殺してはならない 2016年5月29日(日曜 夕方の礼拝)

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殺してはならない

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章13節

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20:13 殺してはならない。出エジプト記 20章13節

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 前回、私たちは、第五の言葉、「あなたの父母を敬え」について学びました。私たちの父と母は、私たちの神の代理人であるがゆえに、敬わねばならないこと。また、神の代理人として立てられている父であり母である私たちは、主がしつけ諭されるように子供を育てねばならないことを学んだのであります。今夕は、第六の言葉、「殺してはならない」について御一緒に学びたいと思います。

 「殺してはならない」。この掟は、もう少し丁寧に訳すと、「あなたは殺してはならない」となります。前回、申しましたように、後に神様は十戒を二枚の石の板に刻まれてモーセに与えられました(出エジプト32:15,16)。ウェストミンスター信仰基準は、序文から第四戒までが一枚目の板に記されており、第五戒から第十戒までが二枚目の板に記されていると理解しますが、それは序文から第四戒までが神についての義務を教える掟であり、第五戒から第十戒までが隣人についての義務を教える掟であると理解するからです。「あなたは殺してはならない」。この掟は、「あなた」と呼ばれるイスラエル共同体の隣人についての義務を教える掟であるのです。

 ここで「殺す」と訳されているヘブライ語(ラーツァハ)は、私的な殺害を意味する言葉であります。動物を殺すことや、死刑や戦争で人を殺すことには用いられない言葉で、個人の故意による殺人、過失による殺人に用いられる言葉であります。ですから、「あなたは殺してならない」という掟は、死刑や戦争を禁じる掟ではなくて、イスラエルの共同体において自分と隣人の命を守るための掟であるのです。十戒は、神様がイスラエルに与えられた掟の基本法とも言えるものですが、神様の掟の中には、死刑や戦争についての掟があります(レビ20章、申命20章)。このことも、「あなたは殺してはならない」という掟が死刑や戦争を禁じている掟ではないことを示しています。現代社会における死刑制度や戦争の是非については第六の言葉からだけではなくて、聖書全体から論じる必要があります。今夕は、そのような時間はありませんので、神の民イスラエル共同体に与えられた個人の殺人を禁じる掟として、学びたいと思います。

 「あなたは殺してはならない」。これは自分と隣人の命を守るための掟でありますが、私たちにとって命は最も尊いものであります。その命を守ることが掟として定められたことは、もっともなことであります。「あなたは殺してはならない」。この掟を守らねばならない理由はここには記されていません。「なぜ、人を殺してはならないのか?」。そのように問われたら、私たちは何と答えるでしょうか?「自分も殺されたくないから」、「人を殺しては秩序が成り立たないから」、色々な答えが考えられると思いますが、聖書は、人は神のかたちに似せて造られたからであると教えています。創世記の9章に、神様がノアとその子孫たちと契約を結ばれたことが記されています。その9章5節、6節で、神様はこう言われています。旧約の11ページです。

 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。

 聖書はすべての命の源が神様にあること、命の造り主が神様であることを教えています。それゆえ、神様は、「あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する」と言われるのです。そして、その賠償とは、人の血を流したその人の命であるのです。しかし、それだけなら、動物も同じですよね。しかし、人間は動物と違うところがある、それが「人は神にかたどって造られた」ということであります。人を殺すことは、その人の神のかたちを破壊する行為であるのです。それゆえ、「人の血を流す者は/人によって自分の血を流される」と神様は言われるのです。「なぜ、動物は殺してもいいのに、人間は殺してはいけないのか?」。それは、人間だけが神のかたちに似せて造られており、神様がその命の賠償を要求すると言われたからであるのです。

 では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の126ページです。

 「あなたは殺してはならない」。この掟はイスラエル共同体において殺人を禁じる原則的な掟でありますが、もし、殺してしまった場合はどうなるのでしょうか?21章12節から14節にこう記されています。

 人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる。ただし、故意にではなく、偶然、彼の手に神が渡された場合は、わたしはあなたのために一つの場所を定める。彼はそこに逃れることができる。しかし、人が故意に隣人を殺そうとして暴力を振るうならば、あなたは彼をわたしの祭壇のもとからでも連れ出して、処刑することができる。

 ここに、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」とありますが、この背後には先程の創世記9章の御言葉があるわけです。「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」と言われた神様が、「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」と言われるのです。これは、イスラエルの人々が殺人の罪を犯させないようにするための掟であります。人から殺されたくなかったら、人を殺してはならないのです(出エジプト21:23~25参照)。

 ここでは、故意による殺人についてと、偶然の過失による殺人について記されています。故意とは「ことさらたくらむこと。心あってすること」を意味します(『広辞苑』)。また、「過失」とは「あやまち、しくじり」を意味します(『広辞苑』)。故意に人を殺した者は死刑に処せられましたが、偶然の過失によって人を殺してしまった者は、逃れの町に逃げ込むことができました(詳しくは民数35:9~34参照)。このことは、「あなたは殺してはならない」という掟が隣人を殺そうとする殺意をも問題としていることを私たちに教えています。そして、このことをはっきりと教えられたのが、主イエス・キリストであったのです。

 イエス様は、マタイによる福音書の5章21節、22節でこう言われています。新約の7ページです。

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」

 律法学者やファリサイ派の人々は、「自分は人を殺したことがないから、『殺してはならない』という掟をちゃんと守っている」と思っておりました。おそらく、私たちも同じように考えるのではないかと思います。「自分は人を殺したことがない。だから、『殺してはならない』という掟を守っている」と考えるのだと思います。しかし、イエス様は、こう言われるのです。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言うものは火の地獄に投げ込まれる」。ここでイエス様は、何を教えておられるのでしょうか?それは、「殺してはならない」という掟が、殺人の源である悪しき思いをも裁く掟であるということです。神様は心を御覧になられるお方でありますから、殺人の根にある私たちの怒りや人を軽んじる心をも裁かれるのです。そうであれば、「わたしは『殺してはならない』という掟を守っています」とは、誰も言えないのです。いや、一人だけおられる。それが律法の完成者であるイエス・キリストであります。イエス様だけが心と言葉と行いにおいて「人を殺すな」という掟を守られたのです。「人を殺すな」という掟の反対は、「人を生かせ」「人に命を与えよ」ということであります。イエス様は、御自分の命を捨てることによって、私たちに永遠の命を与えてくださいました。そのようにして、イエス様は、「あなたは殺してはならない」という掟を満たしてくださったのです。私たちは、イエス・キリストによって贖われ、神様との永遠の交わりに生かされている者たちとして、「あなたは殺してはならない」という掟を心に刻みたいと思います。私たちが神のかたちに似せて造られていることを覚えて、また、私たちがイエス・キリストから愛されていることを覚えて、互いの命を重んじる者になりたいと願います。

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