熱情の神 2016年4月10日(日曜 夕方の礼拝)
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熱情の神
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 20章4節~6節
聖書の言葉
20:4 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
20:5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。出エジプト記 20章4節~6節
メッセージ
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前回、私たちは、十の言葉の第一の言葉、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」について学びました。イスラエルにとって、自分たちをエジプトの奴隷状態から贖い出してくださった主だけが神であるように、私たちにとって、自分たちを罪の奴隷状態から贖い出してくださった主イエス・キリストだけが神であることを、私たちは学んだのであります。
今夕は、その続きであります4節から6節に記されている第二の言葉を学びたいと願います。
4節から6節までをお読みします。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
イスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出された神である主は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われました。「あなたは、わたしだけを神として崇めて生きよ」と言われたのです。神様を崇める、神様を礼拝するとき、古代のオリエントにおいて、像を用いて礼拝することが普通でありました。人々は像の中に神々の霊が宿ると考えたのです。このことは、現代の日本においても同じではないかと思います。仏像を拝む人は、その石や木である仏像そのものを拝んでいるのではなくて、その仏像に神々の霊が宿ると考えて、拝んでいるのだと思います。しかし、イスラエルを奴隷の家から導き出された主は、「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言われるのです。像を用いて神々を礼拝するのが当たり前の世にあって、主は、「像を用いて礼拝してはならない」と言われるのです。この戒めは、第一に、主であるわたし、あなたの神であるわたしの像を造ってはならないということであります。なぜなら、主は目に見ることのできないお方であるからです。申命記4章15節、16節にこう記されています。旧約の286ページです。
あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった。堕落して、自分のためにいかなる形の像も造ってはならない。男や女の形も、地上のいかなる獣の形も、空を飛ぶ翼あるいかなる鳥の形も、地上を這ういかなる動物の形も、地下の海に住むいかなる魚のかたちも。
なぜ、主の像を造ってはならないのか?それは、シナイ山においてイスラエルの民は声だけを聞いたのであって、何の姿をも見なかったからであります。主は近寄りがたい光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方であるゆえに、像を造ってはならないのです(一テモテ6:16参照)。
では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の126ページです。
新共同訳聖書は訳出していませんが、元の言葉には、「自分のために」という言葉が記されています。「あなたは自分のためにいかなる像も造ってはならない」と記されているのです(口語訳聖書、新改訳聖書参照)。このことは、人が像を造って、像を用いて神を礼拝する理由を教えております。なぜ、人は像を造って、像を用いて神々を礼拝するのか?それは、「自分のためである」のです。人は自分のために神々の臨在を確保するために像を造るわけです。もっと言えば、像を造ることによって、その像によって、神々のうえに力を振るおうとするのです。それゆえ、主は、イスラエルに、「あなたは自分のためにいかなる像も造ってはならない」と禁じられたのです。
続けて、主は、「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」と言われます。「天にあるもの」とは空を飛ぶ鳥などのことであります。また、「地にあるもの」とは、地を這うもの、獣や家畜、人間などのことであります。また、「水の中にあるもの」とは魚などのことであります。要するに、神様が造られた全ての被造物のことを指しているわけです。イスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出された神様は、天地万物を創造された神様でもあられます。創世記の1章に記されているように、神様は六つの日に渡って、天地万物をはなはだ良く造られたお方であるのです。その創造主である神様を被造物によって表すことはできないのです。それは造り主である神様の御栄光を、造られたものに帰することであり、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という掟に背くことであるのです(ローマ1:23参照)。像を用いて主を礼拝すること自体が、神でないものを神とする偶像崇拝であるのです。
神様はイスラエルに像を造ること、その像に向かってひれ伏したり、仕えたりすることを禁じられました。ここで主は、異教の神々を礼拝することも念頭に置かれているようであります。それゆえ、「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」と言われるのです。「熱情の神」とは、「ねたむ神」とも訳されます(口語訳、新改訳聖書参照)。神様とイスラエルの関係は、しばしば夫と妻の関係に例えられます。夫は愛する妻が自分以外の男と親しくするならば、ねたみを起こします。それと同じように、もし、イスラエルの民が他の神々である偶像に仕えるようなことがあれば、神様はねたまれるのです。それほどまでに、神様はイスラエルを、また、私たちを愛しておられるということであります。
また、主の熱情は、御自身の礼拝に対する熱情でもあります。主は御自身の礼拝に熱情を持っておられる神であられるのです。その熱情が次のように言い表されています。「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。主は御自分を否む者、偶像を礼拝する者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問われます。「三代、四代」とは、当時の一世帯のことであります。当時は、三代、四代、が一緒に生活していたわけです。ですから、父祖が偶像崇拝の罪を犯していれば、当然、その保護のもとにある子孫もその罪の影響を受けるわけです。そのことを念頭において、主は、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と言われるのです。しかし、主がここで強調しておられることは、その後の言葉であります。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。主を愛するとは、主の戒めを守ることであります。すなわち、ここでは、像を造って、像を用いて神様を礼拝しないということです。また、像によってあらわされる他の神々を礼拝しないということです。主を愛するゆえに、主の戒めを守る。これは、主イエス様が言われたことでもあります。イエス様は弟子たちに、「わたしを愛する者は、わたしの言葉を守る」と言われましたけれども、そのことがここで言われているのです(ヨハネ14:23)。そして、そのような者に、主は「幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と言われるのです。これは「三代、四代」との対照で言われているわけですね。主は、イスラエルに、御自分を愛し、御自分の戒めを守って、とこしえの慈しみを与えようとしておられるのです。
「あなたは自分のためにいかなる像も造ってはならない」。この御言葉は、私たちに像を用いて、主を礼拝してはならないことを教えています。では、私たちはどのように主を礼拝すればよいのでしょうか?そのことを、主イエス・キリストは、ヨハネによる福音書の4章で教えてくださいました。新約の169ページ。ヨハネによる福音書4章23節、24節をお読みします。
まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。
イエス様は、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」と言われました。ここでの「霊」とは神の霊、聖霊のことです。神様は霊である。その神様と同じ霊、聖霊をもって礼拝することが言われているのです。また、真理とは「神の御言葉」のことであります(ヨハネ17:17参照)。神の霊と神の御言葉によってささげられる礼拝、それが神様が求めておられる礼拝であるのです。そして、この礼拝を実現するために、神様は、独り子であるイエス・キリストをこの地上に遣わしてくださったのです。まことの礼拝を求める神様の熱情が、イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださったのです。私たちは、イエス・キリストによって聖霊を与えられ、また御言葉を与えられて、霊と真理をもって神様を礼拝する者たちとされているのです。