奴隷について 2016年9月18日(日曜 夕方の礼拝)

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奴隷について

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 21章1節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

21:1 以下は、あなたが彼らに示すべき法である。
21:2 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。
21:3 もし、彼が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることができる。
21:4 もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。
21:5 もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、
21:6 主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。
21:7 人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。
21:8 もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。彼は彼女を裏切ったのだから、外国人に売る権利はない。
21:9 もし、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。
21:10 もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。
21:11 もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。出エジプト記 21章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 出エジプト記の20章22節から23章33節までは、「契約の書」と呼ばれております。24章に、モーセが主の言葉をすべて書き記し、民に読み聞かせたことが記されておりますが、その書き記したものが「契約の書」と呼ばれているからです。

 前回は、神様が御臨在され、その民が礼拝する祭壇について学んだのでありますが、今夕は奴隷についての法を学びたいと思います。

 21章1節から6節までをお読みします。

 以下は、あなたが彼らに示すべき法である。あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。もし、彼が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることができる。もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。

 ここには、同胞のヘブライ人の男奴隷についての法が記されています。1節に、「以下は、あなたが彼らに示すべき法である」とありますが、ここで「法」と訳されている言葉は、「ミシュパート」という言葉で、律法、教えと訳される「トーラー」とは別の言葉であります。「以下は、あなたが彼らに示す方である」と、これ以降、さまざまな法が記されるわけですが、「奴隷について」の法が最初に記されていることは、意味深いことだと思います。奴隷は、当時の社会において最も弱い立場にありましたけれども、神様はその奴隷に先ず心を配られるのです。また、イスラエルは神様によって奴隷の家エジプトから導き出された民でありましたから、奴隷についての法が最初に示されたことは、ふさわしいことであったと言えるかも知れません。私たちが生きている現代の日本社会において奴隷そのものの存在が否定されています。ですから、私たちが紀元前13世紀のイスラエルに与えられた法を文字通り受け入れる必要はありませんし、受け入れてはなりません。ここに記されている奴隷についての法は、古代オリエント社会に生きるイスラエルの民に与えられた法であるのです。ウェストミンスター信仰告白は、第19章で「律法について」告白していますが、そこでは、律法を道徳律法、儀式律法、司法的律法の三つに区分しまして、道徳律法のみが有効であると告白しています。司法的律法とは、国家としてのイスラエルに与えられた律法であり、今夕の奴隷についての法は、この司法律法に当たると言えるのです。司法的律法は国家としてのイスラエルに与えられた律法ですから、国家としてのイスラエルの終わりと共に無効とされました。それでは、私たちは司法的律法を学ぶ必要がないかと言えば、そうではありません。司法的律法の根源にある神様の御心については学ぶ必要があるのです。また、司法的律法は、新約聖書を正しく理解するためにも必要であります。なぜなら、イエス様がお生まれになったイスラエルにおいては司法的律法が文字通り有効であったからです。そのようなことを踏まえて、私たちは、奴隷についての法を学びたいと思います。

 古代オリエント社会において、奴隷は当然のように考えられておりました。その点は、イスラエルにおいても変わりがありません。神様は「奴隷を買ってはいけない」とは言われません。奴隷の存在を認めたうえで、その奴隷を擁護するための法を示されるのです。「あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる」。「ヘブライ人」とは、同胞のイスラエル人のことであります。イスラエル人の中で、貧しさのゆえに、自分を奴隷として売ることがありました。古代の社会において、生活保護はありませんから、食べることができなければ、自分を奴隷として売ったのです(創世47:13~26参照)。奴隷と聞きますと、一生涯束縛されてこき使われるというイメージがありますが、ヘブライ人である奴隷はそうではありませんでした。ヘブライ人である男奴隷は、六年間奴隷として働き、七年目に無償で自由の身となることができたのです。また、ここには記されておりませんが、ヘブライ人の奴隷は、六日の間働いて、七日目には仕事を休み、主の安息にあずかることができたのです。

