財産の保管 2016年10月30日(日曜 夕方の礼拝)
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財産の保管
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 22章6節~16節
聖書の言葉
22:6 人が銀あるいは物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合、もし、その盗人が見つかれば、盗人は二倍にして償わねばならない。
22:7 もし、盗人が見つからない場合は、その家の主人が神の御もとに進み出て、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったことを誓わねばならない。
22:8 牛、ろば、羊、あるいは衣服、その他すべての紛失物について言い争いが生じ、一方が、「それは自分の物です」と言うとき、両者の言い分は神の御もとに出され、神が有罪とした者が、隣人に二倍の償いをせねばならない。
22:9 人が隣人にろば、牛、羊、その他の家畜を預けたならば、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、
22:10 自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかった、と両者の間で主に誓いがなされねばならない。そして、所有者はこれを受け入れ、預かった人は償う必要はない。
22:11 ただし、彼のところから確かに盗まれた場合は、所有者に償わねばならない。
22:12 もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない。
22:13 人が隣人から家畜を借りて、それが傷つくか、死んだならば、所有者が一緒にいなかったときには必ず償わねばならない。
22:14 もし、所有者が一緒にいたならば、償う必要はない。ただし、それが賃借りしたものであれば、借り賃は支払わねばならない。
22:15 人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って、自分の妻としなければならない。
22:16 もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばならない。出エジプト記 22章6節~16節
メッセージ
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21章1節に、「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」とありますように、21章から23章に渡って、主がモーセを通してイスラエルに示された法が記されております。ここに記されている法は、ウェストミンスター信仰告白の区分によりますと、政治的統一体であるイスラエルに与えられた司法的律法であります。ウェストミンスター信仰告白は、律法を、道徳律法、祭儀律法、司法的律法の大きく三つに区分しています。道徳律法は十戒に代表される律法で、永遠に有効である。祭儀律法は動物犠牲に代表される律法で、イエス・キリストにおいて満たされ無効とされた。司法的律法は政治的統一体としてのイスラエルに与えられた律法であり、その終わりと同時に無効とされた。このように、ウェストミンスター信仰告白は第19章の「律法について」で、告白しています。ですから、今夕の御言葉は、現代の私たちにそのまま有効であると言うことはできません。けれども、その法に秘められている主の御心について、私たちは学ぶ必要があるのです。古代のイスラエルの民に与えられた法であるゆえに、現代の私たちの生活とだいぶ隔たりを感じるのでありますが、神様の御言葉として御一緒に学びたいと願います。
6節には、人が財産の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた場合の法が記されています。古代のイスラエルにおいて、銀行などはありませんから、隣人に銀あるいは物品の保管を託することがあったようです。旅に出たりする場合、隣人に銀あるいは物品の保管を託することがあったのです。盗まれないように、隣人に財産の保管を託するわけですが、隣人の家から盗まれた場合はどうすればよいか?もし、その盗人が見つかれば、盗人は二倍にして償わねばなりませんでした。これは、22章3節に記されていた法と同じであります。そこにはこう記されていました。「もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない」。盗人は、盗んだものを返すだけではなく、それと同じものを償いとして返せさねばならなかったのです。このことがここでも命じられているのです。では、もし盗人が見つからなかった場合はどうすればよいのでしょうか?もし、盗人が見つからない場合は、その家の主人が神の御もとに進み出て誓わねばなりませんでした。ここでは、神様の御名によって誓いがなされたと考えられます。神様を証人として自分が真実を語っていること、潔白であることを誓ったのです。しかし、それにも関わらず、牛、ろば、羊、あるいは衣服、その他すべての紛失物について言い争いが生じ、一方が、「それは自分の物です」というとき、両者の言い分は神の御もとに出され、神が有罪とした者が、隣人に二倍の償いをせねばなりませんでした。ここでは、おそらく、指導者たちの神の名による裁きのことが言われているのだと思います。主は、「神が有罪とした者が、隣人に二倍の償いをせねばならない」と命じておりますが、偽証によって隣人の物を自分の物とすることは盗みに等しい行為であるのです。
