに似せて造られたものでありました。神様の御栄光は人間を通して表されるはずであったのです。しかし、人はアダムにあって堕落し、その心に思い計ることはいつも悪いこととなってしまったのです。肉にすぎない人は、女の美しさを見て自分勝手に妻を選び、その子供たちは何よりも力を誇る者となってしまいました。彼らは主の名を呼び求めることもなく、むしろ自分の名が呼ばれることを好む者となってしまったのです。しかし、そのような中で、主はノアに目を留められました。ノアは主の恵みを得たのです。アダムの系図の最後に記されていたノアだけが、その世代の中で、神に従う無垢な人であったのです。神様はこのノアを救いの源となされます。洪水によってすべての人をぬぐい去ることなく、また、すべての家畜や這うものや空の鳥をぬぐい去ることなく、ノアに恵みを与えることによって、救いの道を備えられるのです。私たちにとってのノアは、主イエス・キリストであります。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天からありました。イエス様こそ、神様の独り子であり、神様の御心に適う者であるのです。それゆえ、私たちはイエス・キリストを信じたいと願います。そのとき私たちも神の御心に適った、神に喜ばれる者となることができるのです。