損害の賠償 2016年10月23日(日曜 夕方の礼拝)

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損害の賠償

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 21章33節~22章5節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:33 人が水溜めをあけたままにしておくか、水溜めを掘って、それに蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちた場合、
21:34 その水溜めの所有者はそれを償い、牛あるいはろばの所有者に銀を支払う。ただし、死んだ家畜は彼のものとなる。
21:35 ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。
21:36 しかし、牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、死んだ牛は彼のものとなる。
21:37 人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。
22:2 彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。
22:3 もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。
22:1 もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。
22:2 しかし、太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある。
22:4 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に草を食べさせるとき、自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせたならば、自分の畑とぶどう畑の最上の産物をもって償わねばならない。
22:5 火が出て、茨に燃え移り、麦束、立ち穂、あるいは畑のものを焼いた場合、火を出した者が必ず償わねばならない。出エジプト記 21章33節~22章5節

原稿のアイコンメッセージ

 出エジプト記21章1節に、「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」とありましたように、21章から23章までは、主がモーセを通してイスラエルの民に示された法が記されております。主はイスラエルの民をカナンの地へと導かれるに先立って、共同体として生きていくための法をお示しになったのです。

 ここに記されております法は、ウェストミンスター信仰告白の言葉で言えば、「司法的律法」にあたります。ウェストミンスター信仰告白は、律法を道徳律法、儀式律法、司法的律法の大きく3つに区分しています。そして、道徳律法は永遠に有効である。儀式律法はキリストによって満たされ無効とされた。司法的律法は政治的統一体としてのイスラエルの終わりと共に無効とされた、と告白しております。ですから、ここに記されている法が、私たちにそのまま有効であるわけではありません。しかし、司法的律法に秘められている神様の御心について、私たちは学ぶ必要があるのです。そのことを踏まえまして、今夕は出エジプト記の21章33節から22章5節までを御一緒に学びたいと思います。

 21章33節、34節をお読みします。

 人が水溜をあけたままにしておくか、水溜めを掘って、それに蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちた場合、その水溜めの所有者はそれを償い、牛あるいはろばの所有者に銀を支払う。ただし、死んだ家畜は彼のものとなる。

 ここには、水溜めをあけたままにしておくか、それに蓋をしないでおいたために、牛あるいはろばが落ちた場合の法が記されています。ここに記されている法は、「水溜めの所有者には、水溜めに蓋をする管理義務がある」ことを前提としています。ここに記されている法は、水溜めの所有者に、「水溜めをあけたままにせずに、蓋をしなさい」ということを求めているわけです。水溜めの所有者が蓋をしないでおいたため、そこに牛あるいはろばが落ちて死んでしまった場合、その水溜の所有者はそれを償うよう命じられております。すなわち、牛あるいはろばの所有者に銀を支払って弁償したのです。「ただし、死んだ家畜は彼のものとなる」とありますように、水溜めの所有者は、死んでしまった牛あるいはろばを買い取ったのです。

 35節、36節をお読みします。

 ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する。しかし、牛に以前から突く癖のあることが分かっていながら、所有者が注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばならない。ただし、死んだ牛は彼のものとなる。

 前回学んだ21章28節には、牛が男あるいは女を突いて死なせた場合の法が記されておりましたが、ここでは、ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合の法が記されています。その場合、「生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する」ことが命じられています。牛がしたことだから責任を問われないということはありません。主は、「ある人の牛が隣人の牛を突いて死なせた場合、生きている方の牛を売って、その代金を折半し、死んだ方の牛も折半する」よう定められたのです。そのように、「ある人」にも「隣人」にも不公平が生じないようにされたのです。牛がしたことでありますから、これは人間が制御できない事故とも言えるわけです。その場合は、お互いに痛みを分け合うということであります。しかし、牛に以前から突く癖があることが分かっていながら、注意を怠った場合は、必ず、その牛の代償として牛で償わねばなりませんでした。このところを新改訳訳聖書は、「その人は必ず牛は牛で償わねばならない」と訳しています。23節以下に、「命には命、目には目、歯には歯、…打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」とありましたが、「牛には牛をもって償わねばならない」のです。牛の代償として羊で償ってはならない。牛には牛で償わねばならないのです。「ただし、死んだ牛は彼のもととなる」とありますから、生きている牛と死んだ牛とを交換したとも言えるわけです。

