主の安息日 2016年5月08日(日曜 夕方の礼拝)
問い合わせ
主の安息日
- 日付
-
- 説教
- 村田寿和 牧師
- 聖書
出エジプト記 20章8節~11節
聖書の言葉
20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。
20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、
20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。
20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。出エジプト記 20章8節~11節
メッセージ
関連する説教を探す
夕べの礼拝では、出エジプト記20章に記されている神様がイスラエルに告げられた十の言葉を一つずつ学んでいます。前回は、第三の言葉について学びましたので、今夕は、第四の言葉、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」について学びたいと思います。
8節から11節までをお読みします。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
主はイスラエルに、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命じられます。この主の命令は、ここで始めて、安息日が定められたということではありません。安息日という言葉は、16章のマナのお話の中にも出てきました。主は日ごとに天からのパン、マナをもってイスラエルを養われましたが、六日目になると二日分のマナをお与えになりました。それは、七日目の安息日にはマナを集めることなく、イスラエルが休むためであったのです。ですから、主はイスラエルに対して、安息日について既に教えておられたのです。そのことを踏まえて、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言われたのであります。聖別するとは、「神様のものとして分かつこと」を意味します。では、神様は、週の最後の日である七日目をどのようにして、神様のものとして分かつことを命じられるのでしょうか?それは、六日の間は働いて、七日目は休むということによってでありました。「六日の間働いて、なんであれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」。創世記1章によりますと、神様は、御自分のかたちに似せてお造りになった男と女を祝福してこう言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。この神様の祝福を伴う命令を、改革派神学では、「文化命令」と呼んでいます。神様は祝福として人に出産と労働をお命じになられたのです。地を従わせるとは農耕の働きを意味し、地の上を這う生き物を支配するとは牧畜の働きを意味しています。はじめの人アダムの堕落によって、その働きは困難と苦しみの伴うものとなりましたが、人が祝福として働くよう命じられていることに変わりはありません。では、人は、休みなく働くことが祝福として命じられているかと言えば、そうではありません。神様は、「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と言われるのです。ここに、「何であれあなたの仕事をし」とありますように、神様は仕事の種類、職種は問いません。それは、各自が与えられた賜物と導きの中で祈って決めることであります。「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」と使徒パウロが言っているとおりです(一コリント7:7)。ここで神様がイスラエルに命じられていることは、どのような仕事をすべきかということではなくて、六日働いて一日休むといった周期、サイクルであるのです。そして、このことは、「あなた」と呼ばれているイスラエルの成人男子だけではなくて、「息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人も同様である」のです。ここに、妻がないのが気になるのですが、もちろん、妻も含まれているのだと思います。自分は休んで妻を働かせるというのではありません。また、自分と妻は休んで、男女の奴隷を働かせるというのでもありません。イスラエルにおいては男女の奴隷も、家畜さえも、七日目には主の安息にあずかることができるのです。
主は、六日の間働いて、七日目は何の仕事もしてはならない理由として、次のように言われます。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」。創世記の1章、2章に、神様が、六つの日に渡って天地万物を造られたこと、そして、七日目に、御自分の仕事を離れ、安息なさったことが記されています。創世記の2章2、3節にはこう記されています。「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。この神様に倣って、神の民であるイスラエルも、六日の間働いて、何であれ自分の仕事をし、七日目は自分の仕事を離れて休むことが求められているのです。ただし、ここで注意したいことは、イスラエルにとって、七日目は自分の安息日ではなくて、主の安息日であるということです。イスラエルは七日目を単なるお休みの日とするように命じられているのではなくて、神様が六つの日に渡って天地万物を造り、七日目に休まれたことを思い起こして、主の安息にあずかることが命じられているのです。
申命記の5章にも十戒が記されておりますが、そこでは、安息日を守って聖別する理由が異なっています。旧約の289ページ。申命記の5章12節から15節までをお読みします。
安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。
ここでは、安息日を守って聖別する目的が、主がイスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出されたことを思い起こすためと記されています。先程の、出エジプト記20章の御言葉と合わせて考えるならば、安息日は、神様の創造の御業と贖いの御業を思い起こす日であるのです。そのような安息日に、主はイスラエルの人々を聖なる集会に召集されたのです。レビ記23章3節を見ますと、「六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である」と記されています。イスラエルの人々は仕事を休み、神様を礼拝することによって安息日を神様の日として聖別したのです。それゆえ、神様は安息日を、「これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである」と言われたのです(出エジプト31:7参照)。神様はイスラエルに、安息日を御自分の日として聖別することを命じることによって、御自分とイスラエルとの関係が永遠に続くよう定められたのです。
旧約時代において、安息日は週の最後の日、土曜日でありました。しかし、主イエス・キリストが復活されてからは、安息日は週の最初の日である日曜日に変わりました(ウ小教理問59参照)。新約聖書を読みますと、初代教会が、週の最初の日を主の日と呼び、集まって礼拝をささげていたことが記されています。初代教会は、イエス・キリストの復活という新しい創造と、イエス・キリストによる罪からの贖いを思い起こして、主を礼拝したのです。私たちも、日曜日を主の日と呼び、礼拝をささげておりますけれども、それは私たちがキリストにあって新しく造られた者であり、罪から贖われた者たちであるからです。そのような者たちとして、私たちは礼拝において、主イエス・キリストの安息にあずかるのです。礼拝の主催者であるイエス・キリストこそ、私たちを休ませてくださるお方であり、「安息日の主」であられるのです(マタイ11:28、12:8参照)。