盗んではならない 2016年6月26日(日曜 夕方の礼拝)

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盗んではならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章15節

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20:15 盗んではならない。出エジプト記 20章15節

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 夕べの礼拝では、出エジプト記20章に記されている十の言葉について学んでおります。前回は、第七の言葉、「姦淫してはならない」について学びましたので、今夕は第八の言葉、「盗んではならない」について御一緒に学びたいと思います。

 「盗む」とは、「他人に所属するものをひそかに奪いとる」ことを意味します(『広辞苑』)。ですから、「盗んではならない」という掟は、隣人の所有権を保証する掟であるのです。私たちが所有しているものはすべて神様から与えられたもの、その管理をゆだねられたものであります。それゆえ、私たちは隣人の所有権を重んじなければならないのです。すべてのものを造り、所有しておられる神様が隣人に財産を与えて管理を委ねられたのですから、それを盗むことは神様の御心に逆らう罪であるのです。

 「盗んではならない」。この掟には、何を盗んではならないのかが記されておりませんが、ある研究者は、もともとこの掟は人間を盗むこと、誘拐を禁じる掟であったと申しております。出エジプト記21章16節に、「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」と記されています。この掟がもとの掟であって、これが一般化されて「盗んではならない」という掟になったのではないかと考えるのです。その真偽は分かりませんが、「盗んではならない」という掟の対象に、幼い子どもが含まれていたことは十分考えられることであります。古代の社会において、子どもを誘拐して、奴隷として売ったり、労働力としてこき使うということがよくあったようです。創世記の37章を見ますと、ヨセフが銀貨20枚でイシュマエル人の隊商に売られたことが記されています。そのような社会において、「盗んではならない」という掟は、誘拐を禁じ、人間の自由を守るための掟でもあったのです。人間を盗んだ場合、つまり誘拐の場合は、死刑に処せられるとありますが、物を盗んだ場合は、盗んだ物を何倍かにして償うことが定められておりました。21章37節から22章3節にこう記されています。

 人が牛あるいは羊を盗んで、これを屠るか、売るかしたならば、牛一頭の代償として牛五頭、羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない。彼は必ず償わなければならない。もし、彼が何も持っていない場合は、その盗みの代償として身売りせねばならない。もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わねばならない。

 このように家畜(財産)を盗んだ場合には、死刑にされることはなく、それを何倍かにして償うことが定められていたのです。話が少し脇道にそれるかも知れませんが、ルカ福音書の19章にイエス様が徴税人ザアカイの家を訪れたお話が記されています。そこでザアカイは、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いますが、これは「羊一匹の代償として羊四匹で償わねばならない」という掟を適用しているわけです。そのように誓うことによって、ザアカイは自分がアブラハムの子、イスラエルの一員であることを言い表したのです。

 「盗んではならない」。このことは隣人との関係において言われていることですが、神様との関係において言われている箇所があります。マラキ書の3章8節から10節までをお読みします。旧約の1500ページです。

 人は神を偽りうるか。あなたたちはわたしを偽っていながら/どのようにあなたを偽っていますか、と言う。それは、十分の一の献げ物と/献納物においてである。あなたたちは、甚だしく呪われる。あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。

 新共同訳聖書は「偽る」と訳しておりますが、口語訳聖書、新改訳聖書では「盗む」と訳されています。例えば、口語訳聖書で、8節はこう記されています。「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたは、わたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである」。十分の一という割合が現代の私たちにもそのまま当てはまるかどうかは議論のあるところですが、ささげものをおろそかにすることは、神様の物を盗んでいることであるのです。私たちはすべてのものが神様から与えられたものであること、富を築く力も神様が与えてくださったと信じております。その私たちが、収入の一部を献金しないで、すべて自分のためだけに用いるならば、それは神様の物を盗んでいることになるのです。「盗んではならない」。これは隣人との関係においてだけではなく、神様との関係においても言われていることであるのです。

 「盗んではならない」。この掟は盗みを働かず、献金をしていれば守っていることになるのでしょうか?そうではありません。なぜなら、エフェソの信徒への手紙4章28節にこう記されているからです。新約の357ページです。

 盗みを働いていた者は、今から盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。

 教会の中に盗みを働いていた人がいたのかと驚かれるかも知れませんが、これはおそらく、働くことができるのに働かないで他人の世話になっていた人々のことを言っているのだと思います。テサロニケの教会の中には、怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者たちがおりました(二テサロニケ3:11参照)そのような者たちが、「盗みを働いていた者」と言われていると思うのです。働くことができるのに、怠惰な生活をし、他人の世話になっていること、それは盗みを働いていることと同じであるのです。そのような者たちに対して、パウロは、「労苦して自分の手で正当な収入を得」なさいと命じます。そればかりでなく、「困っている人々に分け与えるようにしなさい」と命じるのです。「盗んではならない」という掟は、苦労して自分の手で正当な収入を得、さらにはそれを困っている人々に分け与えることを私たちに求めているのです。それは、誰もが貧しさのために盗みを働いてしまう弱い存在であるからです。箴言28章21節にはこう記されています。「だれでも一片のパンのために罪を犯しうる」。それゆえ、私たちは、困っている人が罪を犯さないように、分け与えることが求められているのです。

 「盗んではならない」。この掟は人を盗むこと、誘拐を禁じる掟であると申しました。古代社会において、人を誘拐して奴隷として売ってしまうことがあったのです。私たちは誰かの奴隷になったことはないかも知れませんが、罪の奴隷でありました。イエス様が、「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれも罪の奴隷である」と言われたように、私たちは罪の奴隷であったのです(ヨハネ8:34)。しかし、そのような私たちを自由にするために、イエス様は御自分の命をささげてくださいました。イエス様はマルコによる福音書10章45節でこう仰せになっています。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。イエス様は多くの人を罪の奴隷状態から贖うために御自分の命を与えられたのです。私たちはイエス様の命によって、罪の奴隷状態から解放され、自由な者とされたのです。イエス様はそのようにして、「盗んではならない」という掟を完全に満たしてくださったのです。その主イエス・キリストの御言葉をお読みして今夕は終わりたいと思います。ルカによる福音書の12章29節から34節までをお読みします。新約の132ページです。

 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。

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