あなたに臨み、祝福する神 2016年9月11日(日曜 夕方の礼拝)

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あなたに臨み、祝福する神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章18節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:18 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、
20:19 モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」
20:20 モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」
20:21 民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。
20:22 主はモーセに言われた。イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。
20:23 あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。
20:24 あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。
20:25 しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。
20:26 あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。
出エジプト記 20章18節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、出エジプト記20章18節から26節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 18節から21節までをお読みします。

 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れを置いて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。

 ここには、神様から直接、十の言葉を告げられたイスラエルの民の反応が記されています。神様の御声は雷鳴にも似た恐ろしいものであったのです。神様はシナイ山に降られたわけですが、その情景は、嵐が吹き荒れ、火山が噴火しているような恐ろしいものであったのです。イスラエルの民は、神様の御声を聞くという貴重な体験をしたわけですが、彼らには耐えられませんでした。イスラエルの民にとって神様の臨在に接し、神様の御声を聞くことは、死を予感させる恐ろしいことであったのです。それゆえ、イスラエルの民は、神様が自分たちに直接語りかけるのではなくて、モーセが自分たちに語りかけるように願うのです。そのような民にモーセはこう言いました。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」。神様は、嵐が吹き荒れ、火山が噴火するような仕方で、御臨在されました。これは神様にある意図があってのことであります。列王記上の19章を見ますと、ホレブに向かった預言者エリヤに主が現れてくださったことが記されています。そこには、「主は激しい風の中にも、地震の中にも、火の中にもおられず、静かにささやく声が聞こえた」と記されています。神様がシナイ山において、イスラエルの人々に御自身を現されたとき、静かにささやく声として御自身を現すこともできたのです。しかし、神様はそのようにはされませんでした。雷鳴をもって語り、火と煙の中に御臨在されたのです。それは、イスラエルの民が神様を畏れて、神様の掟を守り、罪を犯さないためであったのです。

 モーセはイスラエルの民の願いを受けて、神様のおられる密雲に近づいて行きました。こうして、モーセは、神様とイスラエルの人々の間を取り持つ仲介者となるのです。

 22節から26節までをお読みします。

 主はモーセに言われた。イスラエルの人々にこう言いなさい。あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。あなたたちはわたしについて、何も作ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない。あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。しかし、もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである。あなたは、階段を用いて祭壇に登ってはならない。あなたの隠し所があらわにならないためである。

 小見出しに「契約の書」とありますが、20章22節から23章33節までを「契約の書」と言います。この「契約の書」という名称は、24章7節に由来するものです。24章は、「契約の締結」について記しておりますが、その4節にモーセが「主の言葉をすべて書き記し」たこと、7節にモーセが「契約の書を取り、民に読んで聞かせた」とことが記されています。モーセが主の言葉を書き記し、読んで聞かせた契約の書の内容が、20章22節から23章33節までであると考えられているのです。

 契約の書の最初に、主がモーセに語られたこと、それはイスラエルの民が御自分をどのように礼拝すべきであるかということでありました。主は、モーセを介してイスラエルの人々に、「あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。あなたたちはわたしについて、何も造ってはならない。銀の神々も金の神々も造ってはならない」と言われるのです。このことは、十の言葉の第二の言葉で言われていたことであります。20章4節で主はこう言われておりました。「あなたはいかなる像を造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」。このように神様は第二の言葉によって、像を造ることを禁じておられました。しかし、今夕の御言葉では、その理由が記されています。それは神様が天におられ、地にある何ものによっても、たとえ、金や銀といった貴金属をもっても表すことができないお方であるからです。ところで、なぜ、人は神々の像を造るのでしょうか?それは、その像によって神々の臨在を確保したいと考えるからです。しかし、イスラエルをエジプトから導き出された主は、天におられるお方であるのです。

 また、主はイスラエルに土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊や牛をささげるように命じられました。24節の途中に、「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」とありますが、これは誤解を招く翻訳であります。元の言葉を直訳しますと、「私が私の名を唱えさせるすべての場所で」と記されています。祭壇を築いて動物犠牲をささげる場所は、人間が恣意的に決めるのではなくて、神様が御自分の名を呼ばせることを定められた場所であるのです。人間が「祭壇のある聖所をどこにでも建設できるわけではなく、神が自分の『名を呼ぶ』、すなわち祭儀的に神に呼びかけるきっかけを与えた所に限られる」のです(マルチン・ノート)。その具体例は、創世記で言えば、「ベエル・シェバ」であります。創世記の26章23節から25節にこう記されています。旧約の41ページです。

 イサクは更に、ベエル・シェバに上った。その夜、主が現れて言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」

 イサクは、そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。

 イサクは主が現れてくださったゆえに、ベエル・シェバに祭壇を築き、主の名を呼び礼拝しました。このように祭壇を築き、主の名を呼ぶ場所は、主のイニシアティブ(主導権)によって決められることであるのです。

 では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の127ページです。

 主はモーセを介して、イスラエルの民に、土の祭壇を造るように、そして、そのうえで焼き尽くす献げ物や和解の献げ物として、羊や牛をささげるように命じられました。しかし、このことは、新約時代に生きる私たちには、もはや必要のないことであります。なぜなら、神様は私たちの罪を贖ういけにえとして、御子イエス・キリストを十字架のうえでささげてくださったからです。それゆえ、私たちは神様を礼拝するために、祭壇を築くことも、動物をいけにえとしてささげることも必要ないのです。祭壇を造り、動物をいけにえとしてささげなさいという神様の掟は、イエス・キリストにおいて満たされ、廃止されているのです(ウェストミンスター信仰告白19章3節参照)。そればかりか、私たちは、神様が定められた場所に限られることなく、どこにおいても、イエス・キリストの御名によって神様を礼拝し、神様の祝福を受けることができるのです。なぜなら、主イエス・キリストは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と約束しておられるからです(マタイ18:20)。神様はイエス・キリストの名によって集まる私たちのただ中に御臨在くださり、私たちを祝福してくださるのです。神様が私たちに求めておられること、それは、イエス・キリストの御名によって私たちが集まり、霊と真理からなるまことの礼拝をささげることであるのです。

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