憐れみ深い神 2016年11月13日(日曜 夕方の礼拝)

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憐れみ深い神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 22章17節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:17 女呪術師を生かしておいてはならない。
22:18 すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。
22:19 主ひとりのほか、神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼされる。
22:20 寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。
22:21 寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。
22:22 もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。
22:23 そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
22:24 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。
22:25 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。
22:26 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。
22:27 神をののしってはならない。あなたの民の中の代表者を呪ってはならない。
22:28 あなたの豊かな収穫とぶどう酒の奉献を遅らせてはならない。あなたの初子をわたしにささげねばならない。
22:29 あなたの牛と羊についても同じようにせよ。七日の間、その母と共に置き、八日目にわたしにささげねばならない。
22:30 あなたたちは、わたしに属する聖なる者とならねばならない。野外でかみ殺された肉を食べてはならない。それは犬に投げ与えるべきである。出エジプト記 22章17節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 21章1節に、「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」とありますように、21章、22章、23章には、主がモーセを通してイスラエルの民に示された法が記されています。これらの法は、ウェストミンスター信仰告白の区分によれば、政治的統一体としてのイスラエルに与えられた司法的律法であります。ウェストミンスター信仰告白は、律法を道徳律法、儀式律法、司法的律法の大きく三つに区分しています。道徳律法とは十戒に代表される律法で永遠に有効である。儀式律法は動物犠牲に代表される律法でイエス・キリストによって満たされ、無効とされた。司法的律法は政治的統一体としてのイスラエルに与えられた律法で、その終わりと同時に無効とされた。このように理解するのです。ですから、今夕の御言葉は現代の私たちにそのまま当てはまるものではありません。ここに記されている法は、古代のイスラエルの民に与えられた法であり、現代の私たちがそのまま守るべき法ではないのです。けれども、その法に秘められている神様の御心について学び、それを私たちの生活に適用していくことは有益であります。そのようなことを踏まえながら、今夕は22章17節から30節までを学びたいと願います。

 17節から19節には、「死に値する罪」という小見出しが付けられております。ここには3つの死に値する罪が記されています。この所を読みますと、これらの法が政治統一体だけではなく、信仰共同体としてのイスラエルに与えられた法であることに改めて気づかされます。当時の呪術(魔術)の背後には、悪霊信仰がありました。また、獣と寝ることは、異教の祭儀において見られたことでありました。呪術も獣と寝ることも、主だけを神とすることに反することであったのです。十戒の序言と第一の言葉にありますように、イスラエルは、エジプトの国、奴隷の家から導き出してくださった主だけを神とすることが求められておりました。それゆえ、「主ひとりのほか、神々に犠牲をささげる者は断ち滅ぼされる」のです。「断ち滅ぼされる」とは具体的にはイスラエルの民から断たれる。イスラエルの共同体から閉め出されることを意味しておりました。先程も申しましたように、ここに記されているのは、政治的統一体としてのイスラエルいうよりも、信仰共同体としてのイスラエルに与えられた法であります。現代の私たちに置き換えて言いますと、国としての法というよりも、教会としての法であるのです。私たちの教会は、前文を付したウェストミンスター信仰基準と教会規定を憲法としていますが、ここに記されているのは、教会という信仰共同体において適用すべき法であるのです。実際、新約聖書を見ますと、使徒パウロは第一コリント書の6章9節以下で次のように記しています。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことはできません」。信仰共同体としてのイスラエルに、魔術を使う者、淫らな行いをする者、偶像を拝む者に居場所がないように、神の国においても、魔術を使う者、淫らな行いをする者、偶像を拝む者には居場所がありません。それは、神のイスラエルである教会においても同じことであります。もし、教会員の中に、魔術を行う者、動物と性的な関係を持つ者、他の神々を礼拝する者がいることが判明すれば、その人は、教会訓練の対象となります。命まで取られることはありませんが、教会の交わりから断たれる、除名の戒規を受けることになるのです。

 20節から26節には、「人道的律法」と小見出しが付けられています。ここには、社会的弱者である寄留者、寡婦や孤児、貧しい者を保護するための法が記されています。寄留者とはイスラエルに滞在している外国人のことです。寄留者は社会的な立場が弱く、虐待されたり、圧迫される危険がありました。それゆえ、主は「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」と言われるのです。そして、その理由として、「あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」と言われるのです。出エジプト記の1章を見ますと、エジプトでイスラエルの人々がおびただしく増えたために、エジプト人によって重労働を課せられ虐待されたことが記されています。そのような歴史を持つ民として、あなたたちの間では、寄留者を虐待したり、圧迫してはならないと言われるのです。主は、私たちにも他者の中に、かつての自分の姿を見出し、親切にすることを求めておられるのです。

