身体の傷害 2016年10月09日(日曜 夕方の礼拝)
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身体の傷害
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 21章18節~32節
聖書の言葉
21:18 人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、
21:19 もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。
21:20 人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。21:21 ただし、一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。
21:22 人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。
21:23 もし、その他の損傷があるならば、命には命、
21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、
21:25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
21:26 人が自分の男奴隷あるいは女奴隷の目を打って、目がつぶれた場合、その目の償いとして、その者を自由にして去らせねばならない。
21:27 もし、自分の男奴隷あるいは女奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由に去らせねばならない。
21:28 牛が男あるいは女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺されねばならない。また、その肉は食べてはならない。しかし、その牛の所有者に罪はない。
21:29 ただし、もし、その牛に以前から突く癖があり、所有者に警告がなされていたのに、彼がその警告を守らず、男あるいは女を死なせた場合は、牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる。
21:30 もし、賠償金が要求された場合には、自分の命の代償として、要求されたとおりに支払わねばならない。
21:31 男の子あるいは女の子を突いた場合も、この規定に準じて処理されねばならない。
21:32 もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されねばならない。出エジプト記 21章18節~32節
メッセージ
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出エジプト記20章22節から23章33節までには、主がモーセを通してイスラエルに示された法が記されております。この法は、24章7節から「契約の書」と呼ばれております。24章には、主とイスラエルが契約を締結する場面が記されていますが、そのとき、モーセは「契約の書」を書き記し、民に読んで聞かせたのでありました。そして、イスラエルの民は、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言ったのです。
今夕の御言葉は、「身体の傷害(きずつけ、そこなうこと)」について主がイスラエルに示された法であります。私たち改革派教会が信仰規準として採用しているウェストミンスター信仰告白は、その第19章で「律法について」告白しています。ウェストミンスター信仰告白は、律法を道徳律法、儀式律法、司法的律法と大きく三つに区分しております。そして、道徳律法はいつまでも有効である。儀式律法はイエス・キリストにおいて満たされ、無効とされた。司法的律法は政治的統一体としてのイスラエルに与えられたものであり、その終わりと共に無効とされたと告白しています。私たちがこれから学ぼうとしている「身体の傷害」についての法は、政治的統一体としてのイスラエル共同体に与えられた司法的律法でありまして、ここに記されていることがそのまま私たちに当てはまるわけではありません。私たちは日本国民として、日本国の法律に従って生きるべきであります。けれども、私たちは、その法に秘められている神様の御心について学び必要があるのです。そのようなことを踏まえまして、「身体の傷害」についての法をご一緒に学びたいと思います。
18節から21節までをお読みします。
人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合は、彼が死なないで、床に伏しても、もし、回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、彼を打った者は罰を免れる。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばならない。
人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合は、必ず罰せられる。ただし、一両日でも生きていた場合は、罰せられない。それは自分の財産だからである。
「人々が争って」とありますが、ここでの「争い」はいわゆる「けんか」のことであります。けんかは通常、言い争いから始まるのでありますが、熱を帯びると手が出ることがあります。「一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合」とはそのような手が出た場合を言っているのでしょう。人々が争って、一人が他の一人を石、もしくはこぶしで打った場合、彼が死んでしまえば、12節の法、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」によって殺されます。しかし、彼が死なないで、床に伏しても、もし回復して、杖を頼りに外を歩き回ることができるようになるならば、殺されることはありませんでした。ただし、仕事を休んだ分を補償し、完全に治療させねばなりませんでした。自分が手を上げたことによって床に伏した人が、完全に回復するまで、元気であったならば得ることができたであろう収入を補い償うことが命じられたのです。
