死に値する罪 2016年9月25日(日曜 夕方の礼拝)
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死に値する罪
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 21章12節~17節
聖書の言葉
21:12 人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。
21:13 ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。
21:14 しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。
21:15 自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。
21:16 人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。
21:17 自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。出エジプト記 21章12節~17節
メッセージ
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主はモーセを用いて、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から解放されました。そして、雲の柱、火の柱をもって荒れ野を導き、シナイ山において、イスラエルの人々と契約を結び、御自分の民とされることを良しとされたのです。私たちは、今夕、主がイスラエルの民に示された法について学びたいと思います(出エジプト21:1参照)。
主なる神様がイスラエルの人々に示された法についてどのように理解すればよいのか。そのことを初めにウェストミンスター信仰告白から確認しておきたいと思います。私たち改革派教会は、信仰規準として「ウェストミンスター信仰基準」を採用しておりますが、その信仰告白の第19章に「神の律法について」記されています。ウェストミンスター信仰告白は、神の律法を、道徳律法と儀式律法と司法的律法の大きく3つに区分しています。そして、道徳律法は永久に義務づけられているが、儀式律法はイエス・キリストにおいて満たされて廃止され、司法的律法は政治的統一体であるイスラエルの終わりと共に無効とされたと考えるのです。ウェストミンスター信仰告白の第19章4節は次のように告白しています。「政治的統一体としてのイスラエルの民に、神はまた、さまざまな司法的律法を与えられたが、それらは、その民の国家とともに無効となった。そこで、それらは今、それに含まれている一般的公正さが要求する以上のことを他のいかなる民にも義務づけることはない」(村川満・袴田康裕訳)。今夕学ぼうとしております「死に値する罪」は、道徳律法、儀式律法、司法的律法の区分から言えば、司法的律法にあたります。ですから、「政治的統一体としてのイスラエル」の一員ではない私たちにとっては、無効であるのです。私たちは死に値する罪を今夕の御言葉によって定められているのではなく、日本国民として、日本国の法律によって定められているわけです。では、私たちが司法的律法と区分される今夕の御言葉を学ぶ意味が全くないかと言えば、そうではありません。文字通りの掟として受け入れる必要がなくとも、そこには一般的公正さが含まれているからです。司法的律法に含まれている一般的公正さに対して、私たちは従う義務を負っているからです。例えば、今夕の御言葉の12節には、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」と記されています。「死刑」は最も重い刑罰でありますから、この御言葉は、人を殺すことが最も重い罪であることを教えています。このことは、現代の私たちにも通じる一般的公正さであります。司法的律法には、古代オリエントのイスラエルの人々に与えられたという時代性や地域性がありますけれども、私たちは、その法に含まれている一般的公正さとも言える神様の御心を学びたいと願います。
12節から14節までをお読みします。
人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。
神様は十の言葉の第六の言葉で、「殺してはならない」と言われておりました。今夕の御言葉には、「殺してはならない」という掟を破った人を、どう扱えばよいかが記されています。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」。これが神様がイスラエルの人々に示された法でありました。これは、「殺されたくなかったなら、人を殺してはならない」ということであります。神様はイスラエルの人々が人を殺すことがないように、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」という法を示されたのです。この法の根拠については、創世記の9章5節、6節でこう記されておりました。「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。人は神にかたどって造られたゆえに、人を殺すことは、その人の神のかたちを破壊することであるのです。それはすべての命の造り主であり、所有者である神様に背く反逆行為であるのです。
「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」。これが原則でありますが、故意ではなく偶然に人を死なせてしまった場合には、逃れの場所が用意されておりました。「偶然に、彼の手に神が渡された場合は」とありますけれども、これは偶然も神様の御手のうちにあるという信仰を表す言葉です。この逃れの場所については、民数記の35章と申命記の19章に詳しく記されています。ここでは申命記19章1節から13節までをお読みします。旧約の310ページです。