 寡婦とは夫を亡くした未亡人のことであり、孤児とは父親を亡くした子供のことであります。当時は、家父長制社会であり、寡婦や孤児は社会的な弱者の代表でありました。彼らは寄る辺のない者たちであったのです。それゆえ、主は、「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」と言われるのです。また、寡婦や孤児を保護する御方として、「もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」と言われるのです。使徒言行録の6章に、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たこと。そして、その苦情とは、日々の分配のことで仲間のやもめが軽んじられていたことであったと記されています。教会において、やもめが軽んじられていたことが問題とされたのは、神様がやもめ(寡婦)や孤児を大切にされる御方であったからです。それゆえ、私たちは、寡婦や孤児に代表される社会的な弱者を大切にすることが求められているのです。

 24節から26節には、貧しい者に金を貸す場合の法が記されています。古代においても、お金を貸して利子を取ることは行われておりました。しかし、主は、同胞のイスラエルの民の貧しい者に金を貸す場合は、利息を取ることを禁じられました。彼らは商売を営むために金を借りるのではなく、生きるために金を借りるからです。また、もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばなりませんでした。上着は夜の寒さから身を守るための毛布でもあったからです。主は、「彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである」と言われます。ここでも主は貧しい人の保護者として振る舞われます。そして、それは主が憐れみ深い御方であるからです。ここで「憐れみ深い」と訳されている言葉は、旧約聖書において神様だけに用いられる言葉であります。神様こそ憐れみ深い御方であるのです。この神様の深い憐れみによって、私たちに御子イエス・キリストが与えられたのです(ルカ1:78参照)。

 27節から30節には、「祭儀的律法」と小見出しが付けられています。27節に、「神をののしってはならない。あなたの民の代表者を呪ってはならない」とありますが、これは使徒言行録23章でパウロが最高法院で引用した律法であります。神の民の代表者は神様が立てられたゆえに、悪く言ってはならないのです。これは、教会役員に対しても言えることであります。神様は教会政治を行うために、教会役員(教師、長老、執事)を立ててくださいました。それゆえ、教会員は、教師、長老、執事のことを悪く言ってはならないのです。また、同じことが国家においても言えます。国家為政者は、たとえ異教徒であっても、神様が立てられた者たちであります。それゆえ、私たちは国家為政者のことを悪く言ってはならないのです(ローマ13章参照)。ただし、それは何でもおとなしく従うということではありません。敬意を払いつつ、率直に戒める。あるいは、抗議する。さらには抵抗することも、時には、私たちには求められるのです。

 28節、29節には、献げ物のことが記されています。豊かな収穫が与えられたとき、献げることをもったいないように感じて、遅らせてはいけないと記されています。また、初子をささげるようにと記されています。教会でも、「献金は給料をもらったら最初にささげるのであって、残ったものをささげるべきではない」と言われますが、それはこれらの法と同じ精神であると思います。パウロが「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」と記しているとおりです(二コリント8:7)。

 30節で、主は「野外でかみ殺された肉を食べてはならない」と言われていますが、それは祭儀的な理由からであります。と言いますのも、主はその直前で、「あなたたちは、わたしに属する聖なる者とならねばならない」と言われているからです。野外でかみ殺された肉は、血を含んだ肉でありました。イスラエルにおいて血は命であり、血を食べることは禁じられておりました(レビ17:14参照)。それゆえ、イスラエルの民は野獣によってかみ殺された肉を食べてはならないと言われているのです。神様は、御自分の民を食べる物によっても、異教の民から区別されるのです。

 今夕の御言葉を読んで、私の心にとまった御言葉は20節であります。「寄留者は虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」。この御言葉を読んで、私は自分が罪の奴隷状態にあったこと、まことの神様を知らずに歩んでいたことを忘れているのではないかと思わされました。今、イエス・キリストを信じて、神様の恵みによって、救われておりますけれども、かつてはそうではなかった。そのことをもう一度思い起こして、イエス様を信じていない人たちにかつての自分を見出して、福音を宣べ伝えて行きたいと思いました。また、今夕の御言葉は、憐れみ深い想像力を持つこと私たちに求めていると思います。貧しい人の上着を質にとったままで、夜になったらどうなるだろうか?神様から言われなければ、そのようなことは考えないかも知れません。しかし、憐れみ深い神様は、そのようなことも考えて、前もって、「日没までには返さねばならない」と言われたのです。そのような憐れみ深い想像力を働かせることも、私たちにとって大切なことではないかと思います。

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