聖書の言葉 20:14 姦淫してはならない。出エジプト記 20章14節 メッセージ 夕べの礼拝では、神様がイスラエルに告げられた十の言葉について学んでおります。前回は、第六の言葉、「殺してはならない」について学びましたので、今夕は、第七の言葉、「姦淫してはならない」について御一緒に学びたいと思います。 「姦淫してはならない」。この掟を、もう少し丁寧に訳すと、「あなたは姦淫してはならない」となります。2節に、神様とイスラエルとの関係がこう記されておりました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。私たちは、この序文の言葉を思い起こしつつ、十の言葉を学ぶ必要があります。今夕の第七の言葉について言えば、「主であり、神であるわたしによって、エジプトの奴隷状態から導き出されたあなたは、姦淫してはならない」と言われているのです。私たちに当てはめて言えば、「主であり、神であるイエス・キリストによって罪の奴隷状態から導き出されたあなたは、姦淫してはならない」ということであります。 「姦淫」と訳されている元の言葉(ナーアフ)は、他人と結婚している異性、または他人と婚約している異性と性的関係を持つことを意味します。イスラエルにおいて、婚約することは結婚することと同じように考えられておりました。ですから、「姦淫してはならない」という掟は、「他人と結婚している異性と性的な関係を持ってはならない」という掟であるのです。第七戒は、「結婚を守るための掟である」と言えるのです。 「姦淫してはならない」という掟が「結婚を守るための掟である」ことを確認したうえで、聖書が結婚についてどのように教えているのかを見ていきたいと思います。聖書が結婚について記しているのは、アダムと女が罪を犯して堕落する前の創世記2章であります。創世記の2章18節から24節までをお読みします。旧約の3ページです。 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 ここには、結婚によって結ばれた最初の夫婦の姿が記されています。「人が独りでいるのは良くない」と言われた神様は、男と女が結婚して夫婦となるように定められたのです。それは、1章28節に記されている「産めよ、増えよ、地に満ち」よという神様の祝福を実現するためでもあります。神様は人間の幸福のために、また、人間が増え広がっていくために、結婚を定められたのです。それゆえ、結婚を破壊してしまう姦淫は神様に対する大きな罪であるのです。 姦淫が大きな罪であることは、十戒が与えられる前からであります。イスラエルの人々は、十戒を与えられる前は、姦淫が罪であることを知らなかったわけではありません。十戒は罪が明確に告げられたものでありまして、十戒を与えられる前でも、姦淫は大きな罪と見なされていました。創世記の20章にアブラハムがゲラルに滞在した際、妻サラを妹と偽ったことが記されています。ゲラルの王アビメレクは、サラがアブラハムの妻であることを知らずに、召し入れようとしたわけですが、主からそのことを知らされます。神様は夢の中でアビメレクにこう言われたのです。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように彼女に触れさせなかったのだ」(創世20:6)。また、アビメレク自身も、アブラハムを呼んでこう言いました。「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならないことをわたしにしたのだ」(20:9)。このようなやりとりからも、姦淫が大きな罪であったことが分かります。 また、ヤコブの息子で、エジプトに売られたヨセフは、主人の妻から「わたしの床に入りなさい」と言われたとき、こう答えました。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(創世39:8,9)。 このように、ヨセフにとっても他人と結婚している女性と性的な関係を持つことは、大きな悪であり、神様に対する罪であったのです。 姦淫が相手の配偶者ばかりでなく、神様に対する罪であること。それは結婚が神様によって定められた制度であり、結婚によって二人を一体とされるのが神様であるからです。また、結婚は神様を証人として結ばれる契約でもあります。マラキ書の2章13節節から16節までをお読みします。旧約の1498ページです。 同様に、あなたたちはこんなことをしている。泣きながら、叫びながら/涙をもって主の祭壇を覆っている。もはや、献げ物が見向きもされず/あなたたちの手から受け入れられないからだ。あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約した妻である。主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると/万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。 この御言葉は、長年連れ添った妻を離縁して、他の女を妻とする人たちに向けて語られたものですが、結婚について大切なことを教えています。それは結婚が主を証人として結ばれた契約であるということです。それゆえ、主は、離縁する者を、裏切る者、不法で上着を覆っている者と言われるのです。 では、結婚したら離縁することはできないのでしょうか?モーセは離縁について記していますが(申命24:1参照)、そのことをどのように解釈したらよいのでしょうか?主イエスは、マタイによる福音書5章31節、32節で次のように言われています。