 37節と22章2節後半から3節までをお読みします。

 人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。

 新共同訳聖書は節が入り組んでおりますが、これは新共同訳聖書の理解によるものであります。今、新共同訳聖書からお話しておりますので、このままお話したいと思います。主は、十の言葉の第八の言葉で、「盗んではならない」と命じられましたが、ここでは、人が牛あるいは羊を盗んだ場合の法が記されています。これまで、他人の財産に損害を与えた場合はその損害を償うことが命じられておりました。損害を与えたものと相当の金額、あるいは同じものによって償うことが命じられていたわけです。しかし、盗んだ場合は、それを数倍にして償わねばなりませんでした。そこには、盗みに対する罰が含まれているのです。主は、「人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない」と命じておられます。牛を盗んだ場合は五倍の償い、羊を盗んだ場合は四倍の償いが求められたのです。牛と羊で倍率が違うのは、「牛は一年に一回、一頭だけを出産するのに対して、羊は年に数回、数頭を出産するため、牛の方が貴重であったため」と言われています(岩波訳参照)。牛は羊よりも大きく、労働力ともなるので財産価値が高かったのです。話が脇に逸れるかも知れませんが、ルカによる福音書の19章に、徴税人のザアカイが「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったことが記されています(ルカ19:8)。ザアカイは、「羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない」という掟を思い起こしていたのです。

 3節に、「もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない」とあります。屠るか、売るかしたならば、牛なら五倍、羊なら四倍にして償わねばなりませんでしたが、手もとで生きたまま見つかった場合は、牛であれ、羊であれ、二倍にして償うよう命じられています。なぜ、倍率が違うのでしょうか?ある研究者(マルチン・ノート)は、次のように説明しています。「もし泥棒が盗まれた動物をできるだけ早く屠殺したり売ったりするなら、その事が計画的な悪意を自ずと示しているという理由から、特に罰が重くなると見なされる。そうではなくて盗まれたものをまだ泥棒が所有しているのが見つかったのであれば、罰は緩やかである」。盗んだ家畜をすぐに屠るか、売るかした場合は、計画的と思われるから厳しく罰せられる。しかし、盗んだ家畜が手もとにある場合は、計画的とは言えないから緩やかに罰せられると言うのです。現代でも判決を下す際に、その犯罪が衝動的になされたのか、それとも計画的になされたのかが問題とされますが、主は盗みが計画的になされたか否かによって、罰の重さを変えておられるのです。

 22章2節後半に、「彼は必ず償わねばならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない」と記されています。隣人の財産に損害を与えた場合、それが水溜めの蓋をしなかったからにせよ、牛が突いて殺してしまったからにせよ、あるいは盗みにせよ、必ず償わねばならないのであります。それは、神様が個人に財産を与え、その所有権を守られるお方であるからです。「お金がないから償えません」と言い逃れることはできません。何も持っていない場合は、自分を奴隷として身売りしてでも償わねばならないのです。厳しいなぁと思われるかも知れませんが、ここで私たちが心を向けたいことは、イスラエルにおいて、盗みによって身体的な刑罰をくだされることはなかったということです。盗みを働いた手を切断されたり、命を取られることはなかったのです。人の財産を盗んだ場合、それを何倍かにして償うこと、それが盗みに対する刑罰であったのです。そして、そのような罰を定められたのは、イスラエルの人々が「盗んではならない」という掟を守るためであるのです。

 1節から2節前半までをお読みします。

 もし、盗人が壁に穴をあけて入るところを見つけられ、打たれて死んだ場合、殺した人に血を流した罪はない。しかし、太陽が昇っているならば、殺した人に血を流した責任がある。

 イスラエルの家の壁は土や粘土でできており、簡単に穴を開けることができたと言われています。盗人が壁に穴を開けているところを見つけて、殺してしまった場合、それが夜であるならば、罪に問われませんでした。しかし、昼であるならば、殺した人に血を流した責任が問われたのです。夜においては正当防衛と見なされることも、昼においては過剰防衛とされ、血を流した責任が問われたのです。盗人であっても、昼間であれば、「人を打って死なせ者は必ず死刑に処せられる」という法が適用されたのです。ここでは盗人の命が保護されているとも言えるのです。

 4節、5節をお読みします。

 人が畑あるいはぶどう畑で家畜に草を食べさせるとき、自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせるならば、自分の畑とぶどう畑の最上の産物をもって償わねばならない。

 火が出て、茨に燃え移り、麦束、立ち穂、あるいは畑のものを焼いた場合、火を出した者が必ず償わねばならない。

 これも自分の不注意によって、隣人の財産に損害を与えた場合の法であります。「家畜がしたことだから知りません」とは言えません。家畜の所有者は、その家畜が食い荒らした畑やぶどう畑の収穫の償いとして、最上の産物をもって償わねばならないのです。そのようなことがないように、自分の家畜を放って、他人の畑やぶどう畑を食い荒らさないようにと言いたいわけです。

 また、不注意から出火して、それが他人の財産、茨や麦束、立ち穂や畑のものを焼いた場合も、火を出した者が必ず償わねばなりませんでした。ここでも、そのようなことがないように、火の管理を気をつけなさいと言いたいわけです。

 「隣人にもたらした損害は償わねばならない」。このことは、現代社会においても同じであります。それゆえ、私たちは損害保険に入っているわけです。現代の私たちは、自分を奴隷として売ることはできないのですから、積極的に保険という制度を用いるべきであると思います。保険によって、私たちは隣人にもたらした損害を償い、また自分も破産しなくて済むのです。そのような意味で保険という制度は、神様の一般恩恵であるとも言えるのです。

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