偽証してはならない 2016年7月17日(日曜 夕方の礼拝)

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偽証してはならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章16節

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20:16 隣人に関して偽証してはならない。出エジプト記 20章16節

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 夕べの礼拝では、出エジプト記20章に記されている十の言葉を一つずつ学んでおります。前回は、第八の言葉、「盗んではならない」について学びましたので、今夕は、第九の言葉、「隣人に関して偽証してはならない」について学びたいと思います。

 「あなたは隣人に関して偽証してはならない」。「偽証」とは「偽りの証言」のことであり、ここで言われていることは、裁判において、隣人に関して偽りの証言をしてはならないということであります。なぜなら、裁判は神に属することであるからです(申命1:17参照)。主の民であるイスラエルの中で、主の掟に従って裁判が行われるとき、そこで求められることは真実な証言がなされ、正しい裁きが行われることでありました。例えば、レビ記の19章15節、16節にこう記されています。旧約の192ページです。

 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたたちは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷したり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。

 ここでは、「民の間で中傷したり」することも禁じられています。隣人を中傷することは、隣人の信頼と名誉を傷つける行為であるからです。また、ここでは、隣人の生命にかかわる偽証が特に禁じられています。といいますのも、イスラエルでは、二人または三人の一致した証言によって死刑が行われていたからです(申命17:6参照)。死刑ばかりではなく、あらゆる刑罰が二人または三人の証言によって行われていたのです。申命記19章15節から21節までをお読みします。旧約311ページです。

 いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不正な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。ほかの者たちは聞いて恐れを抱き、このような悪事をあなたの中で二度と繰り返すことはないであろう。あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。

 ここには二人または三人の証言によって真実が確定されることが記されています。これは一人の偽証人によって正しい人が罪に定められることがないための工夫と言えます。また、偽証人に対する刑罰が記されていますが、これは人々が偽証をしないようにするための工夫と言えます。しかし、旧約聖書を読みますと、偽証人たちによって、正しい人が死刑に処せられることがあったようです。その代表的な人物が列王記上21章に記されているナボトであります。ナボトは、二人のならず者の「ナボトは神と王とを呪った」という偽りの証言によって、石で打ち殺されてしまいました。しかもそのことを計画したのは、イスラエルの王アハブの妻のイザベルであったのです。イスラエルの王であるアハブはイザベルに唆され、主の目に悪とされることを行ったのでありました。これはイスラエルが、主の御前にどれほど堕落していたのかを表す出来事であります。イスラエルが堕落するとき、そこでは、欺きが語られ、主の裁きが曲げられるのです(ホセア4:2参照)。

 「あなたは隣人に関して偽証してはならない」。この御言葉を主イエス・キリストにあって罪の奴隷状態から贖い出され、神の民とされた私たちはどのように聞くのでしょうか?第一に言えることは、裁判において偽証してはならないということです。しかし、私たちは裁判の席に着くことはあまりありません。ですから、私たちはこの掟を、日常生活において偽りを語ること、嘘を言うことを禁じる掟として理解したいと思います。真実である神様の民として、私たちは隣人に関して偽りを語ってはならない。真実を語らねばならないのです。これは難しいことであります。といいますのも、私たちは隣人に関して偽りをしばしば語ってしまうからです。私たちは自分の知っている範囲のことで隣人について語ることがあります。「あの人はこう言う人ですよ」と語ることがあります。しかし、それは真実なのでしょうか?その言葉が偽りであり、その人を中傷する言葉となっていることがしばしばあるのではないでしょうか。また、私たちは隣人について根拠のないうわさ話を流すことがあります。人から聞いたことを、自分が見たかのように語ったり、自分の判断に基づいて語ったりして、隣人の信頼と名誉を傷つけることがあるのです。そのような私たちに使徒パウロはこう語っています。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」(エフェソ4:25)。また、次のようにも語っています。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」。私たちは、神にかたどって造られた新しい人を身に着けている者たちとして、隣人に対して真実を語り、人を造り上げるのに役立つ言葉を語ることが求められているのです。

 「あなたは隣人に関して偽証してはならない」。この掟を完全に守られたのは、主イエス・キリストであります。イエス様は、イスラエルの指導者たちであった律法学者やファリサイ派の人々を痛烈に非難しましたが、それはイエス様が彼らに対して真実な言葉をお語りになったためです。また、それは彼らが自分の罪に気づき、悔い改めるための言葉でもありました。福音書に記されているイエス様の律法学者たちへの非難は、悪口ではなくて、真実な証言として理解すべきものであります。また、律法学者たちに対する非難は、その指導の下にある民のためでもありました。イエス様は群衆や弟子たちが同じような過ちを犯さないように、律法学者たちの真実の姿をお語りになったのです(マタイ23章参照)。

 私たちが用いている新共同訳聖書は、「隣人に関して偽証してはならない」と翻訳していますが、新改訳聖書は、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と翻訳しています。「隣人に対して偽証してはならない」。こう訳しますと、隣人に対するあらゆる証言が問題となっていることが分かります。隣人に関する証言だけではなく、隣人に対する神様についての証言、また自分自身についての証言が問題となっているのです。自分自身について隣人に正しく証言することも難しいことでありますね。「わたしはこういう人間です」と軽々しく口にすることはできません。そのことをパウロは知っていたのでしょう。それゆえ、パウロは自分のことを誇らず、ありのままの自分を見て判断してもらいたいと願ったのであります(二コリント5:11参照)。

 自分について隣人に対して真実を語ること。このことを完全に実行してくださったのもイエス様でありました。福音書の中にイエス様が最高法院において裁きを受ける場面が記されています。マルコによる福音書14章53節から64節までをお読みします。新約の93ページです。

 人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためにイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。

 ここでは、「偽証人」が出てきますが、イエス様は偽証人たちの証言によって罪に定められたのではありません。神様の導きによって、偽証人たちの証言はことごとく食い違うのです。では、なぜ、イエス様は罪に定められたのか?それは、イエス様が御自分に対して真実をお語りになられたからです。イエス様は、「隣人に対して偽証してはならない」という掟を完全に守られるお方であるゆえに、御自分が神の御子であり、メシアであることを証言なされたのです。その証言を、大祭司たちは、神を冒涜する言葉として聞き取り、イエス様を死刑に定めたのです。しかし、神様は、イエス様を十字架の死から三日目に復活させられ、そして、御自分の右の座へとあげられることにより、イエス様の証言が真実であることを証しされたのであります。神様は、イエス様を復活させられることにより、このお方が神の御子、メシア、救い主であることを証しされたのです。そして、このことは、私たち教会を通して、神様が今も証ししておられることであります。イエス様を信じ、神の民とされた私たちは、イエス・キリストにおいて表された神の真実を証しすることが求められているのです。私たちが隣人に対して真実を語ることは、何より神の真実であるイエス・キリストを証しすることであるのです。そして、そのとき、私たちは自分が何ものであるのかをも隣人に対して証しすることができるのです。わたしはどのような人間なのだろうか?私たちは自分のことが分からなくなるときがあります。しかし、一つだけはっきりしていることがある。それは、私たちがキリスト者であるということです。私たちの内に、神が御子についてなさった証しがあるということであります(一ヨハネ5:9,10参照)。イエス・キリストの聖霊をいただいている私たちも、神様について、また自分自身について真実を語ることができる者とされているのです。

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