新約の8ページです。 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 ここで「不法な結婚」と訳されている言葉(ポルネイア)は「姦淫」とも訳される言葉であります。ちなみに、口語訳聖書では「不品行」、新改訳聖書では「不貞」と訳しています。「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯せることになる」。このイエス様の御言葉は、姦淫だけが妻を離縁する正当な理由であることを教えています。姦淫以外の理由で妻を離縁する者は、その女に姦通の罪を犯させることになる。また、姦淫以外の理由で離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。それは、姦淫以外の理由で離縁しても、神様が結び合わされた夫婦の関係は続いているからです。このイエス様の御言葉は、今の妻を離縁して、新しい妻を迎えることによって、「姦淫してはならない」という掟を守ることができると教えていた律法学者やファリサイ派の人々を念頭に置いて語られています。律法学者やファリサイ派の人々は、好きな女性ができたら、今の妻を離縁して、新しく妻として迎えれば、姦淫の罪を犯すことにはならないと教えていました。しかし、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々の教えは、姦通の罪を犯す者を増やすだけであると指摘されたのです。 「姦淫してはならない」。この戒めは、神様が結び合わされた結婚関係、夫婦関係を守るための掟であります。ヘブライ人への手紙13章4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係を汚してはなりません」とありますが、姦淫の罪こそ、夫婦の関係を汚す罪、結婚関係を破壊してしまう罪であるのです。そのような罪を私たちがどれほど警戒しなければならないのか。イエス様は、マタイによる福音書の5章27節、28節で、こう言われています あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 神様は姦淫という行為だけではなくて、姦淫の源になる、「他人の配偶者をみだらな思いで見る」ことをも裁かれます。心を御覧になる神様は、心の中の姦淫をも裁かれるのです。そのような神様の裁きを招かないように、私たちは神様によって結び合わされた結婚関係を重んじる者でありたいと願います。また、神様を証人として誓った結婚の誓約に、誠実に歩んでいきたいと願います。 関連する説教を探す 2016年の日曜 夕方の礼拝 『出エジプト記』
夕べの礼拝では、神様がイスラエルに告げられた十の言葉について学んでおります。前回は、第六の言葉、「殺してはならない」について学びましたので、今夕は、第七の言葉、「姦淫してはならない」について御一緒に学びたいと思います。
「姦淫してはならない」。この掟を、もう少し丁寧に訳すと、「あなたは姦淫してはならない」となります。2節に、神様とイスラエルとの関係がこう記されておりました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。私たちは、この序文の言葉を思い起こしつつ、十の言葉を学ぶ必要があります。今夕の第七の言葉について言えば、「主であり、神であるわたしによって、エジプトの奴隷状態から導き出されたあなたは、姦淫してはならない」と言われているのです。私たちに当てはめて言えば、「主であり、神であるイエス・キリストによって罪の奴隷状態から導き出されたあなたは、姦淫してはならない」ということであります。
「姦淫」と訳されている元の言葉(ナーアフ)は、他人と結婚している異性、または他人と婚約している異性と性的関係を持つことを意味します。イスラエルにおいて、婚約することは結婚することと同じように考えられておりました。ですから、「姦淫してはならない」という掟は、「他人と結婚している異性と性的な関係を持ってはならない」という掟であるのです。第七戒は、「結婚を守るための掟である」と言えるのです。
「姦淫してはならない」という掟が「結婚を守るための掟である」ことを確認したうえで、聖書が結婚についてどのように教えているのかを見ていきたいと思います。聖書が結婚について記しているのは、アダムと女が罪を犯して堕落する前の創世記2章であります。創世記の2章18節から24節までをお読みします。旧約の3ページです。
主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
ここには、結婚によって結ばれた最初の夫婦の姿が記されています。「人が独りでいるのは良くない」と言われた神様は、男と女が結婚して夫婦となるように定められたのです。それは、1章28節に記されている「産めよ、増えよ、地に満ち」よという神様の祝福を実現するためでもあります。神様は人間の幸福のために、また、人間が増え広がっていくために、結婚を定められたのです。それゆえ、結婚を破壊してしまう姦淫は神様に対する大きな罪であるのです。
