聖書の言葉 20:7 あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。出エジプト記 20章7節 メッセージ 前回、私たちは、十の言葉の第二の言葉について学びました。古代オリエントの世界において、人々は像を用いて神々を礼拝しておりました。しかし、イスラエルをエジプトの奴隷の家から導き出された主は、「あなたは、自分のために、いかなる像も造ってはならない」と言われたのです。主は、御自分の像を造ること、また、像を用いて御自分を礼拝することを禁じられたのでありました。それにしても、なぜ、人は像を用いて神々を礼拝したのでしょうか?それは、像によって神々の臨在を確かなものにしたいと考えたからです。しかし、主は、イスラエルに、像を用いて御自分を礼拝することを禁じられました。では、主は何において、御臨在されるのでしょうか?それは、イスラエルに示された御自分の御名前においてであります。24節にこう記されています。「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」。ここで、主は、「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」と言われております。主は像の中に御臨在されるのではなくて、御名において御臨在してくださるのです。このような脈絡の中で、主は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と言われるのです。今夕、私たちは、この第三の言葉について御一緒に学びたいと思います。 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。ここで、主は「わたしの名を」とは言われず、「あなたの神、主の名を」と言われております。この前提には、2節の序文の言葉があります。そこにはこう記されておりました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ですから、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とは、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である主の名を、みだりに唱えてはならない」という意味であります。現代の私たちに当てはめて言えば、「あなたを罪の奴隷状態から導き出してくださった主の名をみだりに唱えてはならない」ということであるのです。「みだりに唱えてはならない」とありますが、「みだりに」とは、「秩序をみだして。むやみに。わけもなく」という意味であります(広辞苑)。ですから、第三の言葉では、あなたの神、主の名を、秩序を乱して、むやみに、わけもなく用いることが禁じられているのです。これは主がその御名において御臨在してくださるからでありますね。勝手気ままに、思慮もなく、主の名を唱えることは、主から祝福ではなくて、罰を受けることになるのです。そのことを主は、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」という言葉で警告しておられるのです。 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。ここでの「主」は、3章で、神様がモーセに示された「ヤハウェ」という御名前であります。ヤハウェとは、「わたしはあなたと共にいる」という意味の御名前でありました。日本語で主と訳される「ヤハウェ」という御名前の中に主の御臨在の約束が含まれているのです。そのヤハウェという御名を正しく用いないこと、悪用することの一切がここで禁じられているのです。日本でも「名は体を表す」と言いますが、御名は神様そのものであり、御名を悪用することは、神様の栄誉を甚だしく傷つけることであるのです。 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。私たちはこの言葉を、第二の言葉との流れから、礼拝という文脈において見てきたのですが、第三の言葉は、礼拝だけに限定されるものではありません。といいますのも、主の民であるイスラエルにおいて、主の御名は最高の権威であり、あらゆることの保証として用いられたからです。例えば、自分が真実を言っていることを誓うとき、イスラエルでは主の名によって誓いました。そして、これは主がイスラエルに命じられたことであったのです。申命記の6章13節には、こう記されています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。主は、御自分の名前によって誓うことにより、イスラエルの社会に真実を打ち立てようとされました。しかし、人々はそのことを悪用するようになりました(列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」参照)。偽りの誓いが主の名によって正当化されることが起こったのです。それゆえ、主は、レビ記の19章12節で、こう言われています。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」。ある人が、主の御名を呼んで、自分が言っていることは真実であると誓うとします。そうすると、周りの人は、その人の証言を真実であると受け入れざるを得ないわけです。しかし、その証言が偽りであることを知っている方がおられる。それが御名において御臨在される主であられるのです。そして、その主が御自分の御名をみだりに用いる者に罰をお与えになるのです。 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。これは禁止命令でありますが、積極的に言えば、「あなたの神、主の名を主が定められたとおりに、重んじて用いなさい」ということであります。