最上の初物をたずさえて 2016年12月04日(日曜 夕方の礼拝)
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最上の初物をたずさえて
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 23章10節~19節
聖書の言葉
23:10 あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。
23:11 しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい。ぶどう畑、オリーブ畑の場合も同じようにしなければならない。
23:12 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
23:13 わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。
23:14 あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない。
23:15 あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトを出たからである。何も持たずにわたしの前に出てはならない。
23:16 あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い、年の終わりには、畑の産物を取り入れる時に、取り入れの祭りを行わねばならない。
23:17 年に三度、男子はすべて、主なる神の御前に出ねばならない。
23:18 あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない。また、祭りの献げ物の脂肪を朝まで残しておいてはならない。
23:19 あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。出エジプト記 23章10節~19節
メッセージ
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21章1節に、「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」と記されているように、21章、22章、23章は、主がモーセを通して、イスラエルの民に示された法が記されています。ここに記されている法は、ウェストミンスター信仰告白の区分から言えば、政治的統一体としてのイスラエルに与えられた司法的律法であります。ウェストミンスター信仰告白は、律法を道徳律法と祭儀律法と司法的律法の大きく3つに区分しています。道徳律法とは、十戒に代表される律法で永遠に有効である。祭儀律法とは、動物犠牲に代表される律法でイエス・キリストにおいて満たされ廃止された。司法的律法とは、政治的統一体としてのイスラエルに与えられた律法で、その終わりと共に無効とされた。このように理解するのであります。しかし、前回申しましたように、この区分はそれほど明確であるわけではありません。前回は「法廷において」の法を学んだのでありますが、その源には、「隣人に関して偽証してはならない」という十戒の第九戒、道徳律法があるわけです。そのことは、今夕の御言葉においても言えることであります。12節に、「あなたの六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない」とありますが、この法の源には、十戒の第四戒、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」があるわけです。そのように重なる部分があるわけですが、基本的には、政治的統一体としてのイスラエルに与えられた律法として、すなわち、現代の私たちにはそのまま当てはまらない法として学びたいと思います。そのまま当てはまりませんが、そこに表されている一般的公正さを学び、神の民としての私たちの生活に適用して行きたいと願います。
新共同訳聖書は、便宜上、小見出しを付けていますが、その小見出しの区分に従って見ていきたいと思います。
10節、11節には、「安息年」と小見出しが付けられています。「あなたは六年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない」と記されています。主は土地にも安息を与えられる御方であるのです。土地を休ませること、休閑地とすることは、農業を営むうえでも効率的であったと言われますが、ここではそのような理由は記されていません。主は、「あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい」と言われるのです。休閑地とされた土地に自然に生えた産物は、乏しい者や野の獣の食べ物として与えられたのです。主は、乏しい者だけでなく、野の獣にも食べ物を与えてくださる御方であるのです(詩104:21参照)。
12節、13節には、「安息日」と小見出しが付けられています。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない」。これは先程も申しましたように、十戒の第四戒で命じられていたことであります。しかし、ここではその理由、目的が違います。第四戒では、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目には休まれたから」と記されておりました。主が七日目に休まれたから、あなたたちも休みなさいと記されていたのです。しかし、ここでは、「それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」と記されています。主は、「あなたが元気を回復するためである」とは言わずに、「あなたの家畜や、あなたの下で働いている僕たちが元気を回復するためである」と言われるのです。神様は、社会的立場の弱い人に、また家畜にも心を配られる御方であるのです。自分だけ休んで、使用人や家畜を働かせてはならない。それでは、安息日を守ったことにならないのです。