姦淫が大きな罪であることは、十戒が与えられる前からであります。イスラエルの人々は、十戒を与えられる前は、姦淫が罪であることを知らなかったわけではありません。十戒は罪が明確に告げられたものでありまして、十戒を与えられる前でも、姦淫は大きな罪と見なされていました。創世記の20章にアブラハムがゲラルに滞在した際、妻サラを妹と偽ったことが記されています。ゲラルの王アビメレクは、サラがアブラハムの妻であることを知らずに、召し入れようとしたわけですが、主からそのことを知らされます。神様は夢の中でアビメレクにこう言われたのです。「わたしも、あなたが全くやましい考えでなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなたがわたしに対して罪を犯すことのないように彼女に触れさせなかったのだ」(創世20:6)。また、アビメレク自身も、アブラハムを呼んでこう言いました。「あなたは我々に何ということをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならないことをわたしにしたのだ」(20:9)。このようなやりとりからも、姦淫が大きな罪であったことが分かります。
また、ヤコブの息子で、エジプトに売られたヨセフは、主人の妻から「わたしの床に入りなさい」と言われたとき、こう答えました。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのような大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(創世39:8,9)。
このように、ヨセフにとっても他人と結婚している女性と性的な関係を持つことは、大きな悪であり、神様に対する罪であったのです。
姦淫が相手の配偶者ばかりでなく、神様に対する罪であること。それは結婚が神様によって定められた制度であり、結婚によって二人を一体とされるのが神様であるからです。また、結婚は神様を証人として結ばれる契約でもあります。マラキ書の2章13節節から16節までをお読みします。旧約の1498ページです。
同様に、あなたたちはこんなことをしている。泣きながら、叫びながら/涙をもって主の祭壇を覆っている。もはや、献げ物が見向きもされず/あなたたちの手から受け入れられないからだ。あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約した妻である。主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むと/イスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると/万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。
この御言葉は、長年連れ添った妻を離縁して、他の女を妻とする人たちに向けて語られたものですが、結婚について大切なことを教えています。それは結婚が主を証人として結ばれた契約であるということです。それゆえ、主は、離縁する者を、裏切る者、不法で上着を覆っている者と言われるのです。
では、結婚したら離縁することはできないのでしょうか?モーセは離縁について記していますが(申命24:1参照)、そのことをどのように解釈したらよいのでしょうか?主イエスは、マタイによる福音書5章31節、32節で次のように言われています。新約の8ページです。
「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
ここで「不法な結婚」と訳されている言葉(ポルネイア)は「姦淫」とも訳される言葉であります。ちなみに、口語訳聖書では「不品行」、新改訳聖書では「不貞」と訳しています。「不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯せることになる」。このイエス様の御言葉は、姦淫だけが妻を離縁する正当な理由であることを教えています。姦淫以外の理由で妻を離縁する者は、その女に姦通の罪を犯させることになる。また、姦淫以外の理由で離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。それは、姦淫以外の理由で離縁しても、神様が結び合わされた夫婦の関係は続いているからです。このイエス様の御言葉は、今の妻を離縁して、新しい妻を迎えることによって、「姦淫してはならない」という掟を守ることができると教えていた律法学者やファリサイ派の人々を念頭に置いて語られています。律法学者やファリサイ派の人々は、好きな女性ができたら、今の妻を離縁して、新しく妻として迎えれば、姦淫の罪を犯すことにはならないと教えていました。しかし、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々の教えは、姦通の罪を犯す者を増やすだけであると指摘されたのです。
「姦淫してはならない」。この戒めは、神様が結び合わされた結婚関係、夫婦関係を守るための掟であります。ヘブライ人への手紙13章4節に、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係を汚してはなりません」とありますが、姦淫の罪こそ、夫婦の関係を汚す罪、結婚関係を破壊してしまう罪であるのです。そのような罪を私たちがどれほど警戒しなければならないのか。イエス様は、マタイによる福音書の5章27節、28節で、こう言われています
あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
神様は姦淫という行為だけではなくて、姦淫の源になる、「他人の配偶者をみだらな思いで見る」ことをも裁かれます。心を御覧になる神様は、心の中の姦淫をも裁かれるのです。そのような神様の裁きを招かないように、私たちは神様によって結び合わされた結婚関係を重んじる者でありたいと願います。また、神様を証人として誓った結婚の誓約に、誠実に歩んでいきたいと願います。