神様は、イスラエルに御自分の名前を示してくださいました。神様がイスラエルに御自分の名前を示してくださったことは、神様がイスラエルとの交わりをよしとしてくださった、ということであります。人間同士であっても、ある人と交わりを持つとき、その人が名前を教えてくれなければ、交わりを持つことはできません。ですから、神様がヤハウェという御名をイスラエルに示してくださったのは、神様がイスラエルとの交わりをよしとしてくださったということであるのです。そして、神様はイスラエルに御自分の名前をどのような時に用いればよいかをも示されたわけであります。その最たる時が、礼拝の時であるわけです。礼拝において、主の御名を喜びと感謝をもってほめたたえる。詩編を読みますと、そのような言葉が満ちあふれています。また、自分の証言が真実であることの保証として誓うときにも主の御名が用いられる。これも、主が定められた御名の用い方であります。その主が定められた御名の用い方に従って、御名をきよく敬虔に用いることが求められているのです(ウ小教理問54参照)。そして、これこそ、イエス様が私たちに祈るように教えられた第一のことでありました。イエス様は、「天におられる私たちの父よ。あなたの御名が崇められますように」と祈るよう、弟子たちに教えられました。「あなたの御名が崇められますように」、そのような祈りをもって、私たちは主の御名を口に出すべきであるのです。 神様はイスラエルに、「ヤハウェ」という御名前を示されましたが、私たちには、「イエス」という御名前を示してくださいました。「イエス」とは「主は救う」という意味であることが、マタイ福音書の1章に記されております。また、そこには、イエス様の別名として「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」という御名前も示されています。このことは、イエスの御名が唱えられるところに、ヤハウェも共にいてくださることを教えております。イエスの御名が唱えられる礼拝においてこそ、ヤハウェ、主は共にいてくださるのです。ですから、私たちにとっての「主の名」とは、「主イエス・キリストの名」に他ならないのです。主イエス・キリストの名の唱えられるところに、主イエス・キリストが共にいてくださり、また父なる神も共にいてくださいます。そのことを覚えて、私たちは、主の御名をふさわしく唱えたいと思います。主の救いに感謝して、喜びをもって、主の御名をほめたたえたいと願います。 また、私たちは主イエスの御名を唱える者たちとして、誓う必要がないほどに、真実な言葉を語る者となりたいと願います。主イエスは、マタイ福音書の5章で、弟子たちに、「一切誓いを立ててはならない」と言われましたけれども、それは誓う必要がないほどに、真実な言葉を語りなさいということであるのです。私たちは、誓う必要がないほどに真実な言葉を語ることが求められています。そのようにして、日常の生活においても、御名の栄光をあらわすことが求められているのです。 関連する説教を探す 2016年の日曜 夕方の礼拝 『出エジプト記』
前回、私たちは、十の言葉の第二の言葉について学びました。古代オリエントの世界において、人々は像を用いて神々を礼拝しておりました。しかし、イスラエルをエジプトの奴隷の家から導き出された主は、「あなたは、自分のために、いかなる像も造ってはならない」と言われたのです。主は、御自分の像を造ること、また、像を用いて御自分を礼拝することを禁じられたのでありました。それにしても、なぜ、人は像を用いて神々を礼拝したのでしょうか?それは、像によって神々の臨在を確かなものにしたいと考えたからです。しかし、主は、イスラエルに、像を用いて御自分を礼拝することを禁じられました。では、主は何において、御臨在されるのでしょうか?それは、イスラエルに示された御自分の御名前においてであります。24節にこう記されています。「あなたは、わたしのために土の祭壇を造り、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、羊、牛をその上にささげなさい。わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」。ここで、主は、「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」と言われております。主は像の中に御臨在されるのではなくて、御名において御臨在してくださるのです。このような脈絡の中で、主は、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と言われるのです。今夕、私たちは、この第三の言葉について御一緒に学びたいと思います。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。ここで、主は「わたしの名を」とは言われず、「あなたの神、主の名を」と言われております。この前提には、2節の序文の言葉があります。そこにはこう記されておりました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ですから、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」とは、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である主の名を、みだりに唱えてはならない」という意味であります。現代の私たちに当てはめて言えば、「あなたを罪の奴隷状態から導き出してくださった主の名をみだりに唱えてはならない」ということであるのです。「みだりに唱えてはならない」とありますが、「みだりに」とは、「秩序をみだして。むやみに。わけもなく」という意味であります(広辞苑)。ですから、第三の言葉では、あなたの神、主の名を、秩序を乱して、むやみに、わけもなく用いることが禁じられているのです。