シナイ山に降られる主 2016年1月24日(日曜 夕方の礼拝)
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シナイ山に降られる主
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 19章10節~25節
聖書の言葉
19:10 主はモーセに言われた。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、
19:11 三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。
19:12 民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。
19:13 その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる。』」
19:14 モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせ、
19:15 民に命じて、「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」と言った。
19:16 三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。
19:17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。
19:19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
19:20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
19:21 主はモーセに言われた。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。
19:22 また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい。」
19:23 モーセは主に言った。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです。」
19:24 主は彼に言われた。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである。」
19:25 モーセは民のもとに下って行き、彼らに告げた。出エジプト記 19章10節~25節
メッセージ
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今夕は、2016年最初の夕べの礼拝であります。前回(2015年11月22日)私たちは、エジプトの国を脱出したイスラエルの人々がシナイ山に到着したことを学びました。主はシナイ山で、イスラエルの人々と契約を結び、御自分の宝の民、祭司の王国、聖なる国民とされるとモーセを通してお語りになりました。そして、民は皆、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と答えて、契約を結ぶ意志を表したのでありました。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、主はモーセにこう言われました。9節です。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである」。今夕の御言葉には、主がシナイ山に降られ、イスラエルの人々に御自身を現してくださったことが記されておりますが、その一つの目的が、ここに記されています。主がシナイ山に降り、イスラエルの人々に御自身を現されたのは、主がモーセと語るのを聞いて、イスラエルの人々がいつまでもモーセを信じるようになるためであるのです。なぜなら、モーセこそ、神様とイスラエルの人々との間を取り持つ仲介者であるからです。神様の言葉は、モーセの口を通して語られるゆえに、イスラエルの人々がいつまでもモーセを信じることは決定的に大切なことであったのです。
主はモーセにこう言われました。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備をさせなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる』」。ここで主はモーセに、「三日目に、民全員の見ている前で、御自分がシナイ山に降られる」と言われます。主はイスラエルの民全員に御自身を現してくださるのです。ここで、「三日目に」とありますが、今日と明日の二日で、主に会うための準備をすることが命じられています。すなわち、彼らは自らを聖別し、衣服を洗うことが命じられるのです。神様を汚れた服でお迎えするのは失礼でありまして、衣服を洗って汚れを落として、きれいな服で神様をお迎えするよう命じられるのです。そのようにして、神様は、イスラエルに神様に会う心備えをさせられるのです。また、主は、民のためにシナイ山の周囲に境を設けるよう命じられます。これは主がシナイ山に降られることによって、その場所が聖なる場所となるからです。聖なる場所に触れることによって、その人は聖なる者となる。聖なる者となるとは、神様にささげられたものとなるということでありまして、死を意味しておりました。主は御自分が聖なるお方であることを教えられるために、「山に触れる者は必ず死刑に処せられる」と言われ、「その人に手を触れに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない」と命じられるのです。主は、民全員の見ている前でシナイ山に降られるのでありますが、シナイ山に登ることができるのは「ある人々」だけであるのです。
モーセは山から民のところに下って行き、民を聖別し、衣服を洗わせて、こう民に命じました。「三日目のために準備をしなさい。女に近づいてはならない」。「女に近づいてはならない」とは、「夫婦の関係を持ってはならない」ということであります。なぜ、夫婦の関係を持ってはいけないのでしょうか?その答えを知る手がかりが、レビ記の15章16節以下に記されています。「もし人に、精の漏出があったならば、全身を水に浸して洗う。その人は夕方まで汚れている。その精が付着した衣服や革は水洗いする。それは夕方まで汚れている。精の漏出は男と寝た女にも当てはまる。二人とも身を洗う。二人は夕方まで汚れている」。ここに精の漏出が祭儀的な汚れであると言われています。なぜ、精の漏出が祭儀的な汚れであるのかはっきりしたことは分かりませんが、ある研究者は命に対してネガティブな状態にあるからであると解説しておりました。ともかく、精の漏出は祭儀的な汚れと見なされていたゆえに、モーセは、三日目のための準備として、「女に近づいてはならない」と命じたのです。
「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた」と記されています。モーセから、「三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られる」と聞いたとき、民はどのような光景を想像していたでしょうか?彼らの中には、その光景を見るのを楽しみにしていた人もいたかも知れません。しかし、彼らが目の当たりにしたのは、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響くという世にも恐ろしい光景であったのです。恐ろしさのあまり、宿営にいた民は皆、震えたほどでありました。主は雲の柱によって、御自分がイスラエルと共におられることをお示しになりましたが、ここでも厚い雲の中に臨んでおられます。主が厚い雲の中に臨まれたのは、イスラエルの民が御自分を見ることによって死ぬことがないようにするためでありました(33:20参照)。このような光景を見て、民は宿営から外に出たくはなかったと思います。しかし、モーセが民を神様に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立ちました。シナイ山は全山煙に包まれておりました。主が火の中を山の上に降られたからであります。主は火の柱によって、御自分がイスラエルと共におられることを示されましたが、ここでは火の中を山の上に降られたのです。「煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた」とありますが、シナイ山はまるで噴火した火山のように描かれています。主が降られると、イスラエルの民だけではなく、山全体が激しく震えたのです。
「角笛の音がますます鋭く響いたとき」とありますが、この角笛の音は主の御臨在を告げる超自然的なものであると思います。だれかが角笛を吹いたのではなくて、超自然的に角笛のような音がますます鋭く響いたのです。そのとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられました。日本においても雷(神鳴)は神様が鳴らしていると考えられておりましたが、聖書において雷はまさしく神の声であるのです。
主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行きました。主はイスラエルの民に山に登ることを禁じられましたが、モーセを山の頂へと呼び寄せられました。このようにして、主はモーセが御自分の特別な僕であることをイスラエルの人々に示されたのです。主は山の頂で、モーセにこう言われました。「あなたは下って行き、民が主を見ようと越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい」。主はモーセに続いて、民が越境し、命を失うことを心配なされました。それで、モーセに下って行って、民に警告するよう命じられるのです。けれども、モーセは主にこう言いました。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです」。モーセは「すでに警告してあるのだから大丈夫でしょう」と答えたわけです。しかし、主は彼にこう言われます。「さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい。ただし、祭司たちと民とは越境して主のもとに登って来てはならない。主が彼らを撃つことがないためである」。主は、「警告しておいたのだから、命を失うことになっても自己責任である」などとは言われません。主の御心は、民が戒めを破って命を失わないことであるのです。そのために、モーセを再び民のもとへ下らせるのです。この主の御配慮によって、この時、イスラエルの民は一人も命を失うことはなかったのです。
今夕の御言葉で、神様は雷鳴をもってモーセに答えられましたが、新約聖書のヨハネによる福音書の12章には、神様がイエス様に雷鳴をもって答えられたことが記されています。今夕はその所を読んで終わりたいと思います。新約の192ページです。ヨハネによる福音書12章27節から30節までをお読みします。
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」。
天からの声を聞いて、群衆は「雷が鳴った」と言っております。そして、この声が聞こえたのは、イエス様のためではなく、群衆のためであったのです。つまり、群衆と言われているイスラエルの人々が、イエス様を信じることができるように、父なる神様は、イエス様に雷鳴をもって答えられたのです。