13節に、「わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない」とあります。これはどこか唐突な気がしますが、安息日が神様を礼拝する日であったことと関係していると思います。安息日は、仕事をやめて休む日であると同時に、集まって神様を礼拝する日でありました(レビ23:3「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である」参照)。その礼拝のことを念頭において、13節の御言葉が記されているのです。ここに記されていることは、十戒の序文と第一戒で主が言われたことと同じですね。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。あなたたちは、エジプトの奴隷状態から救われて私の民とされた。だから、わたしの掟を守らなければならない。私だけを神とし、他の神の名を口にしてはならないと、主は言われるのです。主は、「掟を守って救われなさい」と言われたのではなくて、「救われた者として掟を守りなさい」と言われたのです。
14節から19節には、「祭りについて」と小見出しが付けられています。「あなたは年に三度、わたしのために祭りを行わねばならない」とありますように、ここには、三つの祭りについて記されています。
一つは除酵祭、種なしパンの祭りであります。「あなたは除酵祭を守らねばならない。七日の間、わたしが命じたように、あなたはアビブの月の定められた時に酵母を入れないパンを食べねばならない。あなたはその時エジプトから出たからである」。除酵祭については、13章に記されておりましたが、出エジプトを記念する祭りであります。エジプトを脱出する際、急いでいたので、パンを発酵させる時間がありませんでした。それで、酵母を除いたせんべいのようなパンを食べて、エジプトから脱出したことをお祝いしたのです。主がエジプトの奴隷状態から自分たちを解放してくださったことを祝う祭りでありますから、何も持たずに主の前に出てはなりませんでした。神様の恵みに対する感謝として、必ずささげものを携えて、主の前に出なくてはならなかったのです。このことは、私たちにも求められている姿勢であります。私たちも父なる神様と主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から救い出された者として、喜びと感謝のささげものを携えて、礼拝に出席することが求められているのです。
二つ目の祭りは、「刈り入れの祭り」であります。16節に、「あなたは、畑に蒔いて得た産物の初物を刈り入れる刈り入れの祭りを行い」とありますが、この産物は小麦でありまして、5月、6月頃に行われる七週祭(五旬祭)のことであります。
三つ目の祭りは、年の終わりに畑の産物を取り入れる時に行われる「取り入れの祭り」です。これは、9月、10月頃に行われるオリーブとぶどうの収穫を祝う祭りであります。これは、後に「仮庵の祭り」と呼ばれることになります。
主は、イスラエルをカナンの地に導く前に、畑の収穫を祝う祭りを定められました。それは、まさしく、主が地に実りをもたらす御方であり、すべてのものに食べ物を与えてくださる御方であるからです(使徒14:17参照)。
18節、19節は、祭儀律法とも言えます。「あなたはわたしにささげるいけにえの血を、酵母を入れたパンと共にささげてはならない」とありますが、理由はよく分かりません。ある研究者は、酵母は腐敗の象徴であるから命である血と共にささげることが禁じられていると説明しておりました。また、「祭りの献げ物の脂肪を朝まで残してはならない」とあります。祭りは通常夕方から行われましたから、献げ物の脂肪を速やかに燃やし尽くすことが命じられているわけです。さらに、「あなたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない」とあります。これは、創世記4章に記されているアベルの献げ物にも見られたことです。アベルは羊の群れの中から肥えた初子をささげました(創世4:4参照)。アベルは最も良いものをささげたのです。ある人は、お給料をもらったらすぐに、しかも、きれいなお札で献金することを心がけています。それは主に最もよいものをささげたいとの気持ちの表れであると思います。最後に、「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」とあります。ユダヤ教の人たちは、この所を根拠にして、肉と乳製品を一緒に食べないそうです(例えばシチュー)。彼らは、この掟をそのまま当てはめているわけです。私たちはそのようには受け止めないわけですが、ここで言われていることは、異教の風習に倣ってはならないということです。考古学の発展によって明らかとなったことですが、異教の風習として、また、魔術的行為として、子山羊をその母の乳で煮て食べることが行われていました。それゆえ、主は、イスラエルに、「あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない」と言われたのです。主は御自分の民であるイスラエルの人々が異教の習慣、魔術的行為に倣うことを厳しく禁じられたのです。私たちの生活にも異教の習慣が知らず知らず入り込んでいることがあるかも知れません。そうであるならば、私たちの生活から異教の習慣を除き去る必要があるのです。