十の言葉(十戒) 2016年2月14日(日曜 夕方の礼拝)

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十の言葉(十戒)

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 20章1節~2節

聖句のアイコン聖書の言葉

20:1 神はこれらすべての言葉を告げられた。
20:2 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。出エジプト記 20章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、主がシナイ山に降り、御自身をイスラエルの民に顕してくださったことを学びました。その時の様子が19章16節にこう記されていました。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた」。また、18節にはこのように記されていました。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」。主がシナイ山に降られたとき、そこには吹き荒れる嵐と噴火する火山を思わせる恐ろしい光景がありました。それは宿営にいたイスラエルの民が震え、さらには山全体が激しく震えたほどであったのです。主がこのように御自身を顕されたのには、二つの目的がありました。一つは、前回学びましたように、イスラエルの人々がいつまでもモーセを信じるためであります。19章9節で、主はモーセにこう言われました。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである」。主は恐るべき近寄りがたいお方として御自身を顕すことにより、その御自分に近づくことのできるモーセを民が信じるようにされたのです(20:21参照)。また、主がこのような仕方で御自身を顕されたのは、イスラエルの民が御自分を信じて、罪を犯さないようにするためでありました。そのことが今夕の御言葉の20章18節から20節に記されています。

 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。

 ここには、神様から直接、十戒を与えられたイスラエルの民の反応が記されています。20章1節に、「神はこれらすべての言葉を告げられた」とありますように、十戒は、シナイ山に降られた神様が、直接、イスラエルの民に語られた言葉であるのです。そして、神様の御声は、雷鳴にも似た、恐ろしいものでありました(19:19参照)。神様がシナイ山に降られた有様と同様、神様の御声は恐ろしいものであったのです。そして、それはイスラエルの民の前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためであったのです。聖書において、神がイスラエルの民全員に御自身を顕され、語られたことはここにしか記されておりません。それほど、ここで語られている言葉は大切であるということであります。神様はイスラエルの民と契約を結ばれるのでありますが、ここで語られている十戒は、その契約の基本法とも言える根本的な教えであるのです。

 私は先程から「十戒」という言葉を用いていますが、実は、「十戒」という言葉は聖書には記されておりません。新共同訳聖書ですと、出エジプト記の34章28節に「十の戒め」という言葉が記されています。また、申命記の4章13節と10章4節に、「十戒」という言葉が記されています。しかし、これらはいずれも元の言葉を見ますと「十の言葉」と記されているのです。新改訳聖書をはいずれも「十のことば」と翻訳しています。私たちは「十戒」という名称に親しんでいるわけですが、聖書には「十の言葉」と記されているのです。

 神様がイスラエルの民に語られた十の言葉についてこれから学ぼうとしているわけですが、今夕はその序文である2節の御言葉を学びたいと思います。何回になるかは分かりませんが、何回かにわけて、十の言葉を丁寧に学びたいと考えております。では、2節をお読みします。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 神様はイスラエルの民と契約を結ぶにあたって、御自分が何者であるのかを改めて宣言されます。「わたしは主」の「主」は3章で、モーセに示された神様のお名前である「ヤハウェ」であります。3章13節から15節にこう記されておりました。旧約の97ページです。

 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ。」神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」

 15節の「あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」の「主」がヤハウェであります。ヤハウェというお名前は、「わたしはある」と訳されている「エヒウェー」を語源とすると考えられております。また、「わたしはある」とこう言葉は、ヘブライ語のハヤーという動詞の未完了形であります。未完了形は動作の継続を表しますので、神様はいつもイスラエルと共にいてくださることを意味します。また、ヘブライ語の動詞は現在形にも未来形にも訳すことができますので、神様が現在だけではなく将来もイスラエルと共にいてくださるお方であることを意味しているのです。

 では、今夕の御言葉に戻りましょう。旧約の126ページです。

 神様が、「わたしはヤハウェである」と言われるとき、それは神様がイスラエルといつも共にいてくださるお方であることを言い表しています。そして、このお方こそ、「あなたの神」であるのです。ここで「あなた」と二人称単数形で言われています。「あなたがたの神」ではなく、「あなたの神」と言われています。このことは、神様がイスラエルの人々を一つの民として見なしておられることを教えています。神様と契約を結ぼうとしているイスラエルの人々は、「あなた」と語りかけることのできる一つの民であるのです。古代オリエントの世界は、多くの神々の存在が信じられていた多神教の世界でありました。しかし、イスラエルにとって、ヤハウェだけが「神」であるのです。なぜなら、ヤハウェだけが、イスラエルを、エジプトの国、奴隷の家から導き出してくださった神であるからです。ヤハウェは、イスラエルをエジプトから導き出すことによって、イスラエルの神となってくださったのです。言い方を変えれば、イスラエルは、エジプトの国、奴隷の家から導き出されるという体験を通して、ヤハウェが自分の神であることを示されたのです。この救いの出来事、この救いの体験を土台として、十の言葉、十戒は与えられているのであります。つまり、十戒はエジプトの国、奴隷の家から導き出され、神の民とされたイスラエルがどのように生きるべきかを教える言葉であるのです。「これを守って救われなさい」ということではなくて、「救われた者としてこれを守りなさい」ということであります。

 私たちキリスト者が、この十戒の序文を読むときに、「わたしは主、あなたの神」という御言葉に、主イエス・キリストを重ねて読むのだと思います(ヨハネ20:28参照)。また、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という言葉に、主イエス・キリストが私たちを罪の奴隷状態から導き出して自由にしてくださったことを重ねて読むのだと思います。そして、十戒を主イエス・キリストの戒めとして聞くのだと思います。これは、主イエス・キリストにあって神の民イスラエルの一員とされた私たちにとって正しい読み方であります。言い方を変えれば、「わたしは主、あなたの神」という言葉を、父と子と聖霊からなる三つにしてただひとりの神の御言葉として私たちは聞くのです。

 今夕は最後に、ペトロの手紙一1章17節から19節までを読んで終わりたいと思います。新約の429ページです。

 また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものによらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。

 主イエス・キリストの十字架の贖いの御業によって、空しい生活から贖い出された者たちとして、私たちは、十の言葉を主イエス・キリストの言葉として学んでいきたいと願います。

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