20節、21節は人が自分の男奴隷あるいは女奴隷を棒で打ち、その場で死なせた場合のことが記されています。主人が奴隷を棒で打つことは認められておりました。棒は服従させるための道具であったのです。しかし、主人が奴隷を棒で打って、その場で死なせた場合は、必ず罰せられると記されています。「罰せられる」とは、「復讐される」ということで、親近者によって殺されるか、共同体によって殺されることを意味しております。奴隷であっても、その場で死なせた場合は、12節の、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」という法が適用されるのです。奴隷であっても、その場で死んだ場合は、一人の人として扱われるのです。これは、奴隷を守るための法であります。イスラエルにおいて主人は奴隷の生殺与奪の権を持っておりません。奴隷を棒で打つことは認められていても、その場で死なせた場合は、自分も殺されねばならなかったのです。ただし、一日また二日生きていた場合は、罰せられませんでした。それは主人が奴隷を棒で打ったことによって奴隷が死んだと、はっきり言うことができなかったからだと思います。「それは自分の財産だからである」とありますが、ここでは奴隷は主人の財産と見なされています。それゆえ、主人は死刑に処せられるようなことはなかったのです。
22節から27節までをお読みします。
人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
人が自分の男奴隷あるいは女奴隷の目を打って、目がつぶれた場合、その目の償いとして、その者を自由にして去らせねばならない。もし、自分の男奴隷あるいは女奴隷の歯を折った場合、その歯の償いとして、その者を自由に去らせねばならない。
23節から25節に記されている「命には命、目には目、歯には歯、・・・・・・打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」という法は、同害報復法と呼ばれるものであります。これは報復がエスカレートしないための法であります。目をつぶされた者は、相手の目をつぶすことでよしとしなければならない。目をつぶされた報復として命までとってはならないという法であります(創世4:23参照)。また、他人の目をつぶした者は、自分の目をつぶされるわけですから、他人を自分のように重んじることを教える法でもあるわけです。この同害報復法の前に、妊娠している女を打ち、流産させた場合のことが記されています。その場合は、賠償を支払うことが命じられています。これは、同害報復法が成り立たないケースであるからです。「流産には流産」というわけにはいかない。なぜなら、妊娠している人を打ったのが男である場合もあるし、また女であっても、その時に妊娠しているとは限らないからです。それで、妊娠している女を打って、流産させた場合は、その女の夫が要求する賠償を支払うよう命じられているのです。この賠償の金額は夫が見積もることができたのですが、第三者である仲裁者の裁定に従って支払わねばなりませんでした。被害者には仲裁者が妥当とする金額が支払われたのです。
26節、27節は、人が自分の男奴隷あるいは女奴隷に損傷を与えた場合が記されています。人が奴隷の目を打ってつぶした場合、主人の目がつぶされるようなことはありませんでした。しかし、目の償いとして、その者を自由にして去らせねばなりませんでした。これも奴隷を保護するための法であります。目をつぶす、あるいは歯を折るという暴力を振るう主人の手から奴隷は解放されたのです。
28節から32節までをお読みします。
牛が男あるいは女を突いて死なせた場合、その牛は必ず石で打ち殺さねばならない。また、その肉は食べてはならない。しかし、その牛の所有者に罪はない。ただし、もし、その牛に以前から突く癖があり、所有者に警告がなされていたのに、彼がその警告を守らず、男あるいは女を死なせた場合は、牛は石で打ち殺され、所有者もまた死刑に処せられる。もし、賠償金が要求された場合には、自分の命の代償として、要求されたとおりに支払わねばならない。男の子あるいは女の子を突いた場合も、この規定に準じて処理されねばならない。もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合は、銀三十シェケルをその主人に支払い、その牛は石で撃ち殺さねばならない。
ある注解書に、古代イスラエルにおいて人間を殺せるような大きな動物は牛ぐらいであったと記されておりましたが、ここでは牛が人を突いて死なせた場合の法が記されています。動物であっても、人を殺した場合は、必ず石で打ち殺さねばならないと命じられています。これは、かつて神様がノアとその子孫に言われたことでもあります。創世記の9章5節、6節で、神様はこう言われておりました。「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。この御言葉どおり、神様は人間を突いて殺した牛を、石で打ち殺すよう命じられるのです。また、「その肉は食べてはならない」と命じられます。これは人間を突いて殺したからその牛を殺したのか、それとも、肉を食べるためにその牛を殺したのかが分からなくなってしまうからだと思います。人間を突いて殺した牛は、神様に対する賠償でありますから、人間はその肉を食べることを禁じられたのです。牛が人を突いて殺した場合は、その所有者は罪を負いませんでした。ただし、例外がありまして、その牛に以前から突く癖があり、そのことを警告されていた場合は、所有者もまた死刑に処せられました。これは、牛を注意深く管理することを促すための法であります。また、もし、賠償金が要求される場合には、自分の命の代償として要求されたとおりに支払わねばなりませんでした。死に至る事件において、命の贖い金が言及されているのは、旧約聖書でここだけであります。牛が突いて殺したのが男の子あるいは女の子の場合も、自分の命の代償として、要求されたどおり支払わねばなりませんでした。しかし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いて殺した場合は、主人に銀三十シェケルを支払うことが命じられておりました。銀三十シェケルは、奴隷一人の値段であります。ここには自由人と奴隷との明かな区別があります。それは古代オリエント世界において致し方ないことでありました。しかし、ここで私たちが注目したいことは、奴隷を殺した牛も同じように石で打ち殺さねばならないと命じられていることです。なぜなら、奴隷であっても、神にかたどって造られた人間であるからです。神様に対する贖いとしては、自由人であっても、奴隷であっても違いはないのです。神様は人の顔を偏り見ることのないお方、依怙贔屓をされないお方であるのです。