 3節、4節、5節に、「もし」と記されていますが、ここに記されているのは、「もし何々の場合は、何々すべきである」といった決擬法であります。十の言葉である十戒は、「何々せよ」、「何々してはならない」といった断言法で記されておりましたが、法は、「もし、何々の場合は、何々すべし」といった決擬法で記されているのです。ここに記されているのは様々なケースの判例集であるとも言えるのです。ヘブライ人である男奴隷は、七年目には無償で自由の身となることができるのですが、その場合には、いくつかのケースが考えられます。この場合、共通している原則は、「来たときの状態で去る」ということです。独身で来た場合は、独身で去る。妻帯者として来た場合は、妻帯者として去る。また、独身で来て、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に子供を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去る。これは無情に思えるかも知れませんが、主人が彼に与えた妻は、主人の奴隷であったのでしょう。また、母親が小さな子供を引き取る方が現実的であったとも言えます。ともかく、来た状態で去るのが原則でありました。しかし、それは原則でありまして、奴隷が「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、生涯、主人に奴隷として仕えることができました。その場合、「主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通す」と記されています。神様のもとに連れて行くのは、神様の御前で、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言させるためでありましょう。実際、解放されても仕事がなければ、また、身売りをして奴隷とならなければならないのですから、主人がいい人で、妻や子供と離れたくないならば、このような選択をすることは、その人にとっても益であったわけです。「耳を錐で刺し通す」とありますが、これは耳たぶに穴を開けることを意味します。耳は「聞く」器官であり、耳たぶを錐で刺し通すことは、主人に生涯聞き従うことを表していると考えられております。このように奴隷であっても、家庭を築くことができたのです。

 7節から11節までをお読みします。

 人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。彼は彼女を裏切ったのだから、外国人に売る権利はない。もし、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。

 ここには、ヘブライ人である女奴隷についての法が記されています。古代のオリエント社会において、貧しさのゆえに、自分の娘を女奴隷として売ることがありました。ここでは、女奴隷は男奴隷が去るときと同じように去ることはできないと記されています。この法は、申命記では改定されております。申命記の15章12節から15節までをお読みします。旧約の305ページです。

 同胞のヘブライ人の男あるいは女が、あなたのところに売られて来て、六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない。自由の身としてあなたのもとを去らせるときは、何も持たせずに去らせてはならない。あなたの羊の群れと麦打ち場と酒ぶねから惜しみなく贈り物を与えなさい。それはあなたの神、主が祝福されたものだから、彼に与えなさい。エジプトの国で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が救い出されたことを思い起こしなさい。それゆえ、わたしは今日、このことを命じるのである。

 出エジプト記では、七年目に自由になることができるのは男奴隷だけでした。しかし、申命記では、男奴隷だけではなく、女奴隷も七年目に自由になることができると記されています。このようにイスラエルの法は、時代によって改定されたのです。また、ここでは、去るときに惜しみなく贈り物を与えるようにとも記されています。おそらく、これは、自由の身となった奴隷が再び身売りして奴隷となることを予防するためであったと思います。かつて主がイスラエルを奴隷の状態から導き出されたとき、イスラエルはエジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めて、それを分捕り物としました(出エジプト12:35,36参照)。そのことを思い起こして、奴隷を去らせるときには惜しみなく贈り物を与えなさいと命じられているのです。

 では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の128ページです。

 女奴隷は男奴隷のように七年目に無償で去ることができないのですが、これは、主人が娘を自分の妻として買うことが考えられているからであります。女奴隷として売られるのは娘、少女でありまして、主人は自分の妻とするために少女を奴隷として買ったのです。ですから、8節にこう記されているわけです。「もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。彼は彼女を裏切ったのだから、外国人に売る権利はない」。この定めは、主人が女奴隷を自分の妻とするために買ったことを前提にしています。自分の妻とするために女奴隷を買ったにもかかわらず、気に入らなくなった場合は、彼女を売った親が、おそらく買値よりも安い値段で買い戻したのです。決して、気に入らなくなったからと言って、外国人に売ってはならないのです。また、自分の息子の妻とする目的で、女奴隷を買うこともありました。その場合は、「自分の娘のように扱わなければならない」と定められています。それは言い換えれば、性的な関係を持ってはならないということです。また、もし、主人が自分の妻とする目的で女奴隷を買い、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならないことが定められています。古代オリエント社会は、一夫多妻を認めておりましたから、このような事例もあり得たわけです。「食事」、「衣服」と並んで、「夫婦の交わり」が上げられていますが、「夫婦の交わりを減らしてはならない」とは、「女奴隷が子供を授かる機会を奪ってはならない」ということであります。このような規定によって、主は、女奴隷を妻として、また母親として保護されるのです。もし、この三つの事柄を主人が実行しない場合は、女奴隷は金を払わず無償で自由の身となることができました。このことからも私たちは、女奴隷が男奴隷と同じように去ることができないのは、主人の妻、あるいは主人の息子の妻として買われたためであったことが分かるのです。

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