エトロのモーセの訪問 2015年11月01日(日曜 夕方の礼拝)
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エトロのモーセの訪問
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- 村田寿和 牧師
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出エジプト記 18章1節~12節
聖書の言葉
18:1 モーセのしゅうとで、ミディアンの祭司であるエトロは、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。
18:2 モーセのしゅうとエトロは、モーセが先に帰していた妻のツィポラと、
18:3 二人の息子を連れて来た。一人は、モーセが、「わたしは異国にいる寄留者だ」と言って、ゲルショムと名付け、
18:4 もう一人は、「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言って、エリエゼルと名付けた。
18:5 モーセのしゅうとエトロは、モーセの息子たちと妻を連れて荒れ野に行き、神の山に宿営しているモーセのところに行った。
18:6 彼はモーセに、「あなたのしゅうとであるわたし、エトロがあなたの妻と二人の子供を連れて来た」と伝えると、
18:7 モーセは出て来てしゅうとを迎え、身をかがめて口づけした。彼らは互いに安否を尋ね合ってから、天幕の中に入った。
18:8 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせると、
18:9 エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで、
18:10 言った。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。
18:11 今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを。」
18:12 モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした。出エジプト記 18章1節~12節
メッセージ
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今夕の御言葉には、モーセのしゅうと(妻の父)で、ミディアンの祭司であるエトロが登場いたします。エトロについては、2章18節に「レウエル」という名前で記されておりました(3:1では「エトロ」)。エジプトから逃亡したモーセはミディアン地方にたどり着くわけですが、そのモーセが身を寄せたのがミディアンの祭司であるエトロの家であったのです。使徒言行録7章に記されているステファノの説教によれば、モーセはミディアンの地で40年を過ごしました。モーセはホレブの山で、主に召し出されるまで、40年もの間、エトロと生活を共にしていたのです。エトロがモーセを訪ねたのは、「神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた」からでありました。先週、私たちは、イスラエルとアマレクとの戦いについて学びましたが、このこととも関係があったのかも知れません。ともかく、エトロのもとに、神がモーセとその民イスラエルのためになされたことのうわさが聞こえて来たのです。エトロは、モーセが先に帰した妻のツィポラと二人の息子を連れて来ました。モーセは妻と息子たちを連れてエジプトへ帰ったのですが、何らかの理由があって、妻と息子たちをエトロのもとへ帰していたようです。モーセは主から託された務めのために、一時的に家族と別居していたのです(一コリント7:5参照)。ここには二人の息子の名前の由来が記されておりますが、ゲルショムについては、2章22節にも記されておりました。モーセは、「わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ」と言って、息子をゲルショムと名付けました。ここには、モーセの孤独感というものがよく表されていると思います。また、モーセは二人目の息子に「エリエゼル」という名前を付けました。このエリエゼルについては、ここで初めて出て来るのですが、その意味は、「神はわが助け」という意味であります。その由来については、モーセが「わたしの父の神はわたしの助け、ファラオの剣からわたしを救われた」と言ったからだと記されていますが、ここにはモーセの神様への感謝の思いが表されています。私たちはモーセが付けた二人の息子の名前から、モーセの霊的な状態を知ることができるのです。