古代のイスラエルの民にとって、財産とは、ろば、牛、羊などの家畜でありましたが、家畜を預けて、それが死ぬか、傷つくか、奪われるかして、しかもそれを見た者がいない場合、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったと、両者の間で主に誓いがなされねばなりませんでした。人は見ていなくても、神様は見ておられるわけですから、主を証人として、自分は決して隣人の持ち物に手をかけなかったと誓ったのです。そして、所有者はこれを受け入れ、預かった人は償う必要はありませんでした。ただし、彼のところから盗まれた場合は、所有者に償わねばなりませんでした。「奪われる」と「盗まれる」とのどこが違うのだろうかと思うのですが、「奪われる」とはイスラエル民族ではない他の民族によって奪われることが考えられているようです。その場合は償う必要はありませんでした。けれども、彼のところから確かに盗まれた場合は、所有者に償わねばならなかったのです。財産をあずかる者はそれをしっかりと管理する義務を負わされたのです。もし、野獣に殺された場合は、証拠を持って行きました。ここでの証拠とは、獅子の口から取り戻した二本の後足、あるいは片耳のことであります(アモス3:12参照)。そのような証拠を持って行けば、かみ殺されたものに対して、償う必要はなかったのです。話が少し逸れるかも知れませんが、創世記の31章にラバンに対するヤコブの言葉が記されています。そこには、ヤコブは、「野獣にかみ裂かれたものがあっても、あなたのところへ持って行かないで自分で償いました」と言っています(創世31:39)。今夕の御言葉によれば、野獣にかみ裂かれたものは、証拠があれば償わなくてもよいのですが、ヤコブは自分で償ったのです。それほどラバンの態度はヤコブに対して厳しいものであったのです。
牛は畑を耕すことに、ろばは荷物を運ぶのに用いられましたから、人が隣人から家畜を借りることがありました。人が隣人から家畜を借りて、それが傷つくか、死んだならば、所有者が一緒にいなかったときには必ず償わねばなりませんでした。それは借りた人に家畜を管理する責任があるからです。しかし、もし、所有者が一緒にいたならば償う必要はありませんでした。その家畜を管理する責任は所有者にあるからです。ただし、それが賃借りしたものであれば、その借り賃は支払わねばなりませんでした。
15節、16節は、人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合の法が記されています。この法が財産の賠償の法の最後に記されているのは、古代のイスラエルにおいて、娘は父親の所有と見なされていたからです。人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金を払って自分の妻としなければなりませんでした。ここで注意したいことは、「辱めた」とは記しておらず、「誘惑した」と記されていることです。この法から教えられることは、性的な関係を持つことが結婚と結びついているということです。神様は、人間を男と女にお造りになり、祝福して、「産めよ、増えよ」と命じられました。ですから、性的な営みは神様から祝福として与えられたものであります。しかし、その性的な営みが本当に神様からの祝福となるのは結婚関係においてであるのです。それゆえ、人がまだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝たならば、必ず結納金(花嫁料)を払って、自分の妻としなければならないのです。ただし、もし、彼女の父親が彼に与えることを強く拒む場合は、彼は処女のための結納金に相当するものを銀で支払わねばなりませんでした。この場合、この娘はどうなるのだろうかと思うのですが、ここでの関心は、娘の所有者である父親への賠償という点に絞られています。
今夕の御言葉を読みまして、現代の日本に生きる私たちは隣人に財産を預けることも、隣人から財産を借りることも少なくなっているのではないかなぁと思います。銀行にあずけたり、レンタル店などから借りることが多くなっているのではないかと思います。しかし、古代のイスラエルには、銀行もレンタル店などもありませんから、隣人に財産の保管を託したり、財産を貸し借りすることによって共有していたわけです。また、現代の日本においては、性的な関係を持つことと結婚することが切り離されて考えられていると思います。まことの神様を知らない世の人々がそのように考えるのは致し方ないことかも知れませんが、神のイスラエルである教会においても、そのように考えるならば問題であります。私たちは今夕の御言葉から、性的な関係を持つことと結婚することが一体的な関係にあることを改めて心に留めたいと思います。