これは主がその御名において御臨在してくださるからでありますね。勝手気ままに、思慮もなく、主の名を唱えることは、主から祝福ではなくて、罰を受けることになるのです。そのことを主は、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」という言葉で警告しておられるのです。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。ここでの「主」は、3章で、神様がモーセに示された「ヤハウェ」という御名前であります。ヤハウェとは、「わたしはあなたと共にいる」という意味の御名前でありました。日本語で主と訳される「ヤハウェ」という御名前の中に主の御臨在の約束が含まれているのです。そのヤハウェという御名を正しく用いないこと、悪用することの一切がここで禁じられているのです。日本でも「名は体を表す」と言いますが、御名は神様そのものであり、御名を悪用することは、神様の栄誉を甚だしく傷つけることであるのです。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」。私たちはこの言葉を、第二の言葉との流れから、礼拝という文脈において見てきたのですが、第三の言葉は、礼拝だけに限定されるものではありません。といいますのも、主の民であるイスラエルにおいて、主の御名は最高の権威であり、あらゆることの保証として用いられたからです。例えば、自分が真実を言っていることを誓うとき、イスラエルでは主の名によって誓いました。そして、これは主がイスラエルに命じられたことであったのです。申命記の6章13節には、こう記されています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」。主は、御自分の名前によって誓うことにより、イスラエルの社会に真実を打ち立てようとされました。しかし、人々はそのことを悪用するようになりました(列王記上21章の「ナボトのぶどう畑」参照)。偽りの誓いが主の名によって正当化されることが起こったのです。それゆえ、主は、レビ記の19章12節で、こう言われています。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」。ある人が、主の御名を呼んで、自分が言っていることは真実であると誓うとします。そうすると、周りの人は、その人の証言を真実であると受け入れざるを得ないわけです。しかし、その証言が偽りであることを知っている方がおられる。それが御名において御臨在される主であられるのです。そして、その主が御自分の御名をみだりに用いる者に罰をお与えになるのです。
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。これは禁止命令でありますが、積極的に言えば、「あなたの神、主の名を主が定められたとおりに、重んじて用いなさい」ということであります。神様は、イスラエルに御自分の名前を示してくださいました。神様がイスラエルに御自分の名前を示してくださったことは、神様がイスラエルとの交わりをよしとしてくださった、ということであります。人間同士であっても、ある人と交わりを持つとき、その人が名前を教えてくれなければ、交わりを持つことはできません。ですから、神様がヤハウェという御名をイスラエルに示してくださったのは、神様がイスラエルとの交わりをよしとしてくださったということであるのです。そして、神様はイスラエルに御自分の名前をどのような時に用いればよいかをも示されたわけであります。その最たる時が、礼拝の時であるわけです。礼拝において、主の御名を喜びと感謝をもってほめたたえる。詩編を読みますと、そのような言葉が満ちあふれています。また、自分の証言が真実であることの保証として誓うときにも主の御名が用いられる。これも、主が定められた御名の用い方であります。その主が定められた御名の用い方に従って、御名をきよく敬虔に用いることが求められているのです(ウ小教理問54参照)。そして、これこそ、イエス様が私たちに祈るように教えられた第一のことでありました。イエス様は、「天におられる私たちの父よ。あなたの御名が崇められますように」と祈るよう、弟子たちに教えられました。「あなたの御名が崇められますように」、そのような祈りをもって、私たちは主の御名を口に出すべきであるのです。
神様はイスラエルに、「ヤハウェ」という御名前を示されましたが、私たちには、「イエス」という御名前を示してくださいました。「イエス」とは「主は救う」という意味であることが、マタイ福音書の1章に記されております。また、そこには、イエス様の別名として「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」という御名前も示されています。このことは、イエスの御名が唱えられるところに、ヤハウェも共にいてくださることを教えております。イエスの御名が唱えられる礼拝においてこそ、ヤハウェ、主は共にいてくださるのです。ですから、私たちにとっての「主の名」とは、「主イエス・キリストの名」に他ならないのです。主イエス・キリストの名の唱えられるところに、主イエス・キリストが共にいてくださり、また父なる神も共にいてくださいます。そのことを覚えて、私たちは、主の御名をふさわしく唱えたいと思います。主の救いに感謝して、喜びをもって、主の御名をほめたたえたいと願います。
また、私たちは主イエスの御名を唱える者たちとして、誓う必要がないほどに、真実な言葉を語る者となりたいと願います。主イエスは、マタイ福音書の5章で、弟子たちに、「一切誓いを立ててはならない」と言われましたけれども、それは誓う必要がないほどに、真実な言葉を語りなさいということであるのです。私たちは、誓う必要がないほどに真実な言葉を語ることが求められています。そのようにして、日常の生活においても、御名の栄光をあらわすことが求められているのです。