あなたの神、主が国々の民を絶やされ、あなたの神、主があなたにその土地を与えられ、あなたがそれを得て、彼らの町々、家々に住むようになったならば、あなたの神、主があなたに与えて得させられる土地のうちに三つの町を選び分けなさい。そして道のりを測り、あなたの神、主があなたに受け継がせられる領土を三つに分け、人を殺した者がだれでもそこに逃げられるようにしなさい。意図してではなく、積年の恨みによるのでもないのに、隣人を殺してしまった者が逃れて生き延びうるのは、次のような場合である。すなわち、隣人と柴刈りに森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合である。彼はこれらの町の一つに逃れて生き延びることができる。復讐する者が激昂して人を殺した者を追跡し、道のりが遠すぎるために、追いついて彼を打ち殺すことはあってはならない。その人は、積年の恨みによって殺されたのではないから、殺される理由はない。わたしはそれゆえ、三つの町を選び分けるようにあなたに命じる。
わたしが、今日、あなたに命じるこの戒めをすべて忠実に守って、あなたの神、主を愛し、生涯その道に従って歩むならば、あなたの神、主は、先祖に誓われたようにあなたの領土を広げ、先祖に与えると約束された土地をことごとくあなたに与えられる。そのときには、この三つの町のほかに、更に三つの町を加えなさい。あなたの神、主があなたの嗣業として与えられる土地に罪なき者の血が流され、その責任があなたに及ぶことがないようにするためである。しかし、もしある者が隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかって打ち殺し、これらの町の一つに逃れたならば、その犯人を出した町の長老たちは、人を遣わして彼を捕らえ、復讐する者の手に引き渡して殺さねばならない。彼に憐れみをかけてはならない。罪なき者の血を流した罪をイスラエルから除き去れば、あなたは幸いを得る。
この「逃れの町」の規定を読むとき、神様が人を殺した行為だけではなく、その動機、心の中を御覧になることがよく分かります。神様は積年の恨みによるのでなく、偶然に人を殺してしまった者を「罪なき者」とさえ言われるのです。そして、「罪なき者」を復讐者の手から守るために、神様は逃れの町を選び分けるよう命じられるのであります。神様の摂理の御業は、偶然を排除するものではありませんが、その偶然によって人を殺してしまった場合には、神様は逃れの町を備えることによって、その責任を取られたのです。しかし、隣人を憎み、待ち伏せして襲いかかって打ち殺した人が逃れの町に逃げ込んだ場合は、長老たちがその人を復讐する者の手に引き渡し、殺させねばならないと定められていました。たとえ、主の祭壇のもとに身を寄せようとも、故意に隣人を殺した人は連れ出して処刑されねばならなかったのです。
余談かも知れませんが、私は、創世記4章に記されている「カインとアベル」のお話を思い出しました。カインは弟のアベルを殺してしまうのですが、死刑にされず、地上をさすらう者となります。神様はカインにしるしを付けて、復讐者の手からもカインを守られたのです。このような神様のカインに対するお取り扱いを見ますと、カインは故意にアベルを殺したのではなかったようです。と言いますのも、これまで人(生き物)が死ぬことをカインは見たことがなかったからです。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住み町を建てるのですが、その町は、カインにとっての逃れの町であったと言えるのです。
では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の128ページです。
15節から17節までをお読みします。
自分の父あるいは母を打つ者は、必ず死刑に処せられる。人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる。自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。
15節と17節は、父と母についての法であります。十の言葉の第五の言葉は、「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」でありました。父と母を敬わずに、父と母に手を上げるもの、また、父と母を呪う者は必ず死刑に処せられると言うのです。これは父と母が神様の代理人として立てられた権威であるからです。私たちはこの掟から古代イスラエルにおいて両親の権威が非常に高かったことを教えられます。ちなみに、紀元前1800年頃、古代バビロンの王ハンムラビが太陽神シャマシュから授けられたとするハンムラビ法典では、親を打った子供の手を切り落とすように、また、父と母を呪った者を死刑にするように定められておりました。古代のイスラエルの人々に与えられた法を、その時代にあった他の法と比較することは、歴史的な文書として読み解く上で有益であると思います。ともかく、神様は御自分の代理者である父と母に息子が手を上げることがないように、また父と母を呪うことがないように強く望まれたのです。
16節は、誘拐を禁じる掟であります。十の言葉の第八の言葉に、「盗んではならない」とありますが、これは人を盗む、人を誘拐してはならないという掟であると読むことができます。人を誘拐することは、その人を家族の交わりから引き離し、自由を奪う大きな罪でありました。それゆえ、主は「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」と言われるのです。古代オリエントにおいて、誘拐は頻繁に行われておりましたけれども、主はイスラエルの人々に誘拐を死に値する罪として厳しく禁じられるのです。
私たちは「必ず死刑に処せられる」という言葉を通して、神様がどのような罪を重い罪と見なされているのかを心に刻みたいと思います。また、私たちがそのような重い罪を、イエス・キリストの贖いによって赦されたことを心に刻みたいと願います。