第一の言葉 2016年3月13日(日曜 夕方の礼拝)

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第一の言葉

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章3節

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20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。出エジプト記 20章3節

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 前回、私たちは、「十戒」が聖書の元の言葉では「十の言葉」と記されていることを学びました(出エジプト34:28、申命記4:13、10:4参照)。また、十の言葉の序文である2節の御言葉を学んだのであります。2節にはこう記されておりました。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。ここで神様は御自分がイスラエルにとって、何者であるのかを宣言しておられます。神様はイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、導き出されたお方であるのです。そのようなお方として、神様は十の言葉をイスラエルの民にお語りになるのです。今夕はその第一の言葉である3節の御言葉を御一緒に学びたいと願います。

 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 ここでの「あなた」とは、主(ヤハウェ)によって、奴隷の家であるエジプトの国から導き出されたイスラエルの民を指しております。イスラエルの人々は、二人称単数形で「あなた」と呼びかけることができる、一つの民であるのです。主によって、奴隷の家であるエジプトから贖い出された、神の民である「あなた」には、わたしをおいてほかに神があってはならないと言うことであります。これは多くの神々が信じられていた世界に生きるイスラエルの民に与えられた御言葉であります。イスラエルの民が430年もの間寄留していたエジプトの国では、多くの神々が崇拝されておりました。また、当時の人々は、いくつもの神々を同時に崇拝しておりました。今で言えば、キリスト教だけではなくて、神道や仏教も信じるといったようなことであります。そして、その方が、信心深いと見なされたわけであります。しかし、イスラエルの民を奴隷の家であるエジプトの国から導き出された主は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってならない」と言われるのです。「わたしによってエジプトの奴隷状態から贖い出されたあなたは、わたしだけを神として生きよ」ということであります。ここで言われているのは、主は唯一のまことの生ける神であるという唯一神信仰というよりも、主だけを神として崇めて生きるという拝一神信仰であります。多くの神々が信じられていることを前提とした上で、主はイスラエルに「わたしだけを神として生きよ」と言われたのです。これは、イスラエルが神の民とされた祝福にとどまるための掟でもあります。前回も申しましたように、十戒は、エジプトの奴隷状態から贖い出され、神の民とされたイスラエルに与えられた言葉であります。神の民とされた者として、どのように生きるべきかを教えるための言葉です。決して、この言葉を守って救いを得るようにと与えられた言葉ではないのです。主によってエジプトの奴隷状態から贖い出され、神の宝の民としていただいた恵みにあずかる者として、どのように生きるべきか。そのことが十の言葉に教えられているのです。ですから、十戒は、神の民とされた恵み、祝福にとどまり続けるために守るべき掟であると言えるのであります。主によってエジプトの奴隷状態から贖い出され、神の民としていただいたイスラエルが、もし、主をおいて他のものを神とするようなことがあれば、神の民としての恵みと祝福を失ってしまうことになるわけです。ですから、主は、イスラエルに、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われたのであります。

 ここで「わたしをおいて」と訳されている言葉は、元の言葉を見ますと、「わたしの顔の前に」と記されています。岩波書店から出ている翻訳聖書では、「わたしの面前に」と訳されています。この「わたしの顔の前に」、「わたしの面前に」という言葉に着目して、ウェストミンスター小教理問答の問48は、次のように告白しています。「第一戒の『わたしのほか(面前)に』という言葉が私たちに教えている事は、万事を見ておられる神が、他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いにきらわれる、ということです」。神様の掟に背くことはすべて罪でありますけれども、神様は「わたしの顔の前に」という言葉によって、御自分が他のどんな神を持つ罪にも注目し、これを大いに嫌われることを示されたのです。神様にとって、御自分の民であり、御自分の子であるイスラエルが、他のものを神とすることは、最も耐えがたい大きな罪なのであります。その神様の耐えがたい思いが、ホセア書の11章に記されています。ホセア書11章1節から9節までをお読みします。旧約の1416ページです。

 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに/彼らはわたしから去って行き/バアルに犠牲をささげ/偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて/歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを/彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き/彼らの顎から軛を取り去り/身をかがめて食べさせた。彼らはエジプトの地に帰ることもできず/アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち/たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも/助け起こされることは決してない。ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て/ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。わたしは、もはや怒りに燃えることなく/エフライムを再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。

 ここには、イスラエルを愛し、エジプトから呼び出してわが子とした主の赤裸々な思いが記されています。神様はイスラエルを愛し、御自分の民とされました。出エジプトの出来事は、その神様の愛の確かなしるしであります。神様は、イスラエルを愛し、イスラエルが御自分の民として歩み続けるようにと「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という掟を与えられたのです。

 では、今夕の御言葉に戻ります。旧約の126ページです。

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。この第一の言葉を、私たちは、イエス・キリストにおいて御自分を示された神の言葉として聞くことが大切であります。言い換えれば、父と子と聖霊なる三つにしてただひとりにいます三位一体の神の言葉として聞くことが大切であるのです。それは、前回申したとおり、私たちは十戒を、主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から贖い出され、神の民とされた者たちとして聞くからです。復活されたイエス・キリストに出会ったトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白しましたけれども(ヨハネ20:28)、復活され、今も活きておられるイエス様こそ、十字架の贖いによって、私たちを罪の奴隷状態から贖い出し、神の民、神の子としてくださったお方であるのです。そして、イエス・キリストの十字架の贖いにおいてこそ、私たちに対する神様の愛、イエス様の愛が、はっきりと示されたのです(ローマ5:8、一ヨハネ3:16参照)。それゆえ、私たちは、イエス・キリストをおいてほかに神があってはならないのです。イエス様が、私たちの罪のために十字架にかかって血を流してくださったゆえに、私たちはイエス・キリストだけを「わが主、わが神」として崇め、生きることが求められているのであります。

 今夕は最後に、私たちがイエス・キリストの父なる神以外のものを神とする危険についてお話して終わりたいと思います。一つは、天皇制の問題であります。戦時中の教会は、イエス・キリストの父なる神だけではなく、天皇をも神としました(礼拝の中で宮城遙拝が行われた事実!)。日本のキリスト教会は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という掟を守ることができなかったのです。その悔い改めから、私たち日本キリスト改革派教会が創立されたことは、ご存じのとおりであります(創立宣言、三十周年宣言の序文を参照)。現在、天皇は、「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」とされております(日本国憲法第一条)。けれども、私たちは依然として、天皇が宮中祭祀を執り行う皇室神道の大祭司であることを忘れてはならないのです。天皇は今でも、私たち日本人キリスト者にとって、神とならぶ崇拝の対象となり得ることを深く自覚し、警戒する必要があるのです。また、イエス・キリストの父なる神と並んで、私たちが崇拝する恐れのあるものに、「富」(マモン)があります。イエス様は、「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」と言われましたけれども(マタイ6:24)、経済第一主義の世に生きる私たちは、神と並んで、富に仕えるという誘惑にさらされています。分かりやすく言えば、「神様よりも、お金のほうが頼りになる」。「お金さえあれば安心だ」という考え方です。私たちは神と並んで富(お金)を拠り所としてしまう恐れがあるのです。天皇制の問題と富の誘惑。この二つを特に警戒しつつ、私たちは、イエス・キリストの父なる神様だけを神として歩んで行きたいと願います。

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