祭司の王国、聖なる国民 2015年11月22日(日曜 夕方の礼拝)

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祭司の王国、聖なる国民

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 19章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

19:1 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。
19:2 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。
19:3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。
19:4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。
19:5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
19:6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
19:7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。
19:8 民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、
19:9 主はモーセに言われた。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」モーセは民の言葉を主に告げた。出エジプト記 19章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は、今年最後の夕べの礼拝となります。今夕は出エジプト記19章1節から9節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着しました。かつて神様はモーセに、「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」と言われましたが、そのシナイの山に到着したのです(3:12参照)。2節に、「彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した」とありますが、イスラエルの人々がシナイの荒れ野に宿営する期間はおよそ1年間に及びます。民数記の10章11節、12節に、「第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった」とありますように、イスラエルの人々は、シナイの荒れ野におよそ1年間宿営したのです。出エジプト記19章から民数記10章10節までには、イスラエルの人々がシナイの荒れ野に宿営していた時の出来事が記されているのです。

 さて、モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に次のように語りかけて言われました。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」。ここで、主は、モーセを仲介人として、ヤコブの家であるイスラエルの人々と契約を結ぼうとしておられます。かつて、神様は、アブラハムと契約を結ばれました。その契約のしるしとして神様はアブラハムとその子孫に割礼を施すことを命じられ、その契約はイサク、ヤコブへと引き継がれたのでありました。イスラエルの人々は、そのヤコブの子孫たちであるわけです。神様はそのヤコブの子孫たちとモーセを通して契約を結び御自分の民にしようとなされるのです。イスラエルに掟を与えることによって王として君臨し、イスラエルを祭司の王国、聖なる国民とされるのであります。そのために、神様は、先ず彼らが体験したことを思い起こさせます。「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを」。私たちは聖書から、主がエジプト人にした10の災いについて学びましたけれども、イスラエルの人々はそれを見て、体験したわけです。また、彼らはエジプトからシナイ山まで、主が自分たちを力強い御手をもって守り導いてくださったことを体験したわけです。そのようにして、主がまさに自分たちと共におられる生きたまことの神であることを知ったのであります。その神様が、「今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」と言われるのです。「世界はすべてわたしのものである」と言われるように、世界は神様のものであります。ですから、すべての民が神様の民とも言えるわけです。しかし、神様はその世界の民の中から、イスラエルの人々を御自分の宝の民として選ばれたのであります。そのような神の宝の民として、神様は、イスラエルに御自分の御声に聞き従うこと、御自分の契約を守ることを求められるのです。イスラエルの人々は神の宝の民に選ばれた者として、神様の御声に従い、神様の掟を守るならば、実質的にも、神の宝の民となることができるのです(申命7:6参照)。主は、「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と言われておりますが、「祭司の王国」という言葉は、イスラエルの人々が祭司の働きを担う国民になることを教えております。イスラエルの人々は、神様と世界の民との仲介をする祭司の役割を果たす国民となるのです。神様の祝福がイスラエル人々だけに留まるものではなく、イスラエルの人々を通して、全世界の民へと広がっていくのです。かつて神様は、イスラエルの人々の先祖であるアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。・・・・・・地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」と言われました。神様は、アブラハムを祝福の源として召し出されました。神様の御計画はアブラハムとその子孫によって、地上のすべての氏族を祝福することであったのです。それと同じように、神様は、世界のすべての民が御自分を礼拝することができるように、イスラエルを祭司の王国とされるのです。

 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語りました。民の長老たちは、モーセから聞いた言葉を、今度はそれぞれ民に語り聞かせたのでしょう。「民は皆、一斉に答えて、『わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います』と言った」とありますが、ここに、イスラエルの人々の主と契約を結ぶ意志が表されているわけです。神様はシナイ山において、イスラエルの民と契約を結ばれるわけですが、神様は強制されるようなことはせず、イスラエルの人々の意志を確かめてから、契約を結ばれるのです。

 モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、主はモーセにこう言われました。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである」。ここに記されていることが実際になさるのは、20章21節以下であります。20章21節に、「民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った」とありますように、モーセは密雲の中で主から法を示されるのです。そのことは、イスラエルにおけるモーセの特別な地位を表しています。今夕の御言葉でも、モーセは山に登って主の言葉を聞き、それを民に伝えております。また、民の言葉を山に登って主に取り次いでおります。このようにモーセは神様とイスラエルの人々との間を仲介しているわけです。そのような者として、イスラエルの民がモーセを信じるようになるために、神様は、濃い雲にあってモーセに臨むと言われるのです。神様はシナイ山で、イスラエルの人々と契約を結ばれ、イスラエルの人々を御自分の宝、祭司の王国、聖なる国民とされるわけですが、その契約はモーセを仲介として結ばれるのです。

 さて、今夕の御言葉を私たちはどのように聞くべきでしょうか?おそらく、多くの人が自分たちに語られている御言葉として聞かれたのではないかと思います。そして、そのことは正しいことであるのです。なぜなら、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって罪の奴隷状態から解放され、イエス・キリストにあって結ばれた新しい契約により、神の宝、祭司の王国、聖なる国民とされているからです。新約聖書のペトロの手紙一2章9節、10節にこう記されています。新約の430ページです。

 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

 私たちは血縁から言えば、アブラハムの子孫でも、ヤコブの子孫でもありません。旧約の区分から言えば、まことの神を知らない異邦人でありました。しかし、その私たちがまことのイスラエルであるイエス・キリストを信じることによって、神の民とされたのです。そして、それは、私たちを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を広く伝えるためであるのです。そのようにして、私たちが祭司の働きをするためであるのです。私たちが祭司と聞きますと、いけにえをささげる姿を想像するかも知れません。しかし、祭司の働きはそれだけではありません。律法を教えることも祭司の働きであったのです(レビ10:11参照)。このように考えてきますと、イスラエルが神の掟を守ることによって、祭司の王国となることの意味も分かってきます。自分が神の掟を守らずに、人に神の掟を守るように教えることはできないからです。私たちも復活されたイエス様から、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われております(マタイ28:18~20)。イエス様から命じられたことをすべて守るように教える。そのようにして、私たちは祭司の役割を果たすように命じられているのです。そのことを覚えまして、私たちは、私たちが体験した、また体験している主の恵みの御業を広く宣べ伝えていきたいと願います。

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