エトロの助言 2015年11月15日(日曜 夕方の礼拝)

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エトロの助言

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
出エジプト記 18章13節~27節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:13 翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。
18:14 モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見て、「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」と尋ねた。
18:15 モーセはしゅうとに、「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。
18:16 彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えた。
18:17 モーセのしゅうとは言った。「あなたのやり方は良くない。
18:18 あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。
18:19 わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、
18:20 彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。
18:21 あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を/選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。
18:22 平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。
18:23 もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう。」
18:24 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、
18:25 全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした。
18:26 こうして、平素は彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのもとに持って来たが、小さい事件はすべて、彼ら自身が裁いた。
18:27 しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った。出エジプト記 18章13節~27節

原稿のアイコンメッセージ

 今夕は出エジプト記18章13節から27節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 前回、私たちは、モーセのしゅうとでミディアン人の祭司であるエトロが、モーセの妻と二人の息子を連れて、モーセのもとを訪れたお話を学びました。しゅうとエトロは、モーセから主がイスラエルのためになされたすべてのことを聞いて、次のように主をほめたたえました。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った。彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを」。そして、モーセのしゅうとエトロは、焼き尽くす献げ物を神にささげ、アロンとイスラエルの長老たちと共に神の御前で食事をしたのでありました。このようにして、モーセのしゅうとのエトロは、神の民イスラエルの一員とされたのです。

 今夕の御言葉は、その翌日の出来事でありました。翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいました。モーセのしゅうとは、彼が民のために行っているすべてのことを見てこう尋ねました。「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座について、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」。それに対して、モーセはこう答えました。「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」。実は、今夕の御言葉は、その置かれている位置について議論があります。ある研究者は、今夕の御言葉は、24章の「契約の締結」の後に本来は置かれていたのではないかと考えています。といいますのも、イスラエルの民にモーセを通して、神の掟と指示が与えられたことが20章から23章に記されているからです。例えば、21章を見ますと、「奴隷について」、「死に値する罪」について、「身体の傷害」について、「財産の損傷」について、「盗みと財産の保管」についてと、イスラエルに法が与えられています。今夕の御言葉は、このような法がモーセを通して、イスラエルに与えられていることを前提としているように見うけられます。また、イスラエルの民は、主と契約を締結してから、シナイ山のふもとに一年ほどとどまるわけですが、民が朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいたという状況は、その時の方がしっくり来るように思います。となると、モーセのしゅうとがモーセのもとを訪れたのは、24章の「契約の締結」の後であったということになるわけです。しかし、出エジプト記の編集者の意図によって、「エトロのモーセ訪問」は、シナイ山での契約の締結の前に持って来られたと考えられるのです。27節に、「しゅうとはモーセに送られて、自分の国に帰って行った」とありますから、おそらく、出エジプト記の編集者は、シナイ契約の前に、ミディアン人の祭司であるエトロのことを記しておきたかったのだと思います。ともかく、私としては、今夕の御言葉を、24章の「契約の締結」の後の、シナイ山のふもとに滞在していたときの出来事としてお話したいと思います。神の掟と指示とは、モーセを通して与えられました。それゆえ、民は、神に問うためにモーセのところに来たのです。そして、モーセはその裁きを通して、民に神の掟と指示を教えていたのであります。このようなモーセに対して、しゅうとはこう言いました。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを尋ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。あなたは、民全員の中から神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができ、この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう」。ここで、しゅうとエトロが言っていることは、モーセが一人で担っていた働きを信頼できる人に分担させるということであります。このような裁判制度は、おそらくミディアン人の共同体で行われていたのでしょう。小さな事件は信頼できる人に任せて、大きな事件だけをモーセが裁くようにすれば、モーセの負担が軽くなりますし、民も皆、安心して自分の所へ帰ることができるようになるのです。モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、その勧めのとおりにし、全イスラエルの中から有能な人々を選び、彼らを民の長、すなわち、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長としました。こうして、平素は彼らが民を裁き、モーセは難しい事件だけを裁くことになったのです。

 今夕の御言葉を読んで、おそらく多くの方が、使徒言行録に記されている、初代教会が執事を立てたことを思い起こしたのではないでしょうか?使徒言行録6章1節から7節までをお読みします。新約の223ページです。

 そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。

 ここで十二使徒たちは、食事の世話をさせるために、兄弟たちの中から七人を選ばせ、その人たちに食事の世話を任せました。そのため、十二使徒たちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することができ、神の言葉はますます広がっていったのです。モーセのしゅうとエトロは、「あなたは、民の全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び」なさいと言っておりましたが、ここでも使徒たちも、ある条件を付けています。それは、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」であります。このような条件は、牧会書簡と呼ばれるテモテへの手紙一にも記されています。例えば、監督(長老)の資格については次のように記されています。「監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません」。また、奉仕者たち(執事たち)の資格についても、次のように記されています「奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」。このように、教会では、一人の人に負担を負わせずに、長老たちや執事たちを立てて、働きを分担しているのです。そして、それは、元をたどれば、モーセのしゅうとエトロの助言にまで遡るのです。そして、何より、教会の主であるイエス・キリストが長老たちや執事たちを立てて、また信徒を用いて、教会の働きを導いてくださるのです。使徒パウロが、「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と言っているように、私たちは、それぞれの異なった賜物を忠実に用いて、キリストの体である教会を建て上げていきたいと願います。

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