モーセのしゅうとであるエトロは、モーセの息子たちと妻を連れて荒れ野に行き、神の山に宿営しているモーセのところに行きました。この「神の山」は、かつてモーセがエトロの羊の群れを追って来た「ホレブ」であり、ミディアンの地からそう遠くはなかったようです。モーセは、「しゅうとであるエトロが自分の妻と二人の子供を連れて来た」と聞くと、出て来てエトロを迎え、身をかがめて口づけしました。モーセはしゅうとであるエトロを最大の敬意を表して迎えるのです。彼らが互いに安否を尋ね合ってから天幕に入ると、モーセはエトロに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのことを語り聞かせました。すなわち、イスラエルは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせたのです。ここで、モーセは自分がしたことを語り聞かせたのではありません。モーセは主が自分たちのためにしてくださったことを語り聞かせたのです。ここでモーセがしていることは、いわゆる「証し」であります。そして、「証し」とは、自分がしたことよりも、自分のために主がしてくださったことを語り聞かせることであるのです。エトロは、噂としては、神がモーセとその民イスラエルのためになされたすべてのこと、すなわち、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いておりました。しかし、ここでは、モーセ本人から、自分たちが体験した主の恵みの証しとしてそのことを聞いたわけです。そのモーセの証しを聞いて、エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んでこう言います。「主をたたえよ/主はあなたたちをエジプト人の手から/ファラオの手から救い出された。主はエジプト人のもとから民を救い出された。今、わたしは知った/彼らがイスラエルに向かって/高慢にふるまったときにも/主はすべての神々にまさって偉大であったことを」。エトロは、ミディアンの祭司でありますが、主をほめたたえております。ミディアン人は、創世記25章2節によりますと、アブラハムと妻ケトラとの間に生まれたミディアンの子孫であります。ミディアン人もアブラハムの子孫でありますから、まことの神様への知識を持っていたと思われます。そのミディアンの祭司であるエトロが、主がイスラエルの民をエジプト人のもとから救い出されたことにより、「主はすべての神々にまさって偉大であったこと、またあることを今知った」と言うのです。出エジプトの出来事は、主がすべての神々にまさって偉大であられることを知らしめる出来事であったのです。12節を見ますと、「モーセのしゅうとエトロは焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげた。アロンとイスラエルとの長老たちも皆来て、モーセのしゅうとと共に神の御前で食事をした」と記されております。ミディアンの祭司であるエトロは、主にいけにえをささげることによって、また、モーセとアロンと長老たちと神の御前で食事を共にすることによって、イスラエルの一員となったのです。
前回の夕べの礼拝の説教において、私は、「旧約のイスラエルはいわゆる民族共同体であった」と申しましたが、これはおおざっぱな言い方で、誤解を招く言い方であったと思っております。分かりやすいのでありますが、正確な表現ではありません。では、イスラエルはどのような共同体かと言えば、それは信仰共同体であると言えるのです。イスラエルの人々がエジプトを脱出したとき、「種々雑多な人々もこれに加わった」と記されておりました。血筋としてはアブラハムの子孫ではなくても、主を信じることにより、他の民族の者たちもイスラエルに加わったのです。それは、イスラエルの神である主が、天地万物を造られたお方であり、すべての神々にまさって偉大なお方であるからです。主はイスラエル民族だけの神ではなく、すべての人の神であるのです。主の御心は、イスラエルを通して、すべての民を祝福することであるのです(創世12:3、出エジプト19:6参照)。
出エジプトという出来事によって、イスラエルという信仰共同体が生まれました。それと同じように、イエス・キリストの十字架と復活という出来事によって、教会という信仰共同体が生まれたのです。もちろん、それは別々のものではありません。イエス・キリストの出来事によって、罪の奴隷状態から解放され、神の子とされた私たちは神のイスラエルであるのです。ですから、私たちは、旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を私たちの歴史として学んでいるわけです。私たち日本人からすれば、イスラエルの歴史は関係のないように思われるかも知れませんが、神の民の歴史として、私たちは旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を学んでいるのです。イスラエルのために神様がどのようなことをしてくださったのかを学んでいるのです。
私たちは、モーセのように、自分のことではなくて、主が私たちのためにしてくださったことを証しする者となりたいと思います。神様が私たちをこの地上に生まれさせ、すべてのものを与えて育んでくださっていること。私たちの罪を赦すために、御子イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださったこと。そして、イエス様が父なる神の御心に従い、私たちを罪から贖うために、十字架の死を死んでくださったこと。さらに、神様が私たちの初穂としてイエス様を栄光へと復活させられたこと。イエス様が父なる神の右に座し、執り成してくださっていること。そして、もう一人の助け主として聖霊を遣わしてくださっていること。いつの日か私たちの救いを完成するために、再び来てくださること。これらはすべて、三位一体の神である主が、私たちのためになしてくださったこと、またなしてくださっていること、なしてくださることであります。そのことを、私たちは主の日の礼拝ごとに聞き、主をほめたたえているのです。そのようにして、主がこれらのことをあなたのためにしてくださったことを宣